法家の教えは儒家の述べる人治主義のような信賞必罰の基準が人の恣意であるような基準ではなく、法という定まった基準によって統治すべしという法治主義の考え方です。

千年近く続いた戦乱、春秋・戦国時代の終止符を打った秦国が法家思想が強かったことは有名です。

法治主義の考え方は始皇帝の発案のように思われていますが、秦の法治主義路線は百年以上前の商鞅の時代からです。

他の国々に見られない例外的に長期間続いた状態でした。

それにより、秦国は国力を高め、中華を統一することができました。

法家の呉起が、秦の同格の大国であった楚において悼王の信頼の下、改革を担いましたが、悼王死去後すぐに呉起は失脚し、その改革も続かなかったのに対して、秦においては、同じように、考公の信頼の下で、商鞅が法家主義的政策で改革を断行し、考公亡き後、すぐに失脚しましたが、その後もその政策は引き継がれました。

それが秦が中華を統一し、楚ができなかった大きな理由です。

秦の中華統一後、統一に伴う度重なった土木工事による民衆の疲弊と滅ぼされた国々の人民の反発によるところと後を継いだ二世皇帝が暗愚であったことから秦は滅亡します。

これは後の世において、同様に戦国の世を統一しながら短期間に滅亡した隋と共通するところです。

その後、秦の法制度を受け継いだ漢は統一国家を存続させていきます。

文帝・景帝の時代では食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭の間に通す紐が腐って勘定ができなくなったなどの逸話も残されています。

ただ、武帝の時代に儒教を国教とし、郷挙里選の法と呼ばれる官史任用法が採用されました。

これは各地方郷理の有力者とその地方の太守が話し合って当地の才能のある人物を推挙するもので、特に儒教の教養を身につけた人物が登用されました。

儒教の考え方は祖先や家族愛を大切にし、礼や道徳を尊ぶ貴重な要素が多く含まれています。

しかし、それらはミクロ的・私的な環境下で重要視すべきであり、古代周の時代の様に公の単位がミクロ的な場合は別にして、時代が進み、マクロ的・公的になった環境下でそれを重要視することは極めて適さない形となります。

同じ諸子百家の一つの墨家から儒教の家族愛は特定の集団に対する愛、差別愛、偏愛と批判されています。

個々の家族内のミクロ的なレベルではともかく、国家レベルでのマクロ的にこれが実践されると閨閥主義が蔓延り、先天的な階級社会が原則となり、公平性を欠く社会になってしまう傾向になります。

また儒教の考え方である徳治主義は人治裁量主義であり、法家が社会的公正を理念とするのに対し、仁を施すと称する恣意の裁量政治が同じ閨閥や派閥の不正を裁かず、利権と最も深く結びついている官史任用に際しても、徳や才は名ばかりで人情採用が横行し、当然その結果、利権における癒着・賄賂が蔓延り、利権や特権を得るための閨閥や派閥間での争いが激化してしまいます。

実際、武帝の前半の治世は文景の治による蓄積によって繁栄しますが、後半は不正や賄賂、反乱、盗賊の横行が各地で凄まじく蔓延し、側近の職権乱用が原因とする皇太子の反乱や巫蠱の罪など冤罪で多くの者が裁かれたり、混乱を極めます。

その後、混乱した状態を収拾したのが漢王朝の中興の祖といわれた宣帝です。

宣帝は信賞必罰をモットーとした法家主義的政治信条に則り、法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者達を政治の中枢から遠ざけ、弱体化していた漢の国勢を復興させることに成功します。

しかし、その後、儒教に傾倒し過ぎるために皇太子時代に宣帝から廃位を一時検討された元帝が結局、即位します。

元帝は儒教に傾倒し、現実離れした政策を実施し、財政は悪化、国政を混乱させます。

宣帝により中興された国勢は再び衰え、元帝の皇后一族からでた王莽の簒奪、前漢滅亡の端緒を開くことになります。

その後、漢を乗っ取り、新を建国した王莽の王朝も同様いやそれ以上に儒教帝国と呼ばれる位、儒教一辺倒の国家になります。

現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動を停止したために民衆の生活は前漢末以上に困窮し、民衆の反乱が続発し、十五年という短期間に新王朝は滅んでしまいます。

王莽の目指した方法論は別にして、方向性・目的は必ずしも間違っていたわけではありません。

土地の国有化は小作人を苦しめていた豪農への対策であり、周代の官僚機構を用いて改称を行ったのは、増え過ぎた官僚のリストラも目的としたものでした。

その他にも奴隷売買の禁止、高利貸よりも安い金利での国家からの融資政策などがありました。

一見しますと善政の様にも見えますが、なぜこれらが稀代の悪政となったのか?

儒教は精神・理想主義、徳治・人治主義からくる主観性の重視、家族血族主義などが根本にありますが、王莽はこれに固執し過ぎたと言えます。

偏った主観的人材登用を行ったために、人材が不足し、政務が滞り、不正が跋扈しました。

また、黄河が氾濫した時も、工事をした場合に王莽の先祖の墓が水没する危険があったために、必要な処置を国益・公益よりも家族血縁主義を重視して行いませんでした。

儒教の考え方は祖先や家族を大切にし、礼や道徳を尊ぶ貴重な要素が多く含まれています。

しかし、それらはミクロ的・私的な環境下で重要視すべきであり、古代周の時代の様に公(おおやけ)の単位がミクロ的な場合は別にして、時代が進行して、マクロ的になった環境下でそれを重視することは極めて適さない形となります。

歴史的に見て、社会が大きく複雑化した国家レベルになった場合に主観的裁量主義を採用してしまうと集団欲が暴走し、国を衰退させてしまうことは必然となります。

その後、混乱を収拾した劉秀が後漢を興し、光武帝となります。

光武帝は法家政策を採り、宣帝を高く評価し、儒教は重んじながらも政治は法家・法治主義で行いました。

疲弊した民を救うために、度々の奴隷解放令を出すとともに、人身売買を厳しく規制し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣告し、豪族の跋扈する郡には酷使と呼ばれる人物を太守に起用し、横暴な豪族を制圧し、犯罪数が前漢時代の五分の一に減少しました。

また、税を三分の一に、役所を統廃合し、冗官の削減をし、人民の負担の緩和を図りました。

その後を継いだ明帝も法家と儒家のハイブリッド的な政治を行い、二代に渡り、後漢期においては安定した全盛期を現出しました。

しかし、その後は王莽の治下で儒学の校舎を全国に設置して、奨励させた影響から後漢中期には儒教を学ぶ者が急増し、三代章帝の時代からは完全な儒教国家となってしまいます。

そして、外戚と宦官勢力が政争を繰り広げ、後漢は衰退していきます。

儒家は 家族血族主義でて徳治・人治裁量主義、身分制度秩序の肯定となります。

法家は『信賞必罰』を旨とした実力主義、血縁社会よりも社会的公正を優先する法治裁量主義となります。

前者の場合、人の裁量・主観的な判断で物事が決められて行きます。

家族血縁主義、身分制度秩序の肯定も相まって、一部の血縁、一族が閨閥を形成し、利権を独占する特権階級を生み出しやすくなります。

一部の閨閥グループが利権を得ている状態は、客観的基準があれば、その方向性で人は努力しますが、それがなく主観的な徳があるなしで、しかも実質血縁で利権が分配されている状態であれば、他の一族グループにとって非常に不公平で不公正なシステムに映ります。

一度構築された身分制度秩序が肯定されても、客観的に他の多数のグループにとって不公平・不公正感がある限り、利権・特権階級を得るためのグループ間の争いは激化して行きます。

後者の場合、法という客観的基準によって物事が決められて行きます。

前者と違い癒着・不正が起こりにくく、特定のグループに力が集中しにくくなり、公(おおやけ)、国全体が豊かになる傾向があります。

しかし、法家の韓非子(クリックするとリンクします)が述べてている通り、法の力によって君子の下で正しい政治を実現しようとする者、これを法術の士とし、 私利を図り王朝を害している者を当途の人とすると、両者は相容れない敵同士となりますが、当途の人は君主に気に入られており、君子と顔なじみであり、耳に気分の良いことだけを言い、身分 が高く、子分を多く従えている場合が多く、法術の士は君主の覚えがなくて、新参者で、耳の痛いことを口にし、身分が低く、味方のいない場合が多いために、法術の士が当途の人に勝てる見込みは全く薄く、この力の差によって、法術の士は身の危険に曝され、当途の人は何か罪をでっち上げられるのであるならば、刑罰を利用して殺そうとし、それれにより当途の人とそれに従って利益を得ようとする者たちが好き勝手に振る舞い、有能な者や潔白な者が彼らに阻まれ、政治が腐ってしまう傾向が極めて強くなります。

実際、法家の人身分が低い者もしくは不遇であることが多く、宣帝や光武帝などの法家を重視した皇帝も出生時には本来ならば皇帝になれる身分・地位ではないか、政(後の始皇帝)の様に待遇が悪い環境下であることも共通しています。

生まれながらにして、皇帝を継ぐ程に身分が高く、待遇が良ければ、自然の流れで既存の身分制度秩序を肯定する儒家に靡いてしまうのは当然の理かもしれません。

国々が乱立する中、生存競争のために、富国強兵が切実である状態で、開明的な君主により、有能の士を募っている中、信頼を勝ち取るか、幸運にも身分や待遇の低い状態から皇帝として昇り詰めるしか法家が政治の実権を握るのは難しくなります。

開明的な君主の信頼を勝ち取っても二代続いて英君 は続かず、大抵は 悲惨な末路を歩むことになります。

また幸運にも低い立場から皇帝になったとしても、次の跡継ぎは身分・待遇が高い立場であり、代を重ねるにつれて、儒家に傾いて行きます。

つまり、法家が実権を握れるのは例外的な場合になり、原則的に儒家が主となり、少数のグループによる主観的な政治が行われ、公(おおやけ)、国の利益に沿った客観的な基準は歪められ、公(おおやけ)主義というよりも、それぞれのグループの利益・特権を求めて争うグループ主義的な時代となります。

科挙制度が成立するまでの中国では、人材の選抜法として郷挙里選九品官人法などの有力豪族や貴族による血縁やコネにより事実上人事権が握られた主観的な選抜法 が採用されており 、当然のことながら、腐敗、賄賂が横行する不公平なもので、対立、紛争が多発する状況下にありました。

春秋戦国時代、三国志時代 、五胡十六国、南北朝時代と王朝と王朝との間には何百年と続く内乱と戦国の時代は続き王朝の成立期間であっても 非常に内紛にまみれたものでした 。

この状況下で人材登用という点で歴史上極めて画期的なシステムが登場します。人材登用の客観的評価システムの中では極めて初歩的で内容的にも問題の多いものでしたが全くない状態から初歩的でもある状態の変化はそれだけでも劇的に新しい時代を切り開いていきます。 

何百年という戦乱  を統一した隋の文帝により、実力によって官僚を登用するために九品官人法は廃止され、それに代わる官史登用制度として科挙が始められました。

科挙は試験による官史登用制度で中国では元の時代に一時期中断されたのを除いて、清代まで1300年間にわたり続けられました。

科挙が本格導入された宋の時代以降に中国では王朝から王朝までの何百年における内乱・戦国時代は見られなくなりました

内乱や王朝交代期における短期間の戦乱は存在しましたが、度合いはかなり減少しました。

 

宋の前王朝である唐の時代では従来の主観的な選抜方法客観的な選抜方法の科挙が混在する移行期となりました。

科挙は導入されたものの、恩蔭の制という科挙を受けなくとも父親の官位で子供が一定の高位に就くことができ、そのような官僚は任子と言われて、唐の前半までは任子が優勢で、科挙で選ばれた進士はそれを補う形でした。

新王朝の初期は代々名君が多く、唐でも隋の文帝が整備した法治主義の要素を持つ律令制を受け継いた太宗により国力は高まり、治安も安定しました。

天下泰平になり、道の置き忘れたものは盗まれず、家の戸は閉ざされることなく、旅の商人は野宿をする程、豊かで治安の良い治世でありました。

ただ、今までの時代と同じように名君は続きにくい傾向にあります。

特に王朝の中期後期になるほど主観的基準、つまり血縁や家柄で登用された重臣に囲まれた中で、君主は育成されてしまいます。

太宗の後を継いだ高宗も政治への意欲が薄く、代々の時代と同様に外戚一族の専横が始まります。

ただ、他の通例と異なったことは皇后の武后が貴族階級の本流から遠く、既存の名門貴族層から支援が受け難かったために、非名門出身の科挙合格者の官僚が積極的に登用されていったことです。

武后は帝位を簒奪し、中国史上唯一の女帝となったために、政争は絶えませんでした。

しかし、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定しており、後の唐の絶頂期てある玄宗皇帝時代の開元の治を行ったのは武后時代に登用された科挙出身の官僚が中心となっています。

玄宗治世の前半の開元の治時代とって打って変わり、後半は唐朝宗室の一員で貴族派、恩蔭派であった李林甫が実権を握り、開元最後の賢相と言われた張九齢など科挙出身の政治家を追い落としました。

加えて、府兵制の破綻に伴なって、変わる兵制として節度使制度が採り入れられましたが、 文民統制されていた節度使の役職が李林甫により、軍人が就くようにされ、節度使の権力集中を危惧していた張九齢が人物的にも警戒していた安禄山を抜擢し、その結果として安禄山は十の節度使のうち三つもの節度使を兼任するようになりました。

つまり、安史の乱を始めとする節度使勢力による唐衰退の端緒を恩蔭派の李林甫が開くことになってしまいました。

唐後期から五代十国の戦国時代にかけては節度使を中心とした軍閥同士の争いとなりました。

ただ科挙制度が一部行われた影響か、従来の何百年という期間では ではなく五十年程度の内乱・戦国時代となっています。

 

完全に科挙による登用制度に移行した宋以降の王朝では、旧王朝から新王朝にかけての移行期においての多数の国々による短期間での政権交代を伴う百年単位の内乱・戦国時代、軍閥割拠の時代はほとんど見られなくなりました

五代十国の戦国時代を統一した宋では、軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、文治主義を打ち出し、科挙の整備、地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化、節度使の無力化などを行い、それまでに貴族が科挙を経ないで官僚になることはよくありましたが、それを廃止しました。

しかし科挙は客観的評価システムの中で極めて初歩の問題の多いもので、まず科目に儒教の解釈が含まれ、科挙に及第した官僚たちには詩文の教養のみを君子の条件として尊び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する者もいる始末でした。

科挙の試験自体が一般常識を備えたという条件をクリアしてるかの客観的評価システムでしかなく、高い技術があっても専門家は軽侮される傾向が強く、偉大な発明を行った技術者や科学者が高官に登った例は極めて少なく、書物や前例ばかりを重視して実務に疎くなるという欠点がありました。

また条件的客観的評価システムである科挙を補填・修正するべき結果的客観的評価システムも欠如していたことから、三年清知府、十万雪花銀という詞がある通りに三年地方官を勤めれば、賄賂などで十万両位は貯めることができるという状態となり、トップの厳しい管理がなければ、腐敗官僚の登竜門的様相を呈することもありました。

科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれ、職役などの免除や罪を金であがなうことができるといった数々の特権が与えられました。

科挙によって登場した官僚たちによる新しい支配階級は士大夫と呼ばれました。

ただ今までの旧来の貴族の家系は場合によっては数百年間続いていたのに比べ、士大夫 の家系は長くとも四~五代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ、昨日の権門も明日には没落する状態になっていました。

特権を目的とした貴族間の戦争から、同じ特権を目的としながら、戦争ではなく科挙の受験勉強における競争へと主とした部分で転化されたために戦争は減少し、宋の時代は中国のルネッサンスと呼ばれ平和を謳歌した時代でもありました。

中世、町の人々は普通防犯のために夜間は 日本でも江戸時代、夜は外出禁止で辻々に木戸という門で塞ぎ、木戸番という役人が目を光らせていました。中国も唐代の長安など夜間には木戸を閉めていました。

ところが宋代では夜間外出自由になり、盛り場は夜中明るく、人々は旅芸人の芸や講談読みの話を聞いて楽しみました。経済的文化的には空前の繁栄を迎えました。

しかし、科挙の最大の欠点である要素として儒教が導入されていました。つまり、一般常識を図るための経書の解釈などは儒教の経書が使われました。

客観的評価システムの一つである科挙の中に相反する主観的評価・裁量を主とした儒教が取り入れられたのです。

儒教は素晴らしい思想です。論語人生におけるバイブルともいえる良書だと思います。しかし、どんな宗教・思想も長所もあれば短所もあります

背景となる時代・環境・状況下によっては大きく+(プラス)に作用したり、-(マイナス)に作用したりします。

科挙導入により、血縁などに限らずに登用されるようになったため血縁間における争いは薄められましたが、儒教の特徴である朋友などを対象とした差別愛が引き起こす争いが朋友など派閥間においては逆に表面化し、強まりました

また儒教の欠点である実学を軽視し、スペシャリストを下の存在としてみる点においても科挙の公益のための客観的評価システムとしての質をマイナスに導きました。

儒教が浸透すればするほど、派閥争いが激化する傾向にあります。

後漢期における党錮の禁、唐代の牛李の党争、宋代の新法旧法の争い、明代の東林党・反東林派の争いなどがあり、中国以上に儒教を国教化した朝鮮の李氏王朝での朋党政治・派閥政治の悪弊は有名です。

その他儒教の人治主義の傾向が強まると法治主義が弱まり、結果汚職が盛んになり、実学軽視の傾向から、万巻の書を読み、何もしないという者が尊敬される反面、額に汗を流す職人などが軽視されるなどの欠点も出てきます。

宋代においても、徐々に慶暦の党議、新法旧法の争いなど派閥争いが激化していきます。

朝廷に腐敗が進行し、国力が落ちたために、異民族の侵略を防ぎきれず、北宋は女真族の金に、南宋はモンゴル帝国の元により滅亡されてしまいます。

その後、元が中国を支配していくことになります。

科挙は清代末の1905年に廃止されるまで続けられますが、その中で元の時代は唯一中断された期間になります。

元の時代の人材登用法は、まさに以前の中国の戦国時代と同じくする血縁・家門を中心とする縁故採用でした。宋・明・清など他の王朝に比較して明らかに短命な王朝であり、王朝時代も

派閥争いというレベルではなく、モンゴル貴族同士の激しい武力による血で血を洗うような権力闘争が繰り広げられました。

宋・明・清における特権階級は科挙合格者によって形成された士大夫という新しい支配層で、科挙が根付く以前の中国や元代における特権階級は血縁・世襲などを主とした門閥貴族という旧支配層ということになります。

組織単位の争いは大体、集団欲の暴走によって引き起こされますが、血縁における集団欲は生存本能・子孫を繁栄させるための本能により直結していることから、他種の集団欲に起因する争いより激化・長期化する争いを生じさせてしまいます。

科挙はこの血縁を起因とする争いを以前に比べてかなり減少させることになります。

しかし、人治主義など主観的要素の強い儒教が科目に取り入れられたこと、また結果的客観的評価システムのフィードバック的補填・修正がないことも相まって他の派閥などから起因する集団欲の暴走からの争いは代わりに増えることになります。

ただ争いの激化度・長期化は以前よりかなり改善されました。

それは血縁を起因とすることと派閥を起因とすることの集団欲における 生存本能における直結度の問題だけではありません。

特権階級を獲得することは集団欲以外の本能の五大欲の一つの財欲名誉欲などに深く関係します。

それらは今まで貴族間の武力闘争を中心に行われてきましたが、その中心の中に科挙の受験勉強という要素が大きくウエイトを占めることによって当然争いの度合いも減少することになります。

科挙導入によって、宋の時代の市民たちの享受していた豊かな生活・文化の質は世界に比べるものがない程になり、農業中心だった中国が飛躍的な商業の発展を見せ、流通システムが伸び、印刷術が文化を広く伝え、首都だけでなく地方にも商工業都市ができました。 

しかし、条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織、つまり官僚機構が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまう性質があります。(詳しくはこちら

 

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