漫画『鬼滅の刃』を読んで

『鬼滅の刃』を読んで一番印象に残っているシーンは上弦の参の鬼である猗窩座の過去に関するものです。(18巻に掲載されています)

Reading『各種の自己啓発本を読んで(総論的に)』の記事でも言及していますが、今迄自分は客観性を慮る余りに、感情・主観的な要素を抑圧してきた傾向にありました。

よって、余り映画・ドラマ・小説などで涙を流すということは滅多にありませんでした。

しかし、このシーンにおいてはとめどなく涙が流れ、自分自身にもこんなに涙を流すような感情があるんだと再認識する位でした。

『鬼滅の刃』の人気の秘密は敵役である鬼に対する主人公、ひいては作者の思い入れ・深い優しさであるような気がします。

自分自身が子供時代、十代の頃に愛読していた少年ジャンプの漫画はどちらかと言えば、善悪の区分けがはっきりしたものが多かったように思います。

数十年経て、仕事上のコミュニケーションアプローチ的必要性から、再び少年ジャンプを読むようになり、先ず感じたことは、善悪の区分けの曖昧さや悪視点の深い考証・見解を含む漫画が増えていることです。

相手の立場に立って物事を考えるという方向性が育って来ているということでしょうか?

もしそうなら、客観性の確立という点でも望ましい社会現象と思います。

 

ただ、『鬼滅の刃』に対して、一つだけもう少しこうしてほしかったと個人的に思うことがあります。

悪サイドとされる鬼の総元締めであり、ラスボスである鬼舞辻無惨に対する客観的考証です。

ある程度は為されていましたが、最後までなかなか理解困難な圧倒的悪として描かれています。

彼が肉体を滅ぼされ、主人公を鬼化し寄生した後も、その誘惑を跳ね除け仲間の助けを得ながら主人公が人として復帰することで、その精神的にも、方向性を否定され、滅せられていきます。

そして、勧善懲悪のストーリーに中、ハッピーエンドで終了していきます。

できれば、猗窩座のような悪サイドに堕ちた理解可能な考証があれば・・・とほんの少しだけ感じています。

 

同じ少年ジャンプに同時期に掲載されていた『約束のネバーランド』は同じようにハッピーエンドで終了していますが、ラスボスとされるピーター・ラートリーに対する描き方が少し異なります。

ピーター・ラートリーの精神性に関しても理解しにくい要素も多々ありますが、最後は主人公サイドとの歩み寄りの中で亡くなります。

主人公サイドはピーター・ラートリーがしてきたことに関しては『全部許せない、憎い』としながらも『殺して解決』で終わらせたくない、運命や境遇だけじゃなく憎しみや恐怖からも囚われたくない『自由になりたい』、ラートリー家が食用児(主人公サイド)を犠牲にして千年守られた人々もいる、ピーター・ラートリーも彼の正義で二世界を守ってきた、生まれた時から運命を背負わされているのは皆同じ、『自由になろう』私たちは皆囚われている、でも世界は変わるもう変えられる、千年の苦しみを今終わらせよう、『一緒に生きよう』と投げかけます。

これは机上の空論と言われれば、その通りかもしれません。

現実社会においてはこの様な対処方法が正しいのかさえも不確定です。

しかし、机上の空論である漫画の世界においては、少なくともこの様な結末であってもいいのではないかと・・・

あくまでも個人的な見解ですが、そう思います。

この内容が掲載されている『約束のネバーランド』の172話『自由』を読んで、心に大きな大きな安寧感や癒しを感じたのは自分だけでしょうか?

 

 

 

 

 

 

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