有名な量子力学の二重スリット実験があります。
ヤングの実験の光の代わりに電子を使って粒子と波動の二重性を証明した実験です。
観察することによって同じものが波動から粒子へと振る舞いを変えるということが証明されました。
二重スリットの実験は、極端な表現をすると、世界は、私たちが観察していない間はもやもやした形のないものだが、
私たちが観察した瞬間に机、ねこといった形のあるものになる、というような、
「この世界が仮想現実である」という考えにつながる大変衝撃的な実験です。
簡単に言うと
この世界がコンピューターゲームのようにシュミレートされていて
人間の知覚が働いている空間だけ
現実が存在するのではないかという仮説を
はっきり裏付けてしまう実験だと言えます。
スティーブン・ホーキング博士は、過去に
「この世界が仮想現実である可能性は50%」
と発言し、電気自動車のテスラ、宇宙開発のスペースXを率いるあのイーロン・マスクは
「わたしたちが現実世界の中で生きている可能性は10億分の1程度にすぎない」
と言っています。
「この世界が仮想現実かもしれない」という説はオックスフォード大学の哲学者、ニック・ボストロム博士や、コロンビア大学の天文学者デビッド・キッピング博士など、世界各地の研究者によって現在真剣に研究されています。
もし、この”とんでも説”が本当であり、この世界がVRで、コンピューターゲーム下にプログラミングされた仮想現実(映画のマトリックスのような)だとしたら、なぜこのような世界(シュミレーションゲーム)がつくられ、私達多くのプレイヤーが存在しているのでしょうか?
先ず、考えられることはプレイヤーの精神的成長のため、つまり教育プログラムとしての可能性です。
その際における、シュミレーションゲームのクリエイターもしくは管理者などは、私達プレイヤーをからしたら、全知全能の神様のような存在です。
その意をうかがうことに終始し、恐れ奉るべきでしょうか?
恐れ多いことかもしれませんが、私はそうは思いません。
天に弓引くような攻撃的・破滅的意思はありませんが、教育プログラムを目的としたシュミレーションゲームであれば当然その良し悪しもあるはずです。
『トイストーリー』など次々とヒット作品を制作している映画会社のピクサーでは ブレイントラストという、スタッフ数名(新人であっても)が数カ月ごとに集まって、制作中の映画を評価し、忌憚のない意見を監督に伝え、創造的問題の解決を手伝うものがあります。
具体的には、監督たちとストーリーづくりに関わるスタッフが、直近につくられたシーンを一緒に見て、面白い、面白くない、何かが足りない、分かりにくい、理解できないと思うところを監督にフィードバックする。
フィードバックのカギとなるのは「率直さ」で、お世辞は禁止。正直に、思ったことをズバズバ言うことが求められます。
当然、辛辣(しんらつ)なフィードバックもあるだろうが、受ける側が傷つかないのは、以下のようなルールがあるからです。
(1)建設的に、個人ではなくプロジェクトについて意見を述べなくてはならない。
(2)フィードバックによる改善を強制することはできない。監督は提案を採用してもいいし、却下してもいい。
(3)フィードバックは「あら探しをして恥をかかせる」のではなく、作品や創作への共感をベースにしなければならない。
つまり、フィードバックはあくまで「良い作品をつくる」という目標が共有された上で行われ、個人攻撃にはならない、ということです。
ブレイントラストのような「率直に意見を言う」ための制度が、ピクサーという組織に「心理的安全性」をつくり出しています。
「心理的安全性」という言葉から、甘やかされた、ぬるい組織という印象を持つ、あるいは「何も言わなくともお互いに信頼し合っている、居心地のいい組織」と思う人がいるかもしれないが、心理的安全性は、それらとはむしろ逆のものと言っていいといえます。
たとえばブレイントラストで、「より良い作品」をつくるために、「あら探し」ではない的確な意見を言うのは簡単ではありません。
観察眼や、クリエーターとしての高い専門能力が必要になります。「甘やかされる」どころか、シビアに能力が試される場ともいえます。
心理的安全性の「安全」とは、ネガティブな意見を堂々と言っても、嫌がられたり、非難されたりしない、という意味だ。そして、心理的安全性のある組織では、全員がそれぞれの能力を発揮して積極的に意見を言い、組織の成長やイノベーションへの貢献が求められます。
私達プレイヤーとシュミレーションゲームのクリエイターの関係も優れたゲームプログラムを創り上げて行くという点においてはそのように率直に提言できる心理的安全性が保たれたものであるべきではないかと思います。
私達プレイヤーに対する教育プログラムと同時にクリエイターや管理者にとっても学び、成長するための場であるような気がします。
同じキリスト教国家国家でもカトリック国家とプロテスタント国家では、貧困率、幸福度、経済発展度、腐敗指数などが前者が後者に対して平均して見ると圧倒的に劣るとされています。
それは前者が、ローマ教皇に全ての考えを委ねるのに対し、後者においては万人祭司の言葉のように全員で教義やものごとを決定していくからです。
優れたものを構築していくためには主観性ではなく、客観的な環境下であることが必要不可欠であることは、歴史が物語っています。
神という存在は私達がどうとらえるかによって変わってきます。
カトリック教会のローマ教皇のように絶対的存在として考えを委ねてしまうのか、
それともプロテスタントの万人祭司やピクサーの新人スタッフであっても監督に率直に意見がいえるような全体意思の集合体として考えるのかによって、神という者の実体は全く様相が変わります。
あなたはどちらの神様を望まれますか?