記事の目次
①『最強国の条件』の要約
先ずエイミー・チュア一著『最強国の条件』の要約をしていきます。
ローマ、オランダ、大英帝国など時代を築いた世界史上最強国となった国は、その寛容さをもって、人種・宗教・文化を問わず、世界の優れた人材を受け入れることによって、覇権を成し遂げていきますが、寛容すぎたが故に不寛容が生まれた結果、ほぼ例外なく最強国は衰退していくという内容です。
②自分の見解
寛容性は、歴代の覇権国だけでなく、現代においても小国ながら世界最上位の国際競争力を常にキープしているシンガポールやスイスなどにも共通する項目です。😀
しかし、建国に近い状態でなければ、つまり国の繁栄が一定の度合で達している状態においては、移民に対して選別なく受け入れることがベストだとは思いません。
あるべき寛容性は結果の平等的なものではなく、機会の平等、公平性を追求したもので、公益に沿う観点でのセレクトは必要不可欠と思います。
そうしなければ、古代のローマ帝国がアントニヌス勅令によって、崩壊の道を進んだように、また近現代のスウェーデンが大幅に移民・難民を無制限に近い形で受け入れたために、暴動犯罪率が急上昇し、対立の構図に苦難したように、国力を大幅に落とし、衰退することに直結してしまいます 。
機会の平等、公平性を追求した寛容性は国を繁栄させ、結果の平等的な寛容性は国力を大幅に落とさせる
これが原則のような気がします。
また、結果の平等的な寛容性つまり、国の繁栄が一定の度合で達している状態において、移民に対して選別なく受け入れるということは国の概念、国家の概念が消失するということになります。😨
そうなると、国家単位での客観的評価システムを作用・機能させる対象がなくなることになります。
それは、よりよい公的社会をつくるという点で大きなマイナスとなってきます。
実質的に世界一つの国家の形をとると、ベンチマーキング的な他の国家に比較しての改善・改革的実践が不可能となります。
そして、一度でも、その世界一つの国家が独裁的な圧制体制をグループ主義により確立してしまうと、修正をするのが極めて困難になります。😥
思うに、寛容性が機会の平等、公平性のレベルにある間は国は繁栄し、その寛容性が機会の平等、公平性のレベルを超えて、結果の平等的なレベルに達したときに、国家は衰退していくということの様に感じます。
客観的評価システムの観点で見ると、機会の平等、公平性つまりチャンスの平等は評価する母体を大きくするので、当然プラスに働きます。
しかし、結果の平等まで行くと、客観的評価システム自体が意味のないものつまり無力化してしまいます。
やはり、社会利益、公益性をはかる物差しは寛容性というより、客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)の充実度で見るほうが適切のように思います。