封建制度から民主主義制度に移行する過程は大きく分けて三つあります。
一つはⒶカルバン派諸国(イギリス、アメリカ)のように新しい強固なグループ主義の移行によって行われるものです。
二つ目はⒷルター派諸国(北欧諸国)のように他国の成功例の影響によって、君主と国民が協調的に実施していくものです。
三つ目は、©共同体の概念によって、共産主義的平等主義傾向の強い急進的な動きにより行われるものです。(ドイツ、フランスの類似点としては、この過程の要素を部分的に経たことです。)
最後のものは、何とか共産主義国家の成立から免れなくてはなりません。
しかし、免れても歴史的に見て安定した民主主義が成立するにはかなり紆余曲折を減らなければなりません。
ドイツにしても、フランスにしても旧支配層のグループ主義を押しのける新しいグループ主義がないためです。
ドイツの旧支配層ははメリットシステムによって裏打ちされた軍部中心の 官僚組織、フランスの旧支配層は封建時代からの王党派です。
ドイツでは、プロイセン時代のカントン制度、メリットシステム導入によって、前支配層の封建的支配者であった土地貴族ユンカーを包有しながら、グループ主義が形成されていきます。
これは、イギリスにおいて貴族階級の支配からジェントリーそしてジェントルマン支配層にグループ主義移転して行ったのと類似しており、両方とも前支配層は除外されたのでなく、ただ中心的・主役的立場を降りただけで、支配層の一部として包有されたため、その移行が激しい抵抗なく、比較的スムーズに行われました。
ただ、決定的な違いとして、カルバニズムの影響の強かったイギリスにおいては、ジェントルマン資本主義の下、富を第一とするグループ主義から安定した民主主義が築かれたのに対して、ドイツではルター派国となった北欧ほどではないにせよ半ルター派国的環境からカルバン派諸国に比べると、資本主義の発達が遅れた上、先に君主を中心に置いた軍部中心の官僚支配がメリットシステムによって裏打ち、強固にされて確立したため、民主主義的動きは封じ込められて行きます。
君主の寵臣の軍官僚が強い影響力を及ぼす事態が続き、ドイツ統一の中心人物であり、鉄血宰相として有名なビスマルクにしても、ヴィルヘルム4世の側近であるゲルラッハ将軍に見出されて、政治家として育てあげられ、その次の君主の側近で同じく軍官僚で後にプロイセン首相も務めるローン元帥により首相の地位に据えられます。
ユンカーの子息はプロイセン王室の軍人か文官になるのが通例の中、ビスマルクは後者の文官の道を進みます。しかし、すぐに辞職し、実家の地主の仕事をしていました。
君主の取り巻きの二人の軍官僚の取りなしがなければ、とても政治的な職に就けなかったと言えます。
ドイツにおいて自由主義政府が誕生した時、ゲルラッハ将軍はそれに対抗して、カマリラという影の政府を結成します。
政府よりも国王に実権が握られているため、このカマリラが徐々に支配的な地位を確立していきます。
次の君主の側近であるローンは軍制改革を任せられ、民主主義的な動きを封じる権威主義体制の中心的存在となっていきます。
民主主義的要素が強いラントブェーアを後備軍にして弱体化させながら、正規軍の現役兵役年数を維持し、徴兵数を増加させようとしますが、議会はその法案の阻止を図り、国王ではなく議会に責任を負う内閣の成立を要求するなど民主主義的動きを見せます。
そのような動きを肯定する選挙結果に動揺する君主に対して、国王が議会に譲歩するなら軍は国王に不審を抱かざるを得ないと脅迫し、議会が否決した予算を通し、軍備増強を進める反民主主義的、議会無視の政権運営をする覚悟のあるビスマルクを首相に就けました。
ビスマルクの無予算統治によって、ローンは軍制改革を断行し、軍事国家化が進められて行き、普墺戦争ではオーストリア軍をわずか6週間でプロイセン軍は下し、ドイツ統一はオーストリアを除外し、プロイセン中心に進められて行きます。
プロイセン王が、そのまま統一され建国されたドイツ帝国の初代皇帝を兼務します。
二代目皇帝は在位3ヶ月で病死し、三代目皇帝の時代になります。
皇帝は帝国主義的政策を推進し、それが第1次世界大戦に繋がります。
しかし、大戦を総力戦で戦うしかなくなるとヒンデンブルク元帥とルーデンドルフ大将による軍部独裁体制が確立して、参謀本部は軍事だけでなく、新聞・映画などの統制・宣伝、外交政策、軍需生産その他内政に関するあらゆる分野に手を伸ばし、統括するようになります。
戦局が極めて不利となり、敗戦が不可避の状態になると、水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起き、皇帝は退位、亡命して、社会民主党を政権党としたワイマール共和国が成立します。
この頃の社会民主党は初期のマルクス的なものではなく、穏健修正主義的なもの、つまりルーター派諸国である北欧の社会民主党と類似したものとなっていました。
ルター派が既存体制と協調的であったように、この種の社会民主党も協調的であり、戦時中も総力戦を支持し、ドイツ革命の際も、共産主義的革命に急進することを嫌い、旧支配層である軍部と提携し、共産主義勢力を鎮圧します。
しかし、今度は軍部によるカップ一揆が起きると、それを鎮圧するために共産主義勢力も含む労働者のゼネストに頼り、それにより共産主義勢力の勢いが増してしまうという悪循環に陥ります。
新しい支配層となるべき民主主義的政党の第一党で政権党である社会民主党は旧支配層の強力なグループ主義を除外して、新しい支配層のグループ主義を確立できない状態となりました。
その理由としては、ルター派国の性質に準じて旧支配層に対して協調的・従順的傾向があることや、旧支配層における対抗勢力が共産主義勢力の存在によって勢力の分散ができてしまっていること、さらにルター派諸国特有の穏健的社会民主党は脱グループ主義的性質を持つことなどが挙げられます。
北欧のように、上からの民主化に対する協調的な作用は、民衆のプロテスタントの九割はルター派でも、君主一族はカルバン派という特殊な環境によって起こりませんでした。
そればかりか、資本主義が発達し、皇帝の親政が開始されるとカルバン派特有の帝国主義的政策が推進され、さらに軍部中心の官僚組織のグループ主義は強固化されてしまっていました。
これらの共産主義的左の、旧支配層軍部の 右の両方、左右の攻撃によりワイマール共和国の政治的不安定が引き起こされ、政権党社会民主党は徐々に支持を失い、政権交代、政権の離合集散が相次ぎ、ワイマール共和制においては、ヒトラーが首相になるまでの十数年の間、十四人もの首相が変わるような状態でした。
この様な中で、必然的に実権を動かしていくのは旧支配層である軍官僚を中心とするグループ主義でした 。
ワイマール共和国の初期における軍最大の実力者となったゼークト将軍は、ベルサイユ条約により禁止された参謀本部を兵務局として偽装し、その局長に就任、カップ一揆においては共和国の鎮圧命令を軍は軍を撃たないとして拒否し、軍の独自性を確立しました。
逆に共和国に忠実であろうと鎮圧命令に唯一賛成した軍高官であったラインハルト統帥部長との政治闘争に勝利し、後任の座に着きます 。
その後、戦前の軍部独裁体制の象徴的存在であるヒンデンブルクが政党無所属で大統領に当選すると、ゼークトの側近であり、兵務局長も歴任し、ヒンデンブルクの息子とも親しいシュライヒャーは政治将軍と言われるほどに巨大な政治的権力を振るうようになります。
ゼークト後のドイツ軍を掌握した国防次官のシュライヒャーはヒンデンブルク大統領の側近として、議会に基盤を持たない大統領内閣を増産していきます。
まず、ブリューニングをヒンデンブルクに推薦し、ブリューニング内閣が行き詰まると友人のパーペンを推薦し、パーペンが行き詰まると、自らが内閣を組織して行きます。
この間の立法は大統領緊急令が国会議決の立法の数をはるかに上回り、当然の様に民主主義から派生する結果的客観的評価システムが正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態(詳しくはこちらをクリック)の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、ナチスの台頭、ヒトラー内閣の成立に進展してしまいます。
ナチスの支持層、人材供給源は旧支配層と密接に繋がっていました。
ワイマール共和国において、旧支配層の大きな基盤となった義勇軍はナチス党の党員や指導者の大多数の出身母体となり、ヒトラーが世に出るきっかけとなったミュンヘン一揆にしても戦前の軍部独裁体制の中心にいたルーデンドルフを神輿に起こされたものです。
中途半端な民主主義が生み出した❸の政府形態を脱するために反民主主義的な旧支配層の支持基盤が生み出したものがナチス党であったとも言えます。
フランス革命後のフランスにおいても、同様に左右の攻撃にさ曝され、政情が不安定な状態が続き、❸の政府形態を脱する動きとして、何度か❷の政府形態の帝制や王制を経て、第三共和政を迎えますが、やはり小党分立により政権は頻繁に交替し、65年間に87をも内閣が成立し、ブーランジェ事件などの共和政の危機的時期もありましたが、かろうじて共和政の形態は、ドイツ軍のフランス侵攻という外的要因が来るまでは堅持して行きました。
第三共和政以前と以後の大きな違いはメリットシステム(詳しくはこちらをクリック)の機能度合いの差であり、それは第三共和政・第四共和政と第五共和制の違いにおいても、同様のことが当て嵌まります。
第三共和制以前は土木学校の技師の専門学校などからの技術系官僚グループなどの存在はあっても、ドイツの様に行政全般に大きな影響力・支配力を及ぼすものはありませんでした。
それが普仏戦争で完膚なきまでにプロイセンに敗北したことによって、フランスはその要因をプロイセンの大学を中心としたメリットシステムに答えを見い出し、第三共和政発足初期にENA の前身である政治学自由学校が創立され、メリットシステムが生み出すグループ主義が、影響力を行政全般に持ち始めます。
第五共和制になり、フランス随一のエリート官僚養成学校となる ENA が設立されると、政権中枢をENA卒業生エナルクが占めるようになります。
エリート官僚出身の国会議員は第四共和政時の3倍になり、政府閣僚ではそれらの増加率はさらに著しくなり、エナルクが政財界トップの3/4を占めるなど、フランスはエリート官僚たちによって支配されることから、官僚たちの共和国とも呼ばれるようになります 。
メリットシステムの機能度合いが強くなるほど、議会政治は安定して行きました。
第三共和政前は❷の政府形態との交代を繰り返す程の激しい不安定さが、以後になると短命内閣という性質は引き継ぐにしても、❷の政府形態に戻ることはありませんでした。
初期においては、王党派などの❷の政府形態を指向する勢力が大きく、ブーランジェ事件なども起きましたが、中期以降は共和制が定着して行きます。
しかし、戦後の第四共和政になっても第三共和政時代の短命内閣の不安定な政局運営は依然として変わりませんでした。
第五共和制において、出身者は高等公務職の地位を就く権利を有し、国家公務の中心の貴重な官僚キャリアを保障される ENA が設立されるとともに、大統領の執行権が強化され、行政官僚機構が強力にされることによって、二大ブロック制から二大政党制の流れにより、21世紀初頭までは安定した政治運営がなされました。
ドイツとフランスの相違点は、ドイツは安定した民主主義が成立する前に、条件的客観的評価システムであるメリットシステムによる強固なグループ主義が形成されてしまったのに対して、フランスは逆であるということです。
一度、条件的客観的評価システムが結果的客観的評価システムとの連動なしに作動し、強固なグループ主義を形成してしまうと、それを内政的観点で覆すことは極めて困難になります。
中国における千年にもかけての科挙官僚支配や第二次大戦前のドイツ・日本の様にメリットシステムによって作り出されたグループ主義が反民主主義的なグループ主義 を包有 してしまった場合を見てもわかります。
中国における科挙制度においての儒教思想・ドイツにおける土地貴族のユンカーを基盤とした君主中心思想・日本における天皇中心主義の様なものと違って、フランスにおけるメリットシステムの方向性が、民主主義に向いていたことが、なかなかカトリックの他決思想な土壌であることなどから根付くことが難しかった安定した民主主義を定着させることになりました。
フランスでは、プロテスタントのカルバン派諸国のように、勤労が強く尊ばれ、資本主義が発達し、それらにより形成された新しいグループ主義によって封建的支配者層の旧グループ主義を押しのけていくことがありませんでした。
そのために、常にそれら右寄りの勢力や左寄りの共産勢力により、民主主義は揺らぎ安定できない中で、新しいグループ主義の存在となったのはメリットシステムによって強固になった官僚組織です。
癒着や縁故などの各省の勝手な高級公務員採用を排し、高級官僚採用の民主化を目的として作られた ENA は民主的なエリートをつくる学校としてスタートしました。優れた政治的知識と素質を持つものが恵まれた地位・権限・待遇を得る、これは特に政治が最も社会の利益と直結する分野であることを考えると社会利益主義的観点では、最優先事項と言ってもいい事柄と言えます。
優れた待遇によって、優れた人材が集まります。
政治的エリートが他の職種より社会の利益において最も重要な職種である以上は、待遇面においても最も優れた待遇を受けることは、 公益という観点においては極めてあるべきことと言えます。
しかし、これらが実際なされているのは、共産主義国家や独裁国家に多く、民主主義国家にはあまり見られません。
フランスは民主主義国家でありながら、独裁的国家の持つ唯一の長所と言えるこの性質を併せ持つ稀有的な国家と言えます。
カトリックの影響による、利益を不浄のものとする反資本主義的精神やカルバン派諸国に比べて勤労性の低い国民性を持ってしても、20世紀末期まで世界4位の GDP を維持していた所以と言えます。
国家が企業を統治する形態を採り、民営化が進んでも主要企業には政府が大株主となり、研究開発費における政府負担の割合も極めて高い状態にありました。
条件的客観的評価システムであるメリットシステムが強く作用している官僚組織が主導する政府が、民主主義から派生する結果的客観的評価システムの修正を受けながら資本主義体制の下で経済をより良い方向性にイニシアティブを持って誘導することは、当時の他の先進国と比較しても客観的評価システムの充実度合は高い状態であったと言えます。
民主主義の出発点である市民革命により世襲・閨閥支配は 打ち倒されているため、日本におけるメリットシステムが官僚組織と閨閥が癒着したグループ主義を生み出した様なことも起こりませんでした。
しかし、これは条件的客観的評価システム全般に当て嵌まることながら、時間が経るに従って、強力であればある程、そのシステムをクリアした集団によるグループ主義が形成され、それが同程度の強力な結果的客観的評価システムによって制御・修正されてなければ抑えることは難しくなります。
フランスにおけるメリットシステム下では、日本以上に天下りが蔓延り、加えて首相、パリ市長、会計検査官の兼職の様に政治分野に転出しても、元の官僚の身分が保証されるなど、極めて官僚グループは優遇されており、メリットシステムの質の問題はともかく、その影響力は極めて強いものとなります 。
それに対して、それを制御する民主主義から派生する結果的客観的評価システムは他決思想の土壌であることと大統領が強い権限を持つ半大統領制であることから比較的弱いものになっていました。
カトリック国であるフランスはローマカトリック教会の長女と言われたり、フランス共産党もモスクワの長女と呼ばれる様に権威的なものに対して、他国に比べて極めて忠実に考えを委ねる性質があります。
客観性が保たれるためには、各自の自決思想が必要不可欠で、他決思想では上層部の主観的裁量が幅を効かせ、結果的客観的評価システムは骨抜き状態になってしまいます。
半大統領制でも、ワイマール共和国の共和国後期のドイツの様に、大統領が政党に所属してなかったり、議会の過半数の支持により成立する首相と内閣が存在しなかったものに比べると遥かにましではありました。
しかし、他の半大統領制の国々は実質的には議院内閣制に変化している中、フランスにおいてはコアビタシオンの様に大統領と首相が別政党の出身者が就くなどの状態が生まれ、権限の強い大統領と首相・議会は対立し、国家の運営に大きな支障をきたす場合も多々ありました。
強い条件的客観的評価システムに対し、弱い結果的客観的評価システムであることから、メリットシステムが生み出したグループ主義が制御不十分な状態で増大して行き、右派政権であろうと左派政権であろうとフランスの政治を牛耳っているのはエリート官僚のグループ主義であり、それらの状況を改善するための選択肢を国民が選ぶことが難しくなってきます。
新党に期待するか、極右的な政党に支持が流れるかどちらにしても、結果的客観的評価システムが効きにくくなり、悪循環に陥ってしまいます。
ドイツもフランスも両方ともに中途半端な民主主義により逆境に陥っています。
ドイツは初期にメリットシステムを導入することによって国力が増強し、その後そのグループ主義によって安定した民主主義が阻害されます。
フランスは逆に初期においてはメリットシステムが余り充実されずに、そのために普仏戦争など常にドイツの圧力を受ける状態になりますが、後に中途半端な民主主義の形態を構築した時点でメリットシステムを導入することによって安定した民主主義に至ります。
しかし、他決思想が原因で、結局そのグループ主義を克服できないで、再び不安定な状態に陥っています。
では戦後のドイツがそれらの問題に、その後どう対処しているか見ていきます。
メリットシステムによるグループ主義が 反民主主義的グループを包有してしまうと極めて強固となり、内政レベルで解決することはかなり難しくなります。
しかし、ドイツは結局、戦後に連合国による直接支配を受けることによって、それを取り除いていきます。
旧ナチス党員であったものは徹底的に追及され、ほとんどの官僚は解雇され、政権の土台が替えられました。
軍組織にしても、敗戦から十年後に再軍備が行われましたが、その戦力の多くをNATOに提供し、その供出の軍隊に対する指揮権はドイツ政府は持たない形となりました。
政党と官僚組織が解離しないように、大部分の職員は政党会派に属し、幹部職員は政党の得票率に比例して割り当てられて行き、政権交代時には政治的官史の約半数が一時休職して行きます。
休職している官僚は野党が第一党に なっている州政府高官や大学教官などに就き、野党側の政策を作るリソースになって行きます。
言わば、アメリカの猟官制度における欠点である財界など民間との癒着を大半を職業公務員を採用し続けることにより防ぎ、長所である政策実施を直接担う高級官僚を大幅に交代させることによって大きな改革を可能とする点も含む、アメリカ官僚制の改良版とも言えるものになりました。
身分保障が強固で生涯保障が優遇されているために、天下りなどの癒着もほとんどなく、民主主義から派生する結果的客観的評価システムの機能度合は他国に比較してかなり高いものとなりました。
戦後のドイツは客観的評価システムにおいて、結果的なものだけでなく、条件的な面でも他国より先を進んでいます。
条件的客観的評価システムの二段階目のメリットシステムだけでなく、学歴よりもより実践的な職業能力を評価する三段階目に位置するものにおいても、ドイツは先駆け的存在でもあります。
中世の同業者組合による徒弟制度を起源とするマイスター制度は従来の手工業だけでなく、戦後においては工業マイスター制度も正式に発足させ、充実した職業訓練制度の下、評価システムによって高スキルの労働者を育成しています。
これらの各地方に広範囲に育成された熟練した技術者がミッテルスタンドと呼ばれる技術水準の高い中小企業を形成して行きます。
ミッテルスタンドは大半はものづくり企業であり、ドイツ経済のエンジンとも言われ、ドイツの稼ぎ出す貿易黒字の七割を占め、ドイツ経済を文字通り支えています。
ニッチ分野で世界をリードする技術と品質を 培い、高付加価値製品の国内生産維持して、充実した対外経済の国家的支援もあって、グローバル市場での存在感を高めて行き、大企業の下請けではなく、自立・独立したビジネスモデルを堅持して行きます。
アメリカの近現代史の説明に言及した様に、資本主義下で結果的客観的評価システムを伴う民主国家がコントロールする経済は、グループ主義の点でも、経済発展の点でも、客観的評価システムの点でも大企業や財閥の支配する経済よりも、政府のバックアップの下で中小企業やベンチャー企業が中心に活躍できる経済の方が極めて望ましい形態と言えます。