最近の『鬼滅の刃』ブームは凄まじいものがありますね!
漫画『鬼滅の刃』を読んでの記事でも述べていますが、『鬼滅の刃』の人気の秘密は敵役である鬼に対する主人公、ひいては作者の思い入れ・深い優しさであるような気がします。
今までの漫画はどちらかと言えば、勧善懲悪のストーリーが多かったように思います
相手の立場に立って物事を考えるという方向性が育ち、日本人の精神性が全体的に向上して来ているのではないでしょうか?
だとしたらとても嬉しいことですね!
ただ、さらに進歩して、『約束のネバーランド』(同じ少年ジャンプに同時期に掲載されていた)のように、鬼世界も人間世界も幸せで閉じるハッピーエンド
悪魔や鬼の規定が歴史的にどの様にされて来たかを見ていくと、その存在が本当にその様な悪辣な存在であったというよりも、自分達の所属しないグループを一つの角度で全面的に批判・否定する行為から生み出される傾向にあります。
悪魔が描かれるとき、描いた者が信仰する宗教と別の宗教の神様がモチーフとされることが歴史的に見てよくあります。
また、既得権益化した支配体制が改革サイドに対してその様な表現を使うことも多々あります。
日本で魔王呼ばれた人物には、織田信長や北一輝(詳しくはこちら)がいますが二人とも既得権益化した支配体制を改革しようとした人物です。
日本の戦国時代の要因の一つとして寺社など宗教勢力の権益化があります。(これは西欧の中世の暗黒時代におけるカトリック勢力と共通します)
信長によって、これらから日本が解放されたことから、戦国時代は終末を迎えることができました。(カトリック勢力が衰えると共に暗黒時代が終末した様に)
支配体制が宗教・思想を利用し、主観的・裁量的に救いや判断の基準を定めることにより、不公平で理不尽な既得権益を築き上げることは歴史的に見れば、まさに典型的パターンといえます。
もしかすると、悪魔というものは本来存在せず、一つのグループが別のグループに対して、一つの角度で全面的に批判・否定する行為から生み出されるものであり、その二極を作り出す行為が本当の意味での悪であり、魔の行為と言えるかもしれません。
そういう想いの根底から当ブログのトップページにおける『人物や組織を極力非難することなく 、否定することなく、どうすれば全ての人が幸せになる 社会のシステムを 構築できるかを歴史的観点から模索し追求していく』という流れに繋がります。
漫画『ブラッククローバー』では(268話)、悪魔は冥府で生まれて、冥府は弱肉強食の劣悪な環境で、悪魔もその様な存在であると描かれています。
しかし、その様な環境の冥府から追い出された非力で最下位の悪魔が心優しい女性(実はアスタの母親)の人間のに拾われ・育てられます。
その悪魔が現況では、主人公のアスタに憑いている状態で、その悪魔に対するアスタの言葉が「悪魔だからって絶対に悪いヤツだって決まってるワケじゃないだろ!」というセリフです。
冥府の描かれた環境を詳しく書くと、「生まれた時から悪魔の間では序列が決まっていてそれが覆ることはない。ひどく退屈な冥府では上の者が下の者を虐げ暇を潰し下の者は更に下の者を虐げる」となりますが、これはまさに封建時代の中でも支配体制が宗教・思想を利用し、主観的・裁量的に救いや判断の基準を定めることにより、不公平で理不尽な既得権益を築き上げることによって対立・紛争が特に激化し、長期間に渡って内乱・戦争の時代となった中国の春秋戦国時代・三国志時代、西欧の暗黒時代、日本の戦国時代の環境そのままの様に思われます。
現代においても、政教分離がされていない国家では、軍閥・マフィアが跋扈し、腐敗・貧困・内乱に満ち溢れた、半分封建時代に先祖返りしたような状況になっていることが多々あります。
その様な環境下では劣悪な精神状態・存在になってしまうのはある意味し方のないようにも思われます。
当ブログのトップページにおける『人に責任を負わすのではなくシステムにその責任を負わせる』という流れはその様な考えが根底にあります。
総括して考えると、悪魔や鬼という存在は、劣悪な環境の元凶である不公平で理不尽な体制を宗教などを利用して作り出している既得権益体制に対する改革者を指す場合か、もしくは例え実際的に劣悪な存在であっても、主たる要因はその劣悪たる環境にある場合の二通りに大体は帰結する様な気がします。