漫画『進撃の巨人』を読んで

『進撃の巨人』を読んで最も印象的なシーンは自分にとっては神回といえる、敵・味方(ハンジ達とマーレ残党、アニ、ガビ、ファルコ達)が集合し、衝突・和解そして同じ方向性で進むという127・128話の場面です。和解の画像

 

このシーンに『進撃の巨人』の全てのストーリー(まだ完結していませんが・・・・)の中核となる主旨が凝縮されているように、個人的に感じました。

 

初めは、マガト隊長が散々殺し合ってきた者同士で飯を囲むか…と嫌味を言い、ハンジ達にエレンを止めようと気が変わった理由を聞かれます。ハンジから虐殺なんて望んでいないと言われ、正義に目覚めたというわけか…マガトが呟くと、ジャンが正義を語ったとマガトに反論し、ジャンとマガトの間で口論が始まります。

 

エレンを放っておけば「島の悪魔の楽園」が手に入るのに、なぜエレンを止めるのか?

マガト隊長は皮肉を込めた言い方で質問する。

さらにこう続ける。

「つまり正義に目覚めたというわけか」

「正義だと?」

これにジャンがキレます。

散々仲間を殺してきた敵が正義を語っているのだから当然です。

このあともジャンとマガト隊長の口論が続きますが、ハンジが仲裁に入ります。

その後いくつかの衝突が続きます。

しかし、それらの衝突を経て、一晩経て、朝を迎えるとマガト隊長は

コニー、アルミン、ミカサ、ジャンの名前を一人ずつ呼ぶと、謝罪を始めました。

昨夜の自分の態度を謝らせてほしいとのこと。自分を正当化するために足掻いた、卑劣なマーレの人間である自分を認めたくなかったと言います。

 

あの強硬派だったマガト隊長のこの言葉には非常に重いものがありました。

 

『約束のネバーランド』の172話『自由』を読んだとき(詳しくはReading⑵漫画『鬼滅の刃』を読んで)同様に、心に深く刻まれました。

 

誰もが自分自身を正当化する思考回路が何重にも張り巡らされています。

当然と言えば当然です。人はその時その時で、誰しもが程度の差があるにせよ熟考し、最善と思う選択肢を歩んでいます。

その蓄積された経験・記憶が信念となるからです。

逆にそれらが薄い人は、人として信頼できませんし、実質的に他人の判断や周りの状況に流され、一部のグループ主義の主観性を生み出すことに繋がります。

かといってそれに固執することも、自分自身の主観性の世界に閉じ籠ることになります。

自らの積み重ねて来た過去も貴重なものですが、他の人々からの要素からそれを改善し、更により良いものにして行く未来も大切です。

では両方を成立させ、的確な客観性を生み出すにはどうすべきか?

自己啓発本の内容を自らに取り入れる際に、10のうち2か3位にし、アンチの意見も1か2取り入れるとして差し引き計10分の1程をさまざまなものから吟味し、自分にマッチングするものをセレクトする10分の1の法則を利用しています(詳しくは⑷各種の自己啓発本を読んで(総論的に))がこれを他の人々からの要素においても適応させるようにしています。

自分の意見と他人の意見、半々で取り入れてはという考え方もありますが、他の人々は多数いますが自分は一人しかいません。

それでは実質的に自らの積み重ねて来た過去が軽いものになってしまいます。

よって,丁度10分の1程度がいいのではないでしょうか?

もちろん、これは原則的なものなので、状況によって比率は当然、変化させるべきで、マガト隊長のように180度考え方を変化させることも時には必要なことではないかと思います。

 

 

 

 

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