では、次に半ルター派国のドイツの歴史を遡って見ていきます。
記事の目次
①半ルター派国とは
半ルター派国としたのは、ルター派を中心としたプロテスタント教徒とカトリック教徒がほぼ拮抗しているためで、北欧のように大半をルター派プロテスタント教徒が占めるのと状況が異なるためです。
カルヴァン派の場合は資本主義万能主義的なグループ主義の要素が強いため、一定の割合を占めれば、ドミノ現象が起きることによって、強い影響力を発揮するため、カルヴァン派が大半を占めなくても、カルバン派国として位置付けていけます。。
しかし、ルター派の場合は平等思想などグループ主義解除作用のため、大半を占めなければ影響力を強く発揮することは難しく、ドイツのようなケースの場合は半ルター派国として、ルター派諸国とは別に表記して行きます。
ドイツはルター派プロテスタント、メリットシステム、共産主義などを生み出した国で、イギリス同様、良い意味でも悪い意味でも近代を先導した国です。
②古代・中世のドイツ
古代においてドイツはフランク王国が分裂した東フランク王国を起源とします。
東フランク王国オットー一世がローマ教皇から戴冠を受けること、つまりローマ教会と密接に結びつくことによって、神聖ローマ帝国が事実上始まります。
神聖ローマ帝国は緩やかな連合体を形成します。
それは歴代皇帝はドイツに居ながら、毎年のようにイタリア政策に集中せざる得なかったことにより、本地支配がおざなりになってしまったことが理由の一つに挙げられます。
古代から中世においてのカトリック教圏のヨーロッパ諸国は、有力諸侯等の貴族が皇帝権強化による自らの権力低下を懸念し、皇帝を牽制するためにローマ教会と繋がり、❸の政府形態(クリックでexplainにリンクします)に陥っていました。
ドイツにおいては、イタリア政策集中の要素から、この傾向がさらに他国に比べて顕著になり、、叙任権闘争や大空位時代を 生み出し、ヨーロッパの中でイギリス、フランスに比べて後進国として、中世までは認識されるようになります。
他国よりもドイツはローマ教皇による政治的・財政的干渉が強く受けやすい状態が続き、教皇庁による利益搾取の標的とされ、ドイツ農民は角のない牝牛で、種を蒔いても収穫物は坊主に持っていかれるという歌からも、ドイツはローマの牝牛として見下げられる状況でした。
③ドイツにおける宗教改革
この状況に乗じて、フィレンツェの大富豪メディチ家出身のローマ教皇レオ十世は贖宥状をドイツで最も大々的に販売して、さらなる搾取を試みります。
しかし、これがルターによるドイツにおける宗教改革の起因となります。
元々、有力諸侯の貴族による分権的支配もあって、ルター支持派の諸侯が皇帝の意に反する形で、ルター派のプロテスタントを採用していき、各諸侯の領邦の教会をローマ教皇から独立させた領邦教会制度を根付かせていきます。
しかし、それがカトリックに留まった皇帝の支配力をさらに薄めて行き、❸の政府形態の傾向がますます強まります。
そうなると、自然の流れで内乱が起きるのが歴史上の鉄則です。
宗教対立を起点とした内乱が神聖ローマ帝国内で激しくなり、三十年戦争では他国も巻き込んだ長期の戦争になり、その主戦場になったドイツでは農村や産業が徹底的に荒廃し、人口が半減し、分裂が固定化されました。
④ドイツの中の最有力な領邦となるプロイセン
多数の領邦国家に分裂したドイツの中で、大きな力を持つようになるのが、北東部の東方植民によって生まれた国であるプロイセンです。
プロイセンは東方植民を 進めたドイツ騎士団国家を起源とします。
ドイツ騎士団は、十字軍の時代に設立された軍事力を備えたカトリック修道会で、北方十字軍の名目に東方植民を展開し、バルト海沿岸のスラブ系プロイセン居住地に進出・征服して、ドイツ人の国家、ドイツ騎士団領を作りました。
ドイツ騎士団国家は選挙で選ばれる総長を統領とした選挙君主制国家の形態を取りました。
結果的客観的評価システムを伴わない、民主制・選挙制は必然的に❸の政府形態に陥ります。
神聖ローマ帝国における選帝制然り、黄金の自由におけるポーランド然りです。
近隣国のポーランドが、木造のポーランドに現れて煉瓦のポーランドを残して去ったと言われた名君カジミェシュ大王により、司法制度が整備され、貴族による権力濫用が押さえ込まれ、政治的・経済的弱者である農民は手厚く保護され、西ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人など国外からの移民も積極的に受け入れられることによって、ヨーロッパ大陸最大の国家となっていました。
つまり、名君による❷の政府形態より、ポーランドは大国に成長して行きました。
それに対して、❸の政府形態である小国のドイツ騎士団国は圧倒されて行きます。
ドイツ騎士団国の首都や大都市を含む地域がポーランドに割譲されていき、残る領土は東プロイセンのみとなりましたが、東プロイセンもポーランド王の宗主権の及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王と封建関係を結ぶ臣下となります。
16世紀に入り宗教改革が始まると、ドイツ騎士団総長であったアルブレヒトはルター派プロテスタントに改宗し、対立した騎士団をプロイセンから追放します。
ドイツ騎士団国はアルブレヒトのホーエンツォレルン家世襲の公国とする世俗の領邦であるプロイセン公国に変わります 。
17世紀初期にブランデンブルク選帝侯国と同じホーエンツォレルン家を君子とする同君連合が行われ、三十年戦争後はフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯が国力増強に努め、17世紀半ばにはポーランドの宗主権から独立を勝ち取ります。
大選帝侯は、宗教的寛容の下、ヨーロッパ各地で追放されたユダヤ移民を受け入れます。
全てのユダヤ人を受け入れたわけではなく、1万ターラー以上の財産を持つ家族で、移住後は毛織物産業で働くことを求められ、商才のあるユダヤ人の力で国を富ませようと試みります。
その他、オランダ人の集団移住やユグノーの亡命受け入れなど、オランダやアメリカが移民の力により大国になったように、プロイセンも大国への道を歩み始め、ドイツの中の最有力な領邦となって行きます。
⑤カントン制度とメリットシステムの導入
18世紀に入ると公国から王国に昇格し、王国を大きく発展させるフリードリヒ・ヴィルヘルム一世の時代に入ります。
フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の治世において、代表的な政策はカントン制度とメリットシステムの導入です。
カントン制度は各連隊に一定の地域を割り当て、その中で徴兵を行うもので、連隊は多く集めた方が評価が上がるため、徴兵可能対象者を限りなく多く名簿に乗せようとしました。
徴兵者は帰休兵であっても連隊に裁判権があることから、名簿に登録されているだけの者でも、管理の必要性を主張して、連隊は貴族の支配を侵食し始めました。
それまで貴族支配によって、国王は直接国民を把握することが難しく、影響力が及ぶのはせいぜい郡長までと言われていましたが、移住や結婚の届けも領主の貴族に変わり、連隊がするようになり、 国王やその官僚は軍隊を通じて、国民を把握していきます。
その結果、貴族の地位が低下するに伴って、国民の間に貴族の領民でなく、プロイセン王国の臣民であるという意識が広まります。
このカントン制度により生み出される莫大な軍隊を管理するためには、優秀な官僚組織は必要不可欠となり、そのために条件的客観的評価システムのメリットシステムが世界で初めて導入されました。
官史養成機関としての性格を持つ大学の卒業生に国家試験の形で官史登用試験が実地され、貴族勢力を排除するとともに、優秀な人材を多く供給して行きました。
この二つの制度により、❸の政府形態の要素は極めて少なくなり、逆に❷の政府形態の要素が色濃くなって行きます。
対照的に、同時期のポーランドにおいては、16世紀半ばにヤゲウォ朝の血筋が途絶え、黄金の自由と言われる選挙王制が実施されることによって、❸の政府形態の要素が強くなり、大洪水時代の内乱・戦争などによって、国力は衰退し、次のプロイセン王フリードリヒ二世の時代には、プロイセンが主体となった三国によるポーランド分割が行われ、その後、計三回に渡って分割され、ポーランドは一時期的に消滅してしまいます。
これは正に三百年前の両国の状態が逆転する形となっています。
⑥条件的客観的評価システムの利点と欠点
条件的客観的評価システムのメリットシステムを世界に先駆けて、導入したことによって、遅れて産業革命は行われながら、元々マイスター制度など技術者を育成する環境も相まって、プロイセンを中心に結成されたドイツ帝国はイギリスを超えるヨーロッパ一の大国として成長して行きます。
イギリスの産業革命は実業を嫌うジェントルマン層の影響から製造業が弱いのに対し、ドイツは中世の時代から技術者を育てるマイスター制度が根付いており、急速に工業化が進み、20世紀初頭には工業化においてイギリスを越えて行きます。
しかし、イギリスやアメリカが 民主主義から派生した結果的客観的評価システムを整備した後で、安定した民主主義下でメリットシステムを導入したのに対し、ドイツは民主主義から派生した結果的客観的評価システムを整備する前に先駆けてメリットシステムを導入してしまいました。
条件的客観的評価システムの利点として、血縁やコネなど癒着による官僚登用を薄め、優秀な人材が発掘しやすくなって、国力が増強されます。
また、古代・中世の中国史を見ても分かるように、国内の内乱などもメリットシステムより1ランク下の科挙でさえも激減させる効果があります。
それに対して条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムと組み合わせなければ、条件的客観的評価システムをクリアした集団によって形成された新しいグループ主義が台頭し、改善がされないままシステムが科挙のように硬直化・固定化してしまうことにあります。
一度固定化してしまうと、それを崩すことは極めて難しくなります。
ドイツにおいても、先にメリットシステムにより出来上がった軍などの官僚組織が支配者層であったユンカーと結びつき、皇帝を中心とした封建制度を支える形が強固になってしまい、イギリスやアメリカのように安定した民主主義を獲得するのは非常に難しい状態となってしまいます。
カルバン諸国のような下からの突き上げ作用にしても、国民のプロテスタントのほとんどはルター派で、少数派のカルバン派はホーエンツォレルン家など支配層と結びつきが強いため、可能性は低く、ルター派諸国のように上下協同作業にしても、ルター派プロテスタントが大半を占めるわけではなく、同数のカトリック教徒も存在し、上層部はルター派でなく、カルバン派であるため実現はさらに困難な状況でした。
結局、外圧によって、つまり第1次世界大戦にドイツは敗戦し、戦勝国の指示により、帝制から共和制に移行していきます。
しかし、戦後も軍の力は大きく影響を及ぼします。
ドイツの前身のプロイセンにはカントン制度とメリットシステムの組み合わせにより、(各自独立的な貴族支配)➡(君子を取り巻く軍などの官僚支配)へと支配者層の移行がグループ主義移行論に沿う形でされた歴史があり、それによって強固な軍を中心としたグループ主義支配が根付いてしまって しまい、第1次世界大戦後のように間接支配による外国の圧力が加わろうと、支配を押しのける強固な別のグループ主義がなければ、北欧のようなレアケース以外では、グループ主義の支配を排除し、安定した民主主義改革を実行するのは非常に困難と言えました。
外圧の直接支配によって、旧支配を排除し、その支配が復活しないようなシステムを構築するしかないと言え、実際、第二次世界大戦後はそうなります。
しかし、第1次世界大戦後には、それはなされず、間接的な指示に留まっており、帝制は廃止され、社会民主党が政権を取りましたが、北欧を見ても分かるように社会民主党はルター派プロテスタント国に特有に中心政党として見られ、カルバン派と違い、反体制を取りにくい性質を持っため、帝国時代の旧支配者層である軍部を中心としたグループ主義は温存されて行きます。
⑦共産主義と共同社会
ドイツの安定した民主主義の獲得を非常に困難にしていた二大勢力の一つが軍を中心としたものですが、もう一つには共産主義があります。
共産主義はユダヤ人と密接に関連していると言われていますが、実際に共産主義の生みの親といわれるカール・マルクス、ロシア革命におけるレーニンやトロツキー、ドイツ革命におけるローザ・ルクセンブルク、ハンガリー革命におけるクン・ベーラなど共産主義の思想家や指導者の多くはユダヤ人家系であり、ロシア革命に至ってはロシアの人口のわずか数パーセントしかいないユダヤ人が共産主義革命政府幹部のほとんどを占める状態でした。
またアメリカ共産党発足時点の党員の7割はアメリカ国籍を持たない外国人、とりわけ 東欧系ユダヤ人でした。
なぜ、このような現象が起きるのか?
それはユダヤ教の特質にあります。
ユダヤ教は選民思想、排他的要素が強く、ユダヤ教の聖典タルムードにはユダヤ人のみ人間、異邦人は動物とみなすような記述もあります。
また宗教指導者のラビの教えを 絶対とし、ユダヤ人は各地に自足的な共同体社会を存立してきました。
ディアスポラと言われるユダヤ人の共同社会はその名の由来通り、撒き散らされたような状態で、他の国家や民族の中で、囲まれて点在していました。
排他的要素が強く、異邦人を動物と捉えるユダヤ人たちの世界は、まさに原始時代において、人類が強暴で獰猛な他種生物に囲まれて、集団と集団が距離を保ちながら、他種生物との生存競争に明け暮れていたような状態と言えます。
選民意識が強く、排他的要素が強ければ、少数民族であることも加わると当然の帰結として、他民族からの激しい迫害を各地で受ける傾向にあります。
実際、ユダヤ人はヨーロッパなど世界各地のほとんどで迫害の歴史を歩んで行きます。
つまり、原始時代において、人類が強暴で獰猛な他種生物に囲まれている状態の様に、ユダヤ人達も周囲に強暴で獰猛な他民族に囲まれている状態であったと言えます。
人類が集団化して、他種生物に対抗して、打ち勝ったようにユダヤ人達も他民族からの迫害からの対抗処置として、自然の流れで集団化していくことになります。
原始時代の人類が外敵に対抗するために様々な道具や知識を武器にしたように、ユダヤ人達は何よりも学問を重視し、タルムードにも多くの処世術的な要素が含められ、また金融業以外の職種が制限されていたことも相まって、学問・知識・金銭的富など武器にしていきます。
それらの武器が有効に作用される時代、学問や知識が評価される大学制度にリンクした条件的客観的評価システムであるメリットシステムの整備や金銭的富が最重要視される資本主義社会が発達する近代になって、ユダヤ人の顕著な活躍が始まります。
資本主義社会が特に発達し、それぞれ世界の覇権国となるオランダ・イギリス・アメリカにおいては、特にその傾向にありました。
近代のオランダにおいては、寛容の精神の下、迫害は少なく、ユダヤ人社会は繁栄していきます。
世界初の株式会社であるオランダ東インド会社の株式の名義は1/4はユダヤ人でありました。
世界金融の中心地となっていたオランダのアムステルダムの 全人口の1%強に過ぎなかったユダヤ人共同体は経済的・文化的繁栄を築いていきます。
ウィレム 3世の時代に世界金融の中心地がアムステルダムからイギリスのロンドンに移っていくに従って、ユダヤ人のコミュニティの中心もイギリスに移っていきます。
産業革命・資本主義が発展する18世紀イギリスにおいて、イギリスに居住するユダヤ人の数は激増し、19世紀にはユダヤ人の国会議員やユダヤ出身の首相も誕生し、大蔵省や外務省などの官庁にもかなりの数のユダヤ人官僚が在籍するなど、当時のヨーロッパ各国の中では、イギリスは最もユダヤ人に寛容な国となりました。
20世紀になるとアメリカに流れ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの大虐殺から逃れてきたユダヤ移民なども加わり、戦中に世界一のユダヤ人社会にアメリカはなりましたが、特にドイツ系ユダヤ人科学者が多く、これによってアメリカのアカデミズムはユダヤ人の聖域と化しました。
1901年から1939年までの38年間に自然科学分野でノーベル賞を受けたアメリカ人の数はわずか14人だったものが、1943年から1955年までの13年間、つまりドイツ系ユダヤ人達がアメリカへ逃げてからは自然科学分野でノーベル賞を受けたアメリカ人は29人にものぼりました。
ドイツでは、逆の現象が起き、最初の38年間は35人の受賞者を出しましたが、次の13年間はたった5人でした。
ユダヤ人は最も知的な民族集団とされ、民族別知能指数では最も高く、21世紀初頭において世界人口0.2%しかいない状況でノーベル賞の20%、フィールズ賞の30%を占めています。
アメリカ社会でのユダヤ人の社会的地位の向上も目を見張るものがあり、全人口の2%に過ぎない中、上下両議員の1割近い議席を得て、全米資産家ランキング上位50人のうち1/3、一流大学のハーバード大学の学生の1/4をユダヤ系が占めていました。
この様なオランダ・イギリス・アメリカにおけるユダヤ人と国家のお互いに寄与する ++(プラスプラス)の状態とワイマール共和国・ナチス時代のドイツとの真逆の状態とどう違うのか?それを検証して行きます。
当時のドイツにおいても、プロイセン時代の伝統である宗教的寛容によって、ユダヤ人社会が発達し、第二次世界大戦後のアメリカの様に、人口割合をはるかに超える割合で、大学教授、医師、法律家、教師などを占めて、世界的活躍と貢献を国家に対して、ユダヤ人は果たしていました。
その+(プラス)的状況を大きく-(マイナス)に転化していく作用をもたらしたのは共産主義の誕生です。
共産主義が生み出された要因の一つは確かにユダヤ共同社会の要素があります。
しかし、それだけではなく、さらに平等思想や他決思想の要素の要因もあります。
他決思想は他者に考え・判断を委ねるもので、反対に自分自身で判断していくのが自決思想です。
万人祭司の考え方からプロテスタントは自決思想と言え、教皇無謬説のカトリックなど大体の宗教は他決思想と言えます。
民主革命の流れによる自由・平等思想の普及とドイツのユダヤ人社会の発達、プロテスタントだけでなく、共産主義の生みの親と言われるマルクスの育った ライン 地方の様に、他決思想のカトリックが強い地域も多く存在していたことから、共産主義は19世紀半ばにドイツにて発祥しました。
共産主義は平等思想の共同社会を形成し、指導者層に考えを委ねるもので、各地のユダヤ人思想家を中心に世界全体に大きな影響力が行史されていきます。
ドイツにおいても、極左勢力離脱後の穏健で体制的な社会民主党の代わりに、共産主義勢力が反体制の革命的行動を起こします。
しかし、共産主義革命が成立したケースには三つの共通項、ユダヤ民族・平等思想・他決思想がありますが、ドイツにおいては統合前の中心国だったプロイセンの様に北部地方には多くのルター派プロテスタントが存在しており、領邦教会制のなごりで領邦君主など既存の体制に対して、改良的行動に出ても、反体制的な行動に出ないのがルター派プロテスタントの特徴で、新しい他決思想の支配に組みする可能性は少ないと言えます。
実際、共産主義の革命は民衆に受け入れられず、失敗に終わります。
ロシア・東ヨーロッパなどのギリシャ正教やカトリック教徒つまり、他決思想である国家が共産主義化がされてる一方で、フィンランドの様にロシアに強い干渉を受ける環境下にありながらルター派プロテスタントが大半を占める自決思想の強い国家においては共産主義化はされませんでした。
東方のアジアに視点を移して見ると、ユダヤ人と同じ様に、移民を繰り返し、原住民との軋轢が多く、強固な結束力をもって共同体を形成している東洋のユダヤ人と言われる客家がまさに共産主義を成立させる要素の一つとなっています。
世界で最も早い時期に共産主義国家に近い形態を成したのが太平天国です。
太平天国は中国の清の時代末期に、アヘン戦争後、戦時賠償のための増税や銀の流出によるインフレなどにより、民衆の生活が圧迫され、暴動が頻発し、国力が著しく衰退している中で、反清朝の反乱により樹立された南京を首都とした武装的自治組織です。
指導者である洪秀全をはじめとして、主要幹部のほとんどは客家出身であり、平等思想を下に天朝田畝制度を発布し、私有財産を廃止して土地を公平に分配し、生産を集団化し、消費財を共有し、官僚制度の中央集権化を目指しました。
支配層の腐敗・内紛・欧米列強の介入によって滅びましたが、その後、同様の政府形態を構築していった中国共産党においても、客家との強い関連性を見ることができます。
国民党との内戦によって10万人の兵力を2000人になるまで減らした長征において、それを支えたのが客家系住民であって、その経路は奇しくも太平天国の逃走経路と一致し、客家人の移住区にも相当しました。
同地域に居住する苗族などとは対立したのに対して、客家系住民からは支援と人材の供給もされ、2000人のうち1/5が客家人が占め、朱徳、葉剣英、鄧小平などは、その後の中国共産党の中心になっていきます。
またマレーシアにおける紛争において、マラヤ共産党は20世紀終わりに武闘放棄を宣言していますが、その時の共産党兵士800人のうち実に500人が客家人でもありました。
ユダヤ人と同様、強固にお互いを問答無用で支援し合う共同体を形成する少数民族である客家は中国の総人口数%にも満たない状況で、外では械闘という他民族との戦闘・対立を繰り返しながら、中では平等感と連帯感を持って強く団結し、公嘗という一族共有の公産を遺産の寄付などによって所有し、祖先の祭りや師弟の教育など一族全体のために使用し、こうした教育がさらに子弟の一族への帰属意識を強くし、固い団結を支えていきます。
この共産主義国家をミクロ化したような共同社会を持つ客家の存在は共産主義国家の誕生と必然的に深く繋がっていきます。
西方のヨーロッパにおいては、共産主義国家が成立する三つの共通項はユダヤ民族・平等思想・他決思想がありましたが、東方のアジアにおいても同様に客家・平等思想・他決思想の三つの共通項を見出すことができます。
中国・ベトナム・北朝鮮これらの共産主義国家が成立した国々の共通項として、平等思想の大乗仏教、人治主義で他決思想の強い儒教、客家の強い影響力を挙げることができます。
ユダヤ民族にしても、客家にしても、ディアスポラつまり、撒き散らされたような分散・点在した状態においては社会と++(プラスプラス)の関係を築けるのが、集団化したり、点が線になり面になり大きな閥を形成するようになると、一転してマイナスの作用を強く発現するようになります。
共産主義国家の形成がまさにそれに相当します。
共産主義国家は結果の平等を原則とするため、客観的評価システムがほとんど機能しない体制で、指導部に考えを委ねる他決思想の下、指導部の主観的裁量によって政治が実施されるため、必然的に癒着・腐敗・内紛が極めて起こりやすい状態となります。
太平天国にしても、表面的な高い平等主義の理想とかけ離れて、実際の内情は指導者層が特権階層化し、周囲には男女の交際を禁止しながら、洪秀全をはじめとする幹部は多くの側女を抱え、天朝田畝制度も実行までには至らず、天京事変など指導者同士の内紛が激しく、衰退・崩壊していきました。
共産主義国家において腐敗・内紛は代名詞とも言えます。
ただイスラエル国家の中でキブツという数百人から千人程の小規模の共有財産を主とした共同社会が数百程、ディアスポラ的に点在していますが、その中では比較的問題が少なく、人材面でも生産面でも人口比率以上の多大の貢献を果たしています。
こうしてユダヤ民族や客家の姿を通して見ていくと、グループ主義や集団欲の作用の短所と長所を再確認することができます。
原始時代のようにディアスポラ的小集団である時は、グループ主義や集団欲は体格的に貧弱な人類が獰猛で強靭な他種大型動物に打ち勝ったように+(プラス)に働きますが、打ち勝った後、人口が増大し、集落が巨大化したり、多くできると、逆にそれらが腐敗・紛争の元凶となり、-(マイナス)に作用してしまいます。
これはまさにユダヤ人や客家などの排他的・点在的共同社会を形成する民族にそのまま当て嵌まります。
ディアスポラ的状態であれば、共同体が育む優れた教育水準によって供給される優れた人材などによって社会に多大な利益がもたらされるのに対して、集団化してミクロ的共同社会をマクロ的なものに延長させようとしたり、ディアスポラ的なものを繋げて強固な閥を形成した時、つまり共産主義国家のような状態がもたらされた時、社会は大きなマイナスを被る可能性があります。
近代のドイツにおいて、ユダヤ人が活躍していった要因は大きく二つありますが、一つはメリットシステムに伴う教育された人材の重視です。
もう一つはルター派教徒が多いながら、上層部をはじめとして一部にカルバン派が存在していたことからの資本主義社会の急激な発達により、金融業に強いユダヤ人の影響力が強くなったことです。
教育を司どる大学などや思想的な分野で共産主義的ユダヤ人の活躍の増加、経済的・社会的地位においても上層部の多くをユダヤ人が占める状態を第1次世界大戦前の旧支配者層である軍を中心としたグループ主義が利用したことが発端で、ワイマール共和国・ナチス時代におけるドイツ国家とユダヤ人の関係が悪化していきます。
第1次世界大戦において、元々ドイツには勝機が極めてない状態まで追い込まれていながら、旧支配者層の中心にいたヒンデンブルクの背後の一突きという責任をドイツ革命における共産主義者に転化するデマ的発言によって、実際には大戦におけるユダヤ人の多くは軍に誠実に勇敢に戦い貢献したという事実があったにも関わらず、共産主義者にユダヤ人が多かったことから、敗戦の責任をユダヤ人全体に押し付けていきます。
ワイマール共和国で最も著名なユダヤ人政治家の一人で、ドイツのゼネラルエレクトリック社の社長を経て外相となったラーテナウも反ユダヤ主義の過激派に暗殺されました。
ユダヤ人が共産主義国家の一因となっていたことは確かですが、それは共同社会という要素が本因であり、その形態を取るのは客家など他にもあります。
また、それだけでは成立せず、他決思想なども必要となります。
共同社会形態を取ることには+-(プラスマイナス)両面があります。
長所と短所は表裏一体であるようにです。
問題は運悪く、マイナスとマイナスが交わった時、大きなマイナスが生み出されただけで、ユダヤ民族に全ての責任を押し付けることは理不尽(クリックでexplainにリンクします)であり、プラス面として多くの優れた人材を世界各地に供給してきたことは周知されてきたことで、マイナス面だけデフォルメされるべきではありません。
ドイツで最もユダヤ人が多いプロイセン王国がドイツ統一の中心になったのも、第二次世界大戦後アメリカの超大国としての地位を不動にしたのも、そして遡って中世においてポーランドをヨーロッパ最大領土国家になるまでに繁栄させたのもユダヤ共同体の教育が生み出す優れた人材が大きく寄与しています。
北フランスでは、中世の時代から領主からの反乱で誓約共同体が結ばれて、国王特許状により自治権を確立した歴史があり、共同体のコミューンという概念はフランス革命の推進に大きな役割を果たしました。
実際的に、革命派は平等主義の北フランスを根拠地として、反対に王党派は南フランスを根拠地としました。
欧米で広がる民主主義の波からの平等思想、大半がカトリック信徒であることからの他決思想、そして共同体のコミューンの存在によって、フランス革命は民主主義の概念の中でも平等主義が優先される共産主義的な方向性に傾いていきます。
ジャコバン独裁や共産主義の先駆とされるバブーフのネオ・ジャコバンなどです。
つまり、共産主義の要因はユダヤ民族というよりも共同社会にあります。
共同社会は、規模などの違いによってプラスマイナスの作用が大きく変わってくる、長所面と短所面を表裏一体に併せ持ったものです。
言い換えると、集団化・グループ形成のプラス面とマイナス面の存在に行き着きます。
ドイツにおいても、民主主義の波からの平等思想・カトリックの他決思想・ユダヤ共同体の三つの要素が揃っていましたが、カトリックと同数の自決思想のプロテスタント教徒の存在、メリットシステムによって強固になっていた前支配者の軍組織を中心としたグループ主義の影響力により、共産主義の脅威に曝されながらも、かろうじて共産主義国家の成立には至りませんでした。
これは、共同体の要素がユダヤ共同体程には強くなかった革命後のフランスにおいても同様に、共産主義の脅威に曝されながらも、その国家成立はしませんでした。
⑧封建制度から民主主義制度に移行する過程
封建制度から民主主義制度に移行する過程は大きく分けて三つあります。
一つはⒶカルバン派諸国のように新しい強固なグループ主義の移行によって行われるものです。
二つ目はⒷルター派諸国のように他国の成功例の影響によって、君主と国民が協調的に実施していくものです。
最後は、©共同体の概念によって、共産主義的平等主義傾向の強い急進的な動きにより行われるものです。
最後のものは、何とか共産主義国家の成立から免れなくてはなりません。
しかし、免れても歴史的に見て安定した民主主義が成立するにはかなり紆余曲折を減らなければなりません。
ドイツにしても、フランスにしても旧支配層のグループ主義を押しのける新しいグループ主義がないためです。
フランスの旧支配層は封建時代からの王党派、ドイツはメリットシステムによって裏打ちされた軍部中心の 官僚組織です。
プロイセン時代のカントン制度、メリットシステム導入によって、前支配層の封建的支配者であった土地貴族ユンカーを包有しながら、グループ主義が形成されていきます。
これは、イギリスにおいて貴族階級の支配からジェントリーそしてジェントルマン支配層にグループ主義移転して行ったのと類似しており、両方とも前支配層は除外されたのでなく、ただ中心的・主役的立場を降りただけで、支配層の一部として包有されたため、その移行が激しい抵抗なく、比較的スムーズに行われました。
ただ、決定的な違いとして、カルバニズムの影響の強かったイギリスにおいては、ジェントルマン資本主義の下、富を第一とするグループ主義から安定した民主主義が築かれたのに対して、ドイツではルター派国となった北欧ほどではないにせよ半ルター派国的環境からカルバン派諸国に比べると、資本主義の発達が遅れた上、先に君主を中心に置いた軍部中心の官僚支配がメリットシステムによって裏打ち、強固にされて確立したため、民主主義的動きは封じ込められて行きます。
君主の寵臣の軍官僚が強い影響力を及ぼす事態が続き、ドイツ統一の中心人物であり、鉄血宰相として有名なビスマルクにしても、ヴィルヘルム4世の側近であるゲルラッハ将軍に見出されて、政治家として育てあげられ、その次の君主の側近で同じく軍官僚で後にプロイセン首相も務めるローン元帥により首相の地位に据えられます。
ユンカーの子息はプロイセン王室の軍人か文官になるのが通例の中、ビスマルクは後者の文官の道を進みます。しかし、すぐに辞職し、実家の地主の仕事をしていました。
君主の取り巻きの二人の軍官僚の取りなしがなければ、とても政治的な職に就けなかったと言えます。
ドイツにおいて自由主義政府が誕生した時、ゲルラッハ将軍はそれに対抗して、カマリラという影の政府を結成します。
政府よりも国王に実権が握られているため、このカマリラが徐々に支配的な地位を確立していきます。
次の君主の側近であるローンは軍制改革を任せられ、民主主義的な動きを封じる権威主義体制の中心的存在となっていきます。
民主主義的要素が強いラントブェーアを後備軍にして弱体化させながら、正規軍の現役兵役年数を維持し、徴兵数を増加させようとしますが、議会はその法案の阻止を図り、国王ではなく議会に責任を負う内閣の成立を要求するなど民主主義的動きを見せます。
そのような動きを肯定する選挙結果に動揺する君主に対して、国王が議会に譲歩するなら軍は国王に不審を抱かざるを得ないと脅迫し、議会が否決した予算を通し、軍備増強を進める反民主主義的、議会無視の政権運営をする覚悟のあるビスマルクを首相に就けました。
ビスマルクの無予算統治によって、ローンは軍制改革を断行し、軍事国家化が進められて行き、普墺戦争ではオーストリア軍をわずか6週間でプロイセン軍は下し、ドイツ統一はオーストリアを除外し、プロイセン中心に進められて行きます。
プロイセン王が、そのまま統一され建国されたドイツ帝国の初代皇帝を兼務します。
二代目皇帝は在位3ヶ月で病死し、三代目皇帝の時代になります。
皇帝は帝国主義的政策を推進し、それが第1次世界大戦に繋がります。
しかし、大戦を総力戦で戦うしかなくなるとヒンデンブルク元帥とルーデンドルフ大将による軍部独裁体制が確立して、参謀本部は軍事だけでなく、新聞・映画などの統制・宣伝、外交政策、軍需生産その他内政に関するあらゆる分野に手を伸ばし、統括するようになります。
戦局が極めて不利となり、敗戦が不可避の状態になると、水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起き、皇帝は退位、亡命して、社会民主党を政権党としたワイマール共和国が成立します。
この頃の社会民主党は初期のマルクス的なものではなく、穏健修正主義的なもの、つまりルーター派諸国である北欧の社会民主党と類似したものとなっていました。
ルター派が既存体制と協調的であったように、この種の社会民主党も協調的であり、戦時中も総力戦を支持し、ドイツ革命の際も、共産主義的革命に急進することを嫌い、旧支配層である軍部と提携し、共産主義勢力を鎮圧します。
しかし、今度は軍部によるカップ一揆が起きると、それを鎮圧するために共産主義勢力も含む労働者のゼネストに頼り、それにより共産主義勢力の勢いが増してしまうという悪循環に陥ります。
新しい支配層となるべき民主主義的政党の第一党で政権党である社会民主党は旧支配層の強力なグループ主義を除外して、新しい支配層のグループ主義を確立できない状態となりました。
その理由としては、ルター派国の性質に準じて旧支配層に対して協調的・従順的傾向があることや、旧支配層における対抗勢力が共産主義勢力の存在によって勢力の分散ができてしまっていること、さらにルター派諸国特有の穏健的社会民主党は脱グループ主義的性質を持つことなどが挙げられます。
北欧のように、上からの民主化に対する協調的な作用は、民衆のプロテスタントの九割はルター派でも、君主一族はカルバン派という特殊な環境によって起こりませんでした。
そればかりか、資本主義が発達し、皇帝の親政が開始されるとカルバン派特有の帝国主義的政策が推進され、さらに軍部中心の官僚組織のグループ主義は強固化されてしまっていました。
これらの共産主義的左の、旧支配層軍部の 右の両方、左右の攻撃によりワイマール共和国の政治的不安定が引き起こされ、政権党社会民主党は徐々に支持を失い、政権交代、政権の離合集散が相次ぎ、ワイマール共和制においては、ヒトラーが首相になるまでの十数年の間、十四人もの首相が変わるような状態でした。
この様な中で、必然的に実権を動かしていくのは旧支配層である軍官僚を中心とするグループ主義でした 。
ワイマール共和国の初期における軍最大の実力者となったゼークト将軍は、ベルサイユ条約により禁止された参謀本部を兵務局として偽装し、その局長に就任、カップ一揆においては共和国の鎮圧命令を軍は軍を撃たないとして拒否し、軍の独自性を確立しました。
逆に共和国に忠実であろうと鎮圧命令に唯一賛成した軍高官であったラインハルト統帥部長との政治闘争に勝利し、後任の座に着きます 。
その後、戦前の軍部独裁体制の象徴的存在であるヒンデンブルクが政党無所属で大統領に当選すると、ゼークトの側近であり、兵務局長も歴任し、ヒンデンブルクの息子とも親しいシュライヒャーは政治将軍と言われるほどに巨大な政治的権力を振るうようになります。
ゼークト後のドイツ軍を掌握した国防次官のシュライヒャーはヒンデンブルク大統領の側近として、議会に基盤を持たない大統領内閣を増産していきます。
まず、ブリューニングをヒンデンブルクに推薦し、ブリューニング内閣が行き詰まると友人のパーペンを推薦し、パーペンが行き詰まると、自らが内閣を組織して行きます。
この間の立法は大統領緊急令が国会議決の立法の数をはるかに上回り、当然の様に民主主義から派生する結果的客観的評価システムが正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、ナチスの台頭、ヒトラー内閣の成立に進展してしまいます。
ナチスの支持層、人材供給源は旧支配層と密接に繋がっていました。
ワイマール共和国において、旧支配層の大きな基盤となった義勇軍はナチス党の党員や指導者の大多数の出身母体となり、ヒトラーが世に出るきっかけとなったミュンヘン一揆にしても戦前の軍部独裁体制の中心にいたルーデンドルフを神輿に起こされたものです。
中途半端な民主主義が生み出した❸の政府形態を脱するために反民主主義的な旧支配層の支持基盤が生み出したものがナチス党であったとも言えます。
⑨革命後のフランス
フランス革命後のフランスにおいても、同様に左右の攻撃にさ曝され、政情が不安定な状態が続き、❸の政府形態を脱する動きとして、何度か❷の政府形態の帝制や王制を経て、第三共和政を迎えますが、やはり小党分立により政権は頻繁に交替し、65年間に87をも内閣が成立し、ブーランジェ事件などの共和政の危機的時期もありましたが、かろうじて共和政の形態は、ドイツ軍のフランス侵攻という外的要因が来るまでは堅持して行きました。
第三共和政以前と以後の大きな違いはメリットシステムの機能度合いの差であり、それは第三共和政・第四共和政と第五共和制の違いにおいても、同様のことが当て嵌まります。
第三共和制以前は土木学校の技師の専門学校などからの技術系官僚グループなどの存在はあっても、ドイツの様に行政全般に大きな影響力・支配力を及ぼすものはありませんでした。
それが普仏戦争で完膚なきまでにプロイセンに敗北したことによって、フランスはその要因をプロイセンの大学を中心としたメリットシステムに答えを見い出し、第三共和政発足初期にENA の前身である政治学自由学校が創立され、メリットシステムが生み出すグループ主義が、影響力を行政全般に持ち始めます。
第五共和制になり、フランス随一のエリート官僚養成学校となる ENA が設立されると、政権中枢をENA卒業生エナルクが占めるようになります。
エリート官僚出身の国会議員は第四共和政時の3倍になり、政府閣僚ではそれらの増加率はさらに著しくなり、エナルクが政財界トップの3/4を占めるなど、フランスはエリート官僚たちによって支配されることから、官僚たちの共和国とも呼ばれるようになります 。
メリットシステムの機能度合いが強くなるほど、議会政治は安定して行きました。
第三共和政前は❷の政府形態との交代を繰り返す程の激しい不安定さが、以後になると短命内閣という性質は引き継ぐにしても、❷の政府形態に戻ることはありませんでした。
初期においては、王党派などの❷の政府形態を指向する勢力が大きく、ブーランジェ事件なども起きましたが、中期以降は共和制が定着して行きます。
しかし、戦後の第四共和政になっても第三共和政時代の短命内閣の不安定な政局運営は依然として変わりませんでした。
第五共和制において、出身者は高等公務職の地位を就く権利を有し、国家公務の中心の貴重な官僚キャリアを保障される ENA が設立されるとともに、大統領の執行権が強化され、行政官僚機構が強力にされることによって、二大ブロック制から二大政党制の流れにより、21世紀初頭までは安定した政治運営がなされました。
⑩フランスとドイツの違い
ドイツとの違いは、ドイツは安定した民主主義が成立する前に、条件的客観的評価システムであるメリットシステムによる強固なグループ主義が形成されてしまったのに対して、フランスは逆であるということです。
一度、条件的客観的評価システムが結果的客観的評価システムとの連動なしに作動し、強固なグループ主義を形成してしまうと、それを内政的観点で覆すことは極めて困難になります。
中国における千年にもかけての科挙官僚支配や第二次大戦前のドイツ・日本の様にメリットシステムによって作り出されたグループ主義が反民主主義的なグループ主義 を包有 してしまった場合を見てもわかります。
中国における科挙制度においての儒教思想・ドイツにおける土地貴族のユンカーを基盤とした君主中心思想・日本における天皇中心主義の様なものと違って、フランスにおけるメリットシステムの方向性が、民主主義に向いていたことが、なかなかカトリックの他決思想な土壌であることなどから根付くことが難しかった安定した民主主義を定着させることになりました。
フランスでは、プロテスタントのカルバン派諸国のように、勤労が強く尊ばれ、資本主義が発達し、それらにより形成された新しいグループ主義によって封建的支配者層の旧グループ主義を押しのけていくことがありませんでした。
そのために、常にそれら右寄りの勢力や左寄りの共産勢力により、民主主義は揺らぎ安定できない中で、新しいグループ主義の存在となったのはメリットシステムによって強固になった官僚組織です。
癒着や縁故などの各省の勝手な高級公務員採用を排し、高級官僚採用の民主化を目的として作られた ENA は民主的なエリートをつくる学校としてスタートしました。優れた政治的知識と素質を持つものが恵まれた地位・権限・待遇を得る、これは特に政治が最も社会の利益と直結する分野であることを考えると社会利益主義的観点では、最優先事項と言ってもいい事柄と言えます。
優れた待遇によって、優れた人材が集まります。
政治的エリートが他の職種より社会の利益において最も重要な職種である以上は、待遇面においても最も優れた待遇を受けることは、 公益という観点においては極めてあるべきことと言えます。
しかし、これらが実際なされているのは、共産主義国家や独裁国家に多く、民主主義国家にはあまり見られません。
フランスは民主主義国家でありながら、独裁的国家の持つ唯一の長所と言えるこの性質を併せ持つ稀有的な国家と言えます。
カトリックの影響による、利益を不浄のものとする反資本主義的精神やカルバン派諸国に比べて勤労性の低い国民性を持ってしても、20世紀末期まで世界4位の GDP を維持していた所以と言えます。
国家が企業を統治する形態を採り、民営化が進んでも主要企業には政府が大株主となり、研究開発費における政府負担の割合も極めて高い状態にありました。
条件的客観的評価システムであるメリットシステムが強く作用している官僚組織が主導する政府が、民主主義から派生する結果的客観的評価システムの修正を受けながら資本主義体制の下で経済をより良い方向性にイニシアティブを持って誘導することは、当時の他の先進国と比較しても客観的評価システムの充実度合は高い状態であったと言えます。
民主主義の出発点である市民革命により世襲・閨閥支配は 打ち倒されているため、日本におけるメリットシステムが官僚組織と閨閥が癒着したグループ主義を生み出した様なことも起こりませんでした。
しかし、これは条件的客観的評価システム全般に当て嵌まることながら、時間が経るに従って、強力であればある程、そのシステムをクリアした集団によるグループ主義が形成され、それが同程度の強力な結果的客観的評価システムによって制御・修正されてなければ抑えることは難しくなります。
フランスにおけるメリットシステム下では、日本以上に天下りが蔓延り、加えて首相、パリ市長、会計検査官の兼職の様に政治分野に転出しても、元の官僚の身分が保証されるなど、極めて官僚グループは優遇されており、メリットシステムの質の問題はともかく、その影響力は極めて強いものとなります 。
それに対して、それを制御する民主主義から派生する結果的客観的評価システムは他決思想の土壌であることと大統領が強い権限を持つ半大統領制であることから比較的弱いものになっていました。
カトリック国であるフランスはローマカトリック教会の長女と言われたり、フランス共産党もモスクワの長女と呼ばれる様に権威的なものに対して、他国に比べて極めて忠実に考えを委ねる性質があります。
客観性が保たれるためには、各自の自決思想が必要不可欠で、他決思想では上層部の主観的裁量が幅を効かせ、結果的客観的評価システムは骨抜き状態になってしまいます。
半大統領制でも、ワイマール共和国の共和国後期のドイツの様に、大統領が政党に所属してなかったり、議会の過半数の支持により成立する首相と内閣が存在しなかったものに比べると遥かにましではありました。
しかし、他の半大統領制の国々は実質的には議院内閣制に変化している中、フランスにおいてはコアビタシオンの様に大統領と首相が別政党の出身者が就くなどの状態が生まれ、権限の強い大統領と首相・議会は対立し、国家の運営に大きな支障をきたす場合も多々ありました。
強い条件的客観的評価システムに対し、弱い結果的客観的評価システムであることから、メリットシステムが生み出したグループ主義が制御不十分な状態で増大して行き、右派政権であろうと左派政権であろうとフランスの政治を牛耳っているのはエリート官僚のグループ主義であり、それらの状況を改善するための選択肢を国民が選ぶことが難しくなってきます。
新党に期待するか、極右的な政党に支持が流れるかどちらにしても、結果的客観的評価システムが効きにくくなり、悪循環に陥ってしまいます。
ドイツもフランスも両方ともに中途半端な民主主義により逆境に陥っています。
ドイツは初期にメリットシステムを導入することによって国力が増強し、その後そのグループ主義によって安定した民主主義が阻害されます。
フランスは逆に初期においてはメリットシステムが余り充実されずに、そのために普仏戦争など常にドイツの圧力を受ける状態になりますが、後に中途半端な民主主義の形態を構築した時点でメリットシステムを導入することによって安定した民主主義に至ります。
しかし、他決思想が原因で、結局そのグループ主義を克服できないで、再び不安定な状態に陥っています。
⑪戦後のドイツ
では戦後のドイツがそれらの問題に、その後どう対処しているか見ていきます。
メリットシステムによるグループ主義が 反民主主義的グループを包有してしまうと極めて強固となり、内政レベルで解決することはかなり難しくなります。
しかし、ドイツは結局、戦後に連合国による直接支配を受けることによって、それを取り除いていきます。
旧ナチス党員であったものは徹底的に追及され、ほとんどの官僚は解雇され、政権の土台が替えられました。
軍組織にしても、敗戦から十年後に再軍備が行われましたが、その戦力の多くをNATOに提供し、その供出の軍隊に対する指揮権はドイツ政府は持たない形となりました。
政党と官僚組織が解離しないように、大部分の職員は政党会派に属し、幹部職員は政党の得票率に比例して割り当てられて行き、政権交代時には政治的官史の約半数が一時休職して行きます。
休職している官僚は野党が第一党に なっている州政府高官や大学教官などに就き、野党側の政策を作るリソースになって行きます。
言わば、アメリカの猟官制度における欠点である財界など民間との癒着を大半を職業公務員を採用し続けることにより防ぎ、長所である政策実施を直接担う高級官僚を大幅に交代させることによって大きな改革を可能とする点も含む、アメリカ官僚制の改良版とも言えるものになりました。
身分保障が強固で生涯保障が優遇されているために、天下りなどの癒着もほとんどなく、民主主義から派生する結果的客観的評価システムの機能度合は他国に比較してかなり高いものとなりました。
戦後のドイツは客観的評価システムにおいて、結果的なものだけでなく、条件的な面でも他国より先を進んでいます。
条件的客観的評価システムの二段階目のメリットシステムだけでなく、学歴よりもより実践的な職業能力を評価する三段階目に位置するものにおいても、ドイツは先駆け的存在でもあります。
中世の同業者組合による徒弟制度を起源とするマイスター制度は従来の手工業だけでなく、戦後においては工業マイスター制度も正式に発足させ、充実した職業訓練制度の下、評価システムによって高スキルの労働者を育成しています。
これらの各地方に広範囲に育成された熟練した技術者がミッテルスタンドと呼ばれる技術水準の高い中小企業を形成して行きます。
ミッテルスタンドは大半はものづくり企業であり、ドイツ経済のエンジンとも言われ、ドイツの稼ぎ出す貿易黒字の七割を占め、ドイツ経済を文字通り支えています。
ニッチ分野で世界をリードする技術と品質を 培い、高付加価値製品の国内生産維持して、充実した対外経済の国家的支援もあって、グローバル市場での存在感を高めて行き、大企業の下請けではなく、自立・独立したビジネスモデルを堅持して行きます。
アメリカの近現代史の説明に言及した様に、資本主義下で結果的客観的評価システムを伴う民主国家がコントロールする経済は、グループ主義の点でも、経済発展の点でも、客観的評価システムの点でも大企業や財閥の支配する経済よりも、政府のバックアップの下で中小企業やベンチャー企業が中心に活躍できる経済の方が極めて望ましい形態と言えます。