社会の向上を縦軸、時間の流れを横軸とした座標上で考えていくと、大事なことは一時期的に大きく+(プラス)になることよりも傾きが+(プラス)になることがより重要であるといえます。

少なくとも、公益に努めた人々がそうでない人々よりも圧倒的に、自他ともに分かるレベルで報われるか、優遇されなければ後の一般の人々のが続かなくなります。

 

社会の利益・改善を志す者は、自分達の時間・努力、場合によっては財力やリスクを掛けて、それを成さしめようとします。

それに対して、グループ主義を指向する人々は、自分達の利益と直結しやすい癒着・利権の構築に同じ様に、時間・労力等を費やします。

個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。

前者の行動は後者に比べて、自分達の利益に直結していないからです。

特に、公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、更にその度合が激しくなります。

彼らはかなり高い可能性で、既得権益のグループ主義との圧倒的不利な状態での対立を背負うことになるからです。

集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。

公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れで迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。

且つ、それに加えて公益を生み出す為の努力に費やす労力・時間・財は利権的グループ主義に費やされる場合と比べると圧倒的に回収率が低く、グループ主義的に生きることが+200%位の回収率になったとしても、公益主義に生きることは-200%位の迫害的回収率になってしまう傾向にあります。

この集団欲が引き起こす習慣的惰性の流れを変えるシステムがなければ、グループ主義が座標上における傾きを-(マイナス)に変えてしまい、いくら社会の利益主義者が大きな+(プラス)を生み出しても、少しずつその効果を減衰させてしまいます。

歴史はその繰り返しともいえます。

その悪循環を止めなければ、歴史が進行すればする程、科学力は当然に大きくなって、社会の歪みなどが改善されない状態では、そこから生み出される被害から文明が破綻してしまうリスクは時が経るにつれて当然に高くなってしまいます。

通常の平均的人物の公益に対する寄与度の平均値を1と仮定すると、社会の利益主義者の寄与度を100とします。

しかし、莫大な+(プラス)を生み出す為の反対勢力を貶めたことの-(マイナス)が10あるとします。

+(プラス)部分は公益に関して公と個をリンクさせる客観的評価システムがなければ、先ず評価・報酬を受けることはありません。

つまり、百の評価が0、あったとしても自らが属しているグループ内における評価がある位で、1か2程度といえます。(直接グループにに寄与しているわけでもないので、その評価・報酬は極めて低くならざる得ないといえるからです)

ただ、-(マイナス)の部分は集団欲の過剰になる傾向にある防御機能としての攻撃反応によって、-10が-20や-30になって帰ってきます。

本来ながら+90の評価・報酬を受けるべき社会の利益主義者が、実質的には-20や-30の評価・報酬とまさに迫害的リターンを受けることが典型的・原則的なパターンとなってしまいます。

そうやって、王安石も八百年近くも最悪最低の政治家として扱われました。(詳しくはこちら

しかし、社会の利益主義者を迫害すれば、歴史上必ずといっていい程に時間差で社会全体に極大な不幸が押し寄せています。

王安石においては北宋滅亡と条件的客観的評価システムを世界に先駆けて整備したのに、千年にかけて停滞し、結局、王安石の改革的内容の多くをクリアしているメリットシステムを整備した列国による植民地化をうけてしまったことなどが該当します。

北一輝においてはに日中戦争・太平洋戦争そして、二十世紀末期から顕在化してきている財政赤字による経済破綻の危機などが該当します。

よって、社会の利益主義者を社会全体の人々の為に、グループ主義者の迫害や詐欺的主観的評価から絶滅危惧種の様に保護し、優遇しなければなりせん。

その為には客観的評価システムの質と量の整備が必要不可欠となります。

それらが整備されればされる程、グループ主義の主観的評価は排除され、正当な報酬・権限を与えられた社会の利益主義者はグループ主義者との対立を有利に進めることができ、二の足を踏んでいた社会の利益主義者の予備群は後に続き、グループ主義者の予備群は逆に距離を置くようになり、座標における傾きは大きく+(プラス)となって来るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事