原始時代や山奥に点在した集落など集団同士の接触がほとんどない状態で人口が少ない環境では、自給自足が適しているのかもしれません。
しかし、人口が増加して集団同士が密接に交わり合う環境において、貨幣経済が成立せず、自給自足の社会なった場合は、慢性的な食糧危機に喘ぎ、大飢饉・疾病などによって荒廃を極め、食料・資源の欠乏のために、絶えず略奪・紛争が頻発てしまうことは歴史が証明しています。
人口が増加すればするほど、食料・資源が当然多量に必要となります。
各自の非効率な自給自足の自家生産では追いつくわけはなく、役割分担をして、それぞれが分担した生産物を効率的に多量生産して、貨幣経済の下、交易や流通の発達によって、各自に必要な食料・資源が行き届くようにするしかありません。
また市場を無視した狭義の社会主義的な物価統制は、古代においてはローマ帝国時代のディオクレティアヌス帝時代、近代においてはソビエト連邦を例にしても、歴史的に見ると、短期的に成功しても長期的には失敗に帰することは明らかです。
つまり、人口が現代のように莫大になっている以上、貨幣経済とそれが発達してできた資本主義経済は代替えとなるものがない以上、必要不可欠なものと言えます。
また、貨幣などは客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)の主たる媒介であり、これを欠くことは客観的評価システムの機能も、より優れた代替え物ない以上、極めて低下してしまうことになります。
しかし、それは所詮媒介であり、客観的評価システム自体ではありません。
それを有効に作用させるには、客観的評価システムの質と量に懸かっていると言えます。
客観的評価システムが不十分なほど、資本主義の欠点と言える問題が出て来ます。
恐慌・環境破壊・帝国主義や新植民地主義の流れをくむ紛争や戦争などが主たるものです。
資本主義単体を肯定した スミスの小さな政府論は、利己心こそが経済活動のエネルギーであり、経済を発展させる原動力であり、皆が自由に行動しても、世の中全体として市場メカニズムが働き、調和されるので政府は最低限の夜警国家でいいというものです。
しかし、実際にはそうはならず、投機が横行したり、過剰生産からの恐慌が起きたり、市場のメカニズムを機能不全にする財閥の市場シェアの独占が生じたり、経済の利益を追求するあまりに帝国主義や新植民地主義が激化し、その延長上に国家間の紛争・戦争が勃発しました。
また利益を最優先するため、大量生産・大量消費により資源を浪費し、公害や資源の枯渇などの環境破壊も進行しました。
これらが生じるのは経済利益が必ずしもイコール社会利益、公益ではないため、当然のことと言えます。