高度に考察・認知する理性は脳の外側である大脳皮質が司り、直感的な欲望・感情などの本能は脳の内側である大脳辺縁系が司ると言われています。
一般的には、自己利己的に欲を追及する本能に対して、理性は本能と対立する概念で、道徳的・他者優先・自己犠牲・無欲なイメージがあります。
しかし、本来の脳の機能からするとその概念は間違っている様に思われます。
生存に直結する欲望と感情を脳の内側である大脳辺縁系が司りますが、これは爬虫類脳といわれ、単独の生物として最低限の機能を満たす為の作業を行います。
しかし、人類が集団化して他の大型で狂暴な動物を制圧し、さらにその数を幾何数的に増大させて行くに従い、その高度に複雑化された集団・社会を生存していくために、脳の外側である大脳皮質が派生し、高度に考察・認知する理性を司るようになったのです。
つまり、本能と理性は対立するものではなく、生存に必要な欲望を追及する本能を補助し満たす為のものと思われます。
集団生活の中で、本能の赴くままに本能を満たそうとすると必ず争いになり、集団から除外されたり、対立・争いにより大きなダメージを受けてしまいます。
そうならないように、つまり対立・争いが起きないプラスプラスになるように、理性の管理下で本能を満たすことが本来の機能と言えます。
他者優先・自己犠牲・無欲というものは本人の理性というよりも、他者や他のグループからの本能的・一方的な欲求の作用を受けてのものと思われます。
つまり、一例を示すと宗教団体などが信者などに自己犠牲・無欲を強いて、全財産を献金させ、一方で教祖や教団上層部が贅沢を究めるというものです。
これらの不公平で理不尽なプラスマイナスの関係は結局の所、対立・争いを生み出して、皆がマイナスマイナスになってしまうのは歴史が物語っています。(中世の暗黒時代、戦国時代など)
また歴史的に見ても、時の権力者は男女区別なく、本能的欲求(物欲・性欲など)を満たそうとし、実際的に満たしてきました。
例外的な存在としては、唐の太宗やローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリウスがありますが、残念ながら彼らの当代では制御されても次代ではその反動で両方とも混迷を極める結果になってしまっています。(唐では太宗が距離を置いた則天武后を次代の高宗が引き寄せ唐は一時期的に滅び、ローマ帝国ではマルクス・アウレリウスの子供達同士の内乱そしてその結果の後継者の暴君化から国力は大きく減衰)
欲望は大抵は生存欲求に繋がります。
これ自体を否定することは社会・国・時代レベルでみても逆効果であることが実感できます。
大事なことは、欲望や本能を否定するのではなく、それを満たす作業を本能下(マイナスプラスの関係で結局マイナスマイナスの関係になる)で行うのではなく、理性下(プラスプラスの関係)で行うことが鍵となります。
一例で示すと、性欲を満たすにおいても、時の権力者が男女区別なくしてきたように力や権力でそれをほぼ無理やり満たすのではなく、社会利益に貢献したものが適切な客観的評価システム下の中で、貢献度に見合ってより満たせるような状況が望ましいと思います。
欲自体を極力持たないことが望ましい、是としてしまうと性欲にしても、食欲にしても生物や種の生存に直結している欲を真面目に制御しているものが当然ながら生物学的に(生物である以上当然ですね・・・)減少し、建前上それを見せかけ(他人にも押し付け)本音的には全く制御するどころか真面目に制御している他人の分も吸収してしまう者が増加してしまう歪んだ二面性が確立してしまいます。
よって、理性は本能を否定するのではなく、それをプラスプラスの関係で満たせる様に導くもの、本能をより安全に、多く満たす為に補助するものであるべきと思います。