古代ギリシアとローマは初期段階は極めて類似しています。

貴族のグループ主義が席捲し始めた対策としては両方とも同様の動きを見せています。

ギリシャではドラコンの立法によって貴族の恣意的に運用された慣習法から、成文法によって平民の地位も守られるようになり、前6世紀の初めのソロンの改革によって平民の没落の防止などが図られました。

ローマでは貴族のグループ主義の動きをギリシャと同様に、平民階級が身分闘争による法改正(リキニウス・セクスティウス法やホルテンシウス法など)により対応・封じ込めることによって、それらの問題をクリアしてきました。

しかし、両方ともその限界点が来ます。

ギリシャではペイシストラトスの僭主政の時代、ローマでは内乱の一世紀といわれるカエサル、アウグストゥス、の時代です。カエサルの画像

つまり、両方とも❸の貴族政の政府形態(詳しくはこちらをクリック)ではグループ主義を抑えるには限界が来て、❷の君主制など独裁指向の政府形態を模索します。

ギリシャでのペイシストラトスの政権は独裁政治でしたが、貴族のグループ主義の動きを抑え、アリストテレスが『ペイシストラトス時代こそ、アテナイの全盛時代である』と主張するほど小規模自作農や商工業者の生活や生産活動が良好なレベルで安定した時代でした。

しかし、❷の君主制など独裁指向の政府形態の欠点である世襲制の問題において、ペイシストラトスの子であるヒッピアスが暴君であったため、再び❸の政府形態に戻ります。

民主政を追及して❶の政府形態を獲得するのがベストの選択だったのですが、時代的にさすがにそれは難しく、(政府要職がくじ引きで決められるようではまず無理です。)❶の政府形態ができない民主政は実質的に❸の政府形態になります。(詳しくはこちら

ローマでの❷の政府形態では、血縁関係はあっても後継問題においては直系的な世襲制は比較的余り見られませんでした。(もちろん、世襲はありましたがそれが実行されたときは、暴君が多発してローマは混迷・衰退期になり、比較的血縁関係が薄められた五賢帝時代にはローマは最盛期を迎えます。)

加えて、古代ギリシャのアテネでは奴隷は解放されてもアテネ市民となれることは決してなく、居留外人身分に留められていました。解放した奴隷を市民として迎え入れるということは古代世界では全くなかったと言っていい状態でした。

しかし、ローマでは解放奴隷の子が皇帝にまで登り詰める例もあり、最盛期の皇帝で最良の君子と言われたトラヤヌス帝は属州出身者であり、才幹次第ではローマ市民を足掛かりにどんどん伸し上がるれる身分制でした。

ローマ市民権は投票権・拷問されない権利・裁判権・人頭税や属州民税の免除など様々な特権があり、ローマ市民であれば財産はなくても食べるに困らず、娯楽も無料で提供されるというものでした。

一般的な属州民がローマ市民権を獲得する方法として、補助兵に志願し25年間兵役を勤めるという結果的評価システムがあり、この方法でローマ市民になるものは毎年 1万人にもなりました。

 実質的初代皇帝となったアウグストゥスによって定められたこのシステムは、共和政ローマ時代のポエニ戦争後の汚職や暴力が横行し、内部崩壊寸前であった内乱の一世紀の時代を終わらせ、ローマアイデンティティの元に一体化した紐帯の時代に導きます。皇帝の画像

ローマアイデンティティはローマ市民権のシステムと同化政策を可能とする寛容の精神によって支えられていました。

ローマの司政官は征服地を統治するのに軍事力の力をほとんど必要としませんでした。

征服された民は、ローマという単一の偉大な民族に溶け込んでおり、独立を取り戻すべく具体的に算段することはおろか、夢に見ることさえやめてしまうからです。

そして彼らは自分たちがローマ人以外の何者かであると考えることさえなくなるのです。

 ローマは一度倒した敵国との関係を良好なものにするために、敵国のエリートに市民権を与え、またローマに貢献した者たち、例えば水道工事や建物の建設に携わる専門家集団の奴隷を一挙に解放し、市民を飛び越えて、騎士の階級まで与えています。

かってカエサルをアレンシアで包囲して苦しめたゴール人の孫が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになり、彼らゴール人の野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになって行くのです。人種や出身地に関係なく、出世が可能で奴隷➡解放奴隷➡市民➡騎士階級➡元老院➡皇帝と運と才幹次第ではどんどん伸し上がれる当時ではかなり流動的な身分制でした。

最盛期であった五賢帝時代の皇帝では 、トラヤヌスが属州スペイン出身、ハドリアヌスもスペイン出身、アントニヌス・ピウスはゴール系、マルクス・アウレリウスはアンダルシア人が父親であり、両親ともアテネ人でなければ市民権が与えられなかったアテネとは対照的でした。

いくらアテネに貢献しても両親ともアテネ人でなければ市民権は与えられず、あの有名なアリストテレスも所有できませんでした。

被征民を虜にするローマの吸引力の源が、この間口の広い市民権と流動性のある身分制でした。

ローマがギリシャ(アテネ)より長期的・広範囲に繁栄した二大要因は❷の政府形態の欠点がローマでは薄められたこと市民権等において補助兵に志願し25年間兵役を勤めるという結果的評価システムが存在したということでした。

 

 

 

 

 

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