最近(2019年)のデーターで、アジアの中で日本は、最も大人が学んでいないという結果がわかりました。
日本は、勤務先以外での学習や自己研鑽活動を「何もしない」がAPAC(アジア太平洋)14の国・地域(主要都市)平均の約3.5倍にも上がるそうです。
なぜこのような状態に日本はなってしまったのでしょうか?
これがひいては日本の国際競争力の低下、失われた三十年に繋がっているのではないのでしょうか?(詳しくはこちらをクリック)
対照的に最も生涯学習の時間が長い国々が、デンマーク、スイスなどで国際競争力、幸福度もこれらの国々は世界的に最も高い位置にあります。
これらの国々と現在の日本はどう違うのでしょうか?
ズバリいうと、客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)の整備の度合に違いがあります。
公平に評価するシステムがあるからこそ、ミクロ的個々に学び向上するインセンティブが生まれ、ひいてはマクロ的社会、国全体的にも向上・発展し、そしてミクロ的個々の個々の幸福に繋がるという良循環になるということです。
客観的評価システムには条件的客観的評価システムと結果的客観的評価システムがあり、条件的客観的評価システムにはレベル的に三段階あります。
条件的客観的評価システムの歴史的に見た質の進歩度合いとしては、先ず初歩的な第1段階ものとしては、科挙があり、次に 第2段階として、学歴に基づいたメリットシステム(官僚登用制度)などがあります。
そして、第3段階としては学歴以上に社会の利益に則したものとして、ほぼ全職業に網羅された職業資格認定・技能鑑定制度があります。
デンマーク、スイスなどの国々は条件的客観的評価システムにおいて最もレベルの高い三段階目の条件的客観的評価システムが他の国家に比べると充実しているのです。
日本はというと二段階目の条件的客観的評価システム(メリットシステムなど)が中心で、三段階目の条件的客観的評価システムは余り発展しておりません。
さらに、その二段階目の条件的客観的評価システムにしても、質ががた落ちにてなってきています。
条件的客観的評価システムであるメリットシステムと密接に結びついている学歴の頂点にある東大の合格者の家庭の年収にしても、高度成長期には合格者の家庭の年収は平均年収より低かったのが、徐々に上がり、現在でははるかに高い世帯年収となっています。
歴史的に見て、後天的な差が出るのが健全で社会が発展し、先天的な差が出るのが不健全で機会の平等が成立していない証拠といえます。
アメリカの経済をリードするベンチャー企業のトップの多くはハングリー精神が旺盛な移民一世か二世であることを見ても、機械の平等つまり、公平性がしっかり担保されていれば、必然的に平均的には、低年収の家庭から成功者が出ることが多くなるといえます。
また、スイス・デンマーク・ドイツなど国際競争力の強い国々の多くは、第3段階の度合いにあるシステムを導入しています。
大学での専攻内容が、卒業後の職業に直接結びつくことが基本形で、日本のように学歴を基準に企業に就職するのではなく、実学重視のカリキュラムの中での成績評価GPA などを基準に特定の分野の特定の職種というようなスペシャリストとして就職していくアメリカのシステムは第3段階の度合いに準ずるシステムと言えます。
対して日本においては、スイスやアメリカのような結果的・客観的フィードバック機能がなく、教育の質を高めることより、天下り先を増やすことに方向性が向いている官僚の主観的なグループ主義的干渉が強く働いています。
補助金・助成金の獲得のために、多くの天下りを受け入れ、癒着の温床となっており、教育の質を高めることに対する方向性が必然的に薄くなっています。
そのため、日本の条件的客観的評価システムの進歩度合いは、第2段階目の学歴に基づいた段階で、長く停滞しています。
スイスやアメリカの大学生はよく勉強し、日本の大学生の勉強時間は国際平均に比べて圧倒的に低いと言われています。
アメリカやスイスでは様々な試験による評価が課せられ、それを通過しないと卒業できないため落第率が高く、卒業率が低くなっています。
また、アメリカの GPA などの評価は企業に就職する際に、大きく考慮されます。
大きく将来に関わってくる評価システムがあるため、皆が必死で学んでいきます。
また、教授サイドも、その勤勉な学生からのフィードバックによる評価に曝され、質の高さを求められるため、優秀な人材が国内外問わず集められることから、アメリカもスイスも半数以上の教授は外国人が占めています。
それに対して、日本の大学生のほとんどは卒業し、その成績も就職にほとんど関与しないため、つまり評価に曝されないことから、皆が余り学ばなくなります。
日本の就職において、評価の対象になるのは主に学歴です。
しかし、学歴は大学入学試験における国語・英語・数学・理科・社会などの教養科目に対する評価になります。
教養科目は、実際的に、社会の利益を直接的に生み出す実学とは距離があります。
主にその実学を学ぶ場が大学であるのに、それに対する評価はほぼ存在しないため、皆が教養科目を対象とした大学入試では必死に努力しても、大学に入ってからは余り学ばなくなるのです 。
詩文や儒教の経書などを主科目とし、教育機関の裏打ちが極めて乏しかった第一段階の科挙に比べると、遥かにマシではありましたが、教養五科目という、一つのしかも実学から距離のある基準だけの観点で評価をすることは、公益とのリンクが薄くなるとともに、人々の能力・努力の多様性を無視し、適材適所という観点でも隠れた才能を極めて埋もれやすくなります。
アメリカと日本で対照的なものが、IQが高い人が多いギフテッドと言われる人々に対する取り組みの違いです。
キフテッドと言われる人々は、一般的に注意力散漫であったり、共同作業がうまくできないと言う発達障害 ADHD も併せ持つとされています。
長所と短所が合わせ鏡のようになる状態で、実際にギフテッドの人々の高校中退率はかなり高いと言われています。
日本では、高校中退者は学歴という基準だけの評価では低能とされ、就職もままならず、社会の落ちこぼれとされる場合がほとんどです。
しかし、ギフテッドと言われる人々の中には、アインシュタインやビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ビル・クリントンなど多くの著名人が含まれます。
失読症であるディスレクシアである者も多く、アインシュタインもその中の一人で、第一志望の大学に落ち、滑り止めの大学でも教授とコミュニケーションが取れずに苦労したと言われています。
一つの基準だけでの評価だけでなく、第三段階の条件的客観的評価システムのように、あらゆる職業に資格や技能鑑定を付与した評価基準が多くある方が、当然受け皿が大きくなります。
アメリカのように、大学に入ってから自由に好きな専攻を選択し、その実業に沿った専攻科目の成績評価 GPA が、その後の就職などの将来に大きく関与していくシステムも第3段階のシステムに準じたものと思われます。
アメリカでは、そのシステム以外に、直接ギフテッドの兆候が見られる子供達に早期に介入していくプログラムもあります。
できない所でなく、長けている所を探し、伸ばしていく教育がされています。
長所と短所は合わせ鏡であり、そういう意味で言えば、全ての人々がギフテッドで ADHD とも言えます。
その長所と短所の度合いが大きく、表面上に出ている存在が定義上のギフテッドと言うこともできます。
能力や才能のある優秀な人々というのは、ある意味その能力がたまたま適応する環境にフリーライドしている側面があります。
優秀な人材を発掘、掘り起こすにはそれを評価するできるだけ多くの基準とそれを伸ばす教育の場が必要不可欠です。
ギフテッドでディスレクシアなどの大きなハンデがありながら、アメリカでは努力で克服し、活躍している人々が多くいます。
好きこそものの上手なれとは言いますが、自分の興味がある選択肢が用意されれば、人は努力で乗り越えていく傾向があります。
大事なことは、限定した環境下でのたまたま適合した極めて一部分・一分野の能力主義ではなく、様々な可能性・方向性が提示された中で、自分に適合するものを選択し、思う存分に努力し、追求できる場を用意する実践的な教育システムとその努力を評価する客観的評価システムによって創設されて、保証される努力主義であるということです。
限局した範囲での能力主義に弾かれた者は、当然のことながら 努力する場も、評価もないことから努力(学習)をしなくなる傾向にあります。