⑺宗教は人類の幸福に関して、どのような作用をしているのか?

宗教というものは、歴史上から見て、人類の幸福に関して、プラスの作用をしているのでしょうか?それともマイナスの作を及ぼしているのでしょうか?

記事の目次

①管理・運営において、主観的な判断に委ねることによって生み出される大きな不幸

教義・教えにおける問題、管理・運営における問題さらにマクロ的問題、ミクロ的問題に分けて、考察を進めて行きます。

キリスト教にしても、仏教にしても、原初の教義・教えはとても素晴らしいものです。

 イエスもブッダも、 最も身分の卑しいとされている人々に対しても分け隔てなく接しています。

しかし、歴史的に見るとカトリック教圏では階級制がより徹底されています。

カトリックでは、管理・運営において、教えを全てローマ教皇の主観的な判断に委ねられています。

教皇の無謬性、間違いはない、全て正しいという考え方もそれを表しています。

多数の人々の主観的な考え交差し、修正し、補填し合うことによって、客観性が構成されます。

カラマ・スッタでのブッダの言葉でも『人から聞いたというだけの理由で信じてはいけない。何事も教師や司祭権限だけの理由信じてはいけない。ただ、よく吟味・熟考した上で、理性と経験によって、承認できること・良いこと・自他共にまた世界全体に恩恵をもたらすことを真実であると受け入れ、その真実に則ってあなたの人生を送りなさい。』というものがあります。

他人に自分の考えを委ねてしまうことは、悩みや葛藤から解放され、極めて楽になれるということと集団に所属し、一体感安心・安堵感を感じたいという集団欲の要素から、常に全ての人々への強い誘惑として存在しています。

環境が劣悪で、苦しみ大きいほど、その誘惑巨大になってきます。

しかし、皆がそれに呑まれてしまうと、歴史的に、人類にとって大きな不幸を生みます。

それが西欧における暗黒時代であり、似た事象として、衆愚政治からのヒトラーなどの独裁政治があります。

ヒトラーの言葉として『弱い男 を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりもより支配者を愛して、自由を与えられるよりも、どのような敵対者にも容赦しない教義の方に、内心でははるかに満足を感じている。』というものがあります。まさに、これらの集団欲などを悪辣利用するために解釈された考え方です。

我々は決してこのような誘惑捕らえられてはいけません

どんなに苛酷で、苦境であっても、先述したブッダのカラマ・スッタの言葉を胸に刻まなければなりません。

一人一人の経験と理性の下に吟味・熟考した意思や考え方が交差し、修正し、補填し合うことによって、初めて客観性が生まれます。

一人一人の個人の自由意志捨ててしまうと、一部の人々の主観性と裁量による支配に陥ってしまいます。

しかし、古代・中世において、カトリックや仏教を含めほとんどの宗教は、既存支配階級と深く繋がり、イエスやブッダの本来の教えから離れるところか、対極にあるような所業も多く残しています。

 

②客観性の要素のある宗教としてのプロテスタントの登場

その中で、客観性の要素のある宗教としてのプロテスタントの登場は極めて画期的な出来事でした。

スタートした教義的にどんなに素晴らしくても、管理的に主観性の要素が強ければ、グループ主義的に、つまり公(おおやけ)に反する形に変質してしまいます。

カルバニズムには、救いという命題において、他のほとんどの宗教が持っている主観的・裁量的要素のない特異的形態を保有しています。

なぜなら、予定説の考え方としては、もうそれは既に決まってしまっているからです。

他の宗教が救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきたのに対して、プロテスタントでは、原初キリスト教の教えに沿って、神の下での平等を主張し、カトリックのような身分制を否定して、信徒は皆平等で、教会聖職者を信徒の上位に置きませんでした。

また救済の証として、神から与えられた天職における世俗的労働に邁進して得た業績と収益が捉えられるようになりましたが、それはカトリックの教会指導者による人々の救われる基準主観的裁量による決定よりも、極めて客観性のあるものでした。

現代においても、民主主義指数が高く、経済的に先進国である国家にはプロテスタントの信者が多い国が多く、カトリックの信者の多い国は対して、指数が低くく、麻薬カルテルやマフィアが蔓延り、腐敗が強い傾向にあるのもそのためです。

しかし、予定説捉え方によっては人種差別が肯定されるようになるという欠点も生まれてきます。

カトリックのように、全く好きなように聖書を無視して、教会上層部の利益に沿う形でのグループ主義的に教義を決めるよりはましではありましたが、聖書の解釈においては主観的裁量の要素がグループ主義的に働いてしまいます。

また、客観性の要素を生み出した 救いの証としての経済的業績・利益についても、それが持つプラス面マイナス面があり、それについては資本主義植民地問題として、後で説明して行きます。

 

宗教教え自体は概ね、グループ主義を惹きしませんが、救われる基準の判断の主観性客観性の問題はグループ主義を生み出すかどうかに大きく影響を及ぼします。

救済の判断などの宗教における管理をする対象の規模ミクロからマクロへと大きくなるにつれて、どうしても主観的・裁量的要素大きくなります。

国内においては、どの宗教・民族に対しても寛容的であったプロテスタントが規模が国内を超えて、大きくなり、世界的になるにおいては、植民地支配に都合のいい、グループ主義的な予定説の解釈によって人種差別が肯定され、カトリック国と同様に残虐的な搾取がなされました。

どの宗教も基本的に自己犠牲奉仕とした教義が多いですが、社会を改革するスタート時には++(プラスプラス)になるシステムないため、改革が先ず着手されるには、それらの-+(マイナスプラス)的自己犠牲の要素が必要不可欠となります。

しかし、一時期的・部分的なものならともかく永続的・全体的なものになると、階級的・奴隷制的システムに移行してしまったり、本音と建前の二面性から逆にモラルが崩壊し、欺瞞が蔓延してしまうリスクが極めて高くなります。

政教一致を実施している国を歴史的に遡って、現代も含めて検証すると、政教分離の国に比較して、内外ともに紛争が絶えないことを見ても分かります。

 

③客観的システムは宗教・道徳・民主主義それぞれと密接に、総合的に補完しあう関係

宗教にしても、道徳にしても、民主主義にしても、客観的システムにしても公的社会の利益、公益において必要不可欠なもので、お互い決して、対立するものではありません

例えて言うと、必須アミノ酸におけるアミノ酸の桶の理論に近いものがあります。

九種類のうち、一番含有量の少ないアミノ酸を一番背の低い桶板に例えると、いくら満杯にしようとしても、そこから水が流れてしまう

つまり、吸収されずに排出するために、エネルギーや栄養素を無駄に浪費し、逆効果になるというものです。

必要量に対して充足率の最も低いアミノ酸を制限アミノ酸と言います。

公的社会の利益、公益において最も制限アミノ酸になりやすいのが、客観的評価システムと言えます。

客観的評価システムがなければ、民主主義は衆愚政治を経て、独裁に至り、崩壊してしまうのは前述した通りです。

客観的評価システムがなければ、グループ主義による紛争・戦争が絶え間なく頻発します。

戦争時に道徳論は極めて通じにくい状態となります。

宗教に関しては、その普及度を公益における必須アミノ酸として考えるのでなく、宗教の公益にプラスに働くような質の度合いを対象として考え、進めて行きます。

なぜなら、歴史的に見て、紛争が起こるほど、国や公的社会が崩壊するほど、宗教が普及されて来ている現実があり、これはマクロ的な国や公的社会だけでなく、ミクロ的な個人においても病気は困難な状態ほど入信しやすい傾向にあります。

そのため、宗教の普及度で考えてしまうと、それが公益を形造る栄養素とは定義できないからです。

宗教において憲法とも言うべき存在は聖書となりますが、それを全く無視し、ローマ教皇を中心とする一部の上層部の主観的裁量によって初期キリスト教の神の下に平等の教えと全く逆の階層社会を作り上げたのはカトリックです。

その憲法と言える聖書を絶対として、客観性のあるシステムにしたのはプロテスタントであり、民主主義を作り出す原動力にもなりました。

教会を見てもカトリックは豪華なものが多く、プロテスタントは質素なものが多い傾向にあります。

全く逆に変質してしまった宗教の質が、客観性の要素が加えることによって、本来の平等で質素という教えに戻り、民主主義という大きな公益を生み出し、それぞれ相乗的に向上していきます。

しかし、客観的評価システムは当然のことながら、初めは存在しないものです

客観的評価システムを構築するにはグループ主義に対立するものであるので、普通のシステムに比べて、極めて抵抗があり、困難なものとなります。

公(おおやけ)とリンクする++(プラスプラス)のシステムがない中で、公(おおやけ)のための客観的評価システムを構築することは、その労苦に対する見返り・報酬がないだけでなく、既得権益のグループ主義から苛烈な攻撃を受けます。

つまり、始まりは全て、少数の者達の公に対する莫大な自己犠牲・献身に頼らざるを得ないということです。

これら自己犠牲・献身の精神を生み出すのが宗教道徳であるとも言えます。

一時期的・部分的に限定すれば、これらの自己献身の精神は客観的評価システムを構築し根付かせるためには必要不可欠なものと言えます。

もちろん、それが永続的・全体的に求められるようになると、歴史的に見ても、少数の者はさらに少数者になり、本音と建前が分離し、実際に本音の生き方をするのが多数に、実際に建前の生き方を実行するものが皆無に近くなり、改革は挫折する流れになってしまいます。

しかし、公(おおやけ)と個との++(プラスプラス)のシステムを創り上げるためには、一時期的・部分的には-+(マイナスプラス)的なものが、つまり個の自己犠牲的なものがどうしても必要となります。

この様に、宗教・道徳・民主主義・客観的システムはそれぞれ密接に、総合的に補完しあう関係にあるのです。

 

④宗教にとって一番人類の幸福度に影響してくる要素とは?

プロテスタント国やその国々と地理的・経済的に密接な国に民主主義指数高く先進国が多く、それ以外の国でそれに次いで、民主主義指数が高く、先進国が多い国として大乗仏教の国があるのもそれを裏付けるものです。

しかし大乗仏教の国でも、儒教の要素が強いと、平等思想に儒教の人治主義、他人に考えは任せる慣習が加わって、共産主義に移行したり、教義が非公開で主観的要素が濃くなる密教の要素が強いと、途上国的特色も併せ持つ形になります。

これはプロテスタントが波及せず、カトリックと同じように聖職者と信徒の関係がヒエラルキー的なギリシャ正教が国教のロシアが民主革命に失敗し、共産党独裁になってしまったことと類似しています。

ギリシャ正教を信仰している東ヨーロッパ諸国がロシアと同じように一度は共産党化し、それを脱した後でも民主主義指数が西欧諸国に比べて低く先進国少ないのも同様です。

東ヨーロッパ諸国以上にロシアの脅威を受ける位置にあるプロテスタント国であるフィンランドは他の隣接国と比べ、例外的民主主義指数高く先進国であることを見ても、東ヨーロッパ諸国の共産党化やその後も西欧諸国に対して民主主義指数や先進度が低いことはロシアの影響・圧力以上に宗教的問題が大きく関わっていることが見て取れます。

宗教にとって一番人類の幸福度に影響してくる要素として客観性の問題がどうしてもクローズアップされてきます。

神に委ねるのでなく他人に考えを委ねてしまうと一部の人々の主観性と裁量が支配してしまうことになります。

それぞれが独立した考え多数交わることによって、客観性が成立します。

宗教であれ、政治であれ、他人に考えを委ねてしまう慣習が成立することによって、中世の暗黒時代や衆愚政治からの独裁のような負の産物が作られてしまいます。

どの宗教を信仰するにしても、ブッダのカラマスッタでの教えにあることが何よりも大切であることがわかります。

しかし、人は集団欲によって、思考回路を他者に委ねてしまう傾向にあります。その方が楽でもあり、恍惚感が感じられるようにもなります。

集団と集団が距離を保つ原始時代、強暴で獰猛な他種生物との生存競争には適したものであり、人類の歴史において、その期間が圧倒的に永かったために、その遺伝子に根強く刻印されているのは当然でもあります。

しかし、人類が他種生物との生存競争に打ち勝ち、集団と集団の距離が密接、もしくはなくなり、同種間内の生存競争に変化し、多数の集落が融合した社会、公(おおやけ)というものが成立した時、その作用が害になるリスクは極めて高くなります。

他者の意見を聞くことは大事なことではありますが、完全に委ねて依存してしまうことは、人の意見を全く聞かず、自分の考えだけで行動することと同様に主観的な行動と言えます。

しかし、 逆境になればなるほど、困難になればなるほど、人はその誘惑に打ち勝つことが難しくなります。

教義的にどんなに素晴らしいものであっても、その組織の管理が主観的なものであれば、変質し、実際の作用は別物となってしまいます。

特にミクロからマクロになるにつれて、そのリスク増大していきます。

グループ主義の鉄則によって、たとえ少数であっても、公益でなく一部のグループの利益を主としたグループ形成ができると、オセロゲームのように、全て善悪がひっくり返ってしまい、それに反するものは中心から外されたり、組織を追い出されたり迫害を受けてしまいます。

規模が大きくなればなるほど、それらが発生する確率当然高いものとなります。

ローマ教皇を仰ぎ、聖書以上に教皇を中心とした上層部グループの主観的な判断に依存し、一つの巨大な利権団体になったカトリックに比較して、他者ではなく聖書という客観性のあるもののそれぞれの多様性のある解釈によって限りなく分裂を繰り返し、色々な考え方を持つ教派に分裂したプロテスタントを見ても、リスクの大きさの違いを見て取れます。

グループ主義的・カルト的なものが出現しても、プロテスタントでは一部の教派の問題となりますが、カトリックではそれが全体に波及してしまうリスクが高い状態で常に存在することになります。

教え・教義の問題以上に、管理の問題における客観性の有無や組織の意思形成する単位規模の大小によって、幸福を生み出すか、不幸を生み出すか変わってくるということです 。

 

次回⑻資本主義と客観的評価システム

前回⑹民主主義と客観的評価システムの関係

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