⑷客観的評価システムを西欧の歴史1⃣(ローマ帝国)を踏まえて考証

客観的評価システムは血族・民族・宗教・出身地他の様々な派閥などによるグループ主義を公益主義に修正していくことに関して最大の役割を担っています。

これを今度は西欧の歴史を踏まえて考証していきます。

記事の目次

①初の民主主義の制度を導入した古代ギリシャ

まずは古代ギリシャの時代まで遡ります。この時代は皆さんが周知の通り、都市国家アテネが歴史上、初の民主主義の制度を導入しています。ギリシア人の画像しかし結果としてその試みは失敗に終わります。しかも対照的な都市国家スパルタに敗北する形によってです。アテネは直接民主制を採っており、民主主義の観点から言えば、より民意に反映した制度と言えます。

 

しかし民主主義自体には残念ながら公益をグループ主義から守る役割はないのです。それどころか金権政治や大衆政治などの主観的・情緒的でグループ主義的な主張が横行し、それらは特に直接民主制において傾向が強くなります。

 

但し民主主義から派生するものの中でそれらの欠点を補っても余りある大きなプラス面を持つものがあります。

 

結果的客観的評価システムの一つ政権党の政治に対して多数の国民による選挙を通じての支持率という評価、それに伴って政権を任せるという報酬を与えるというシステムです。

 

しかしながら、歴史上において、このシステムが民主主義から派生して導入されるのは後世の近代におけるイギリスが初めてであり、古代におけるアテネではマイナス面だけを背負う形となりました。

 

しかも、役人や裁判官も抽選制で選ばれ、任期は1年で交代したため、政治は素人の寄せ集めで行われる形となり、専門的分野での知識・経験の不足から、さらにポピュリズムに陥るリスクは高くなりました。

 

実際、デマゴーグという民衆の恐れ・偏見・無知など主観的・情緒的な感情に訴えることによって権力を得、国家的危機に際し、慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急かつ暴力的な対応を提唱し、穏健派や思慮深さを求める政敵を弱腰と非難する第二次世界対戦時のヒトラーのような人々が好戦的な主張で民衆を扇動しました。

 

彼らの特徴として、後世のヒトラーなどにも共通することして、グループ主義に徹して民衆の集団欲を強く刺激し、狭い角度、真実 の裏打ちの少ない主観的な考え方を巧みな弁論を武器に浸透させ、政界に進出していくというものがあります。

 

実際、デマゴーグの代表的人物とされるクレオンは弁論術を武器に民衆の人気を集め、スパルタとの和平案に反対し、民会で戦争の継続を主張し、このため戦争は続行されましたがアテネは適切な指導者を欠いたため、漸次敗北し、民主主義・大衆政治のアテネが全体主義・軍事教育を中心としたエリート主義のスパルタに降伏させられて、アテネの民主主義破壊されていきました。

 

②古代ローマ帝国

 

次に古代国家の民主的国家としてはローマが台頭してきます。

 

ただ共和制ローマの時代であっても、直接民主制ではなく、民会によって選出される政務官により政務や軍事が行われますが、任期は1年で元老院議員・属州総督などに転出していき、対して終身制である元老院議員の方が経験を蓄積し、信望を得るようになったことから、一見、諮問機関にすぎない元老院が共和制ローマにおける最高議決機関として機能して、元老院議員は世襲が行われたことから、民主制というより貴族制に近く、民主主義という観点では都市国家アテネに遠く及ばないものでした。

 

しかし、ローマはアテネよりも期間的にも、規模的にもはるかに長く、大きく繁栄します。

 

しかも、それは共和政ローマの時代よりも帝政ローマの時代に顕著に現れています。

 

古代ローマが長期にわたって繁栄した最大の要因はローマ市民権の制度にあります。

 

古代のアテネでは奴隷は解放されてもアテネ市民となれることは決してなく、居留外人身分に留められていました。解放した奴隷を市民として迎え入れるということは古代世界では全くなかったと言っていい状態でした。

 

しかし、ローマでは解放奴隷の子が皇帝にまで登り詰める例もあり、最盛期の皇帝で最良の君子と言われたトラヤヌス帝は属州出身者であり、才幹次第ではローマ市民を足掛かりにどんどん伸し上がるれる身分制でした。

 

ローマ市民権は投票権・拷問されない権利・裁判権・人頭税や属州民税の免除など様々な特権があり、ローマ市民であれば財産はなくても食べるに困らず、娯楽も無料で提供されるというものでした。

 

一般的な属州民がローマ市民権を獲得する方法として、補助兵に志願し25年間兵役を勤めるという結果的評価システムがあり、この方法でローマ市民になるものは毎年 1万人にもなりました。

 

 実質的初代皇帝となったアウグストゥスによって定められたこのシステムは、共和政ローマ時代のポエニ戦争後の汚職や暴力が横行し、内部崩壊寸前であった内乱の一世紀の時代を終わらせ、ローマアイデンティティの元に一体化した紐帯の時代に導きます。皇帝の画像

 

ローマアイデンティティはローマ市民権のシステムと同化政策を可能とする寛容の精神によって支えられていました。

 

ローマの司政官は征服地を統治するのに軍事力の力をほとんど必要としませんでした。

 

征服された民は、ローマという単一の偉大な民族に溶け込んでおり、独立を取り戻すべく具体的に算段することはおろか、夢に見ることさえやめてしまうからです。

 

そして彼らは自分たちがローマ人以外の何者かであると考えることさえなくなるのです。

 

 ローマは一度倒した敵国との関係を良好なものにするために、敵国のエリートに市民権を与え、またローマに貢献した者たち、例えば水道工事や建物の建設に携わる専門家集団の奴隷を一挙に解放し、市民を飛び越えて、騎士の階級まで与えています。

 

かってカエサルをアレンシアで包囲して苦しめたゴール人の孫が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになり、彼らゴール人の野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになって行くのです。人種や出身地に関係なく、出世が可能で奴隷➡解放奴隷➡市民➡騎士階級➡元老院➡皇帝と運と才幹次第ではどんどん伸し上がれる当時ではかなり流動的な身分制でした。

 

最盛期であった五賢帝時代の皇帝では 、トラヤヌスが属州スペイン出身、ハドリアヌスもスペイン出身、アントニヌス・ピウスはゴール系、マルクス・アウレリウスはアンダルシア人が父親であり、両親ともアテネ人でなければ市民権が与えられなかったアテネとは対照的でした。

 

いくらアテネに貢献しても両親ともアテネ人でなければ市民権は与えられず、あの有名なアリストテレスも所有できませんでした。

 

被征民を虜にするローマの吸引力の源が、この間口の広い市民権と流動性のある身分制でした。

 

ローマ市民権に特権的価値が生じるのは、帝制のきっかけとなったともなったマリウスの軍制改革以降であり、ローマに貢献したものに市民権を与えるシステムも初代皇帝アウグストゥスによって本格化されたものです。

 

帝制は共和制に比べて、優秀な皇帝を抱けば、腐敗や癒着などグループ主義的対立・争いが起こりにくいという長所があります。

 

しかし、欠点として①国政を混乱させ、国益を損ねる暗愚・無能・粗暴な皇帝が出現するリスクを事前に抑止することが難しいことや②皇帝の後継者争いが激化し、内戦・内乱を生じさせやすいことなどが挙げられます。

 

属州出身者らのマイナーな立場の者がローマ中央に進出し得たのは、帝制の基盤を作ったカエサルの寛容政策の結果であり、それはアウグストゥスに引き継がれました。カエサルの画像

 

しかし帝制である以上は上記①・②の欠点は存在し、実際暗君と言われたカリギュラ、ネロなどが出現してローマを混乱に陥れます。

 

そしてネロの自害後、四皇帝の時代、フラウィウス朝と内戦・内乱の時代となり、皇帝のほとんどが自害したり、暗殺されたりしています。

 

その混乱の中から一転して、ローマは最盛期と言われた五賢帝時代に入ります。

 

五賢帝時代が混乱の時代から、なぜ古代から中世における世界史の中で最も人類が幸福であり繁栄した時代となったのか?

 

それは皇帝の後継者選出に答えがあります。

 

五賢帝時代の皇帝の多くは属州の出身者であり、互いの血縁関係はないか遠縁であり、見込みのある人材を養子にし、元老院が推挙して皇帝となりました。

 

血縁にあまりこだわらないで見込みのありそうな人物を養子に迎えて後継者にする方が常識的に考えてもより広い範囲から人材を選べるため、能力のある人間が指導者となる確率が高くなります。

 

また全くオープンな競争にしてしまうと、内戦が起こる可能性は高くなってしまいます。。

五賢帝時代は意図する、しないは別問題として、世界史の中の他の帝制と比較して、血縁というグループ主義から、かなり解き放たれた時代であり、実力のある人間が皇帝になりやすく、

帝制の欠点としての①、②のリスクもクリアした時代でした。

 

しかし五賢帝時代が経るに従って、帝制の自然の流れか、集団欲の中で最も強い血縁関係のグループ主義のためか、徐々に血縁関係は皇帝間に構築され、五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスは実子を5歳の時に副帝つまり実質的な後継者に指名します。

 

その結果、実子のコンモドゥス帝は暴君となり、暗殺され、またローマは混乱の事態に陥ってしまいます 。

 

その後、セウェルスが皇帝となり、混乱を収拾しますが、実子のカラカラ帝が後を継ぐと、またそのカラカラ帝が暴君となり、暗殺され、混乱の時代になります。

 

中国の韓非が『韓非子』の孤憤編で述べているように当途の人(身分が高く、君主と顔なじみであり、君主に気に入られており、耳に気分のよいことだけを言い、、子分を多く従えている臣下・重臣)に囲まれて育った典型的な後継者は名君になりにくい自然な流れになってしまいます。

 

ローマ皇帝のなかで暗君・暴君となるのは世襲や血縁を重視した中で順当に後継に就いたものが多く、名君と言われたものが逆にイレギュラー的に、別のファクターで就任したものが多いことは決して偶然ではありません。

 

しかも、世襲など血縁を重視した権力や特権の移譲は人々の集団欲の中で最も強力な血族関連のグループ主義を刺激し、争いを引き起こし、激化させる傾向にあります。

 

実際にカラカラ帝の後、間もなくして三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝の時代に入り、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。

 

しかし三世紀の危機をローマに引き起こした最大の原因は、カラカラ帝の実地したある政策に求めることができます。

 

当然にそのことはカラカラ帝が暗君であることにも繋がりますが、暗君が続いても崩壊の危機を克服し、復活してきたローマが許容範囲以上の打撃を受けることになります。

 

その政策はアントニヌス勅令によって示され、全属州の自由民にローマ市民権を与えるというものでした。

 

一見するとヒューマニスティックな政策に思われますが、特権の一つであった属州税の免除が全ての属州民に広がったことから、重要な財源であった属州税が事実上消滅してしまいました。

 

その収入を補う方法としてカラカラ帝は貨幣の改鋳を行い、銀含有率を急激に下げていきます。

 

しかし、その結果インフレが著しく起こり、貨幣の信用がなくなり、貨幣経済が衰退、交易活動が阻害され、物々交換が増えました。

 

交易縮小の物資不足から灌漑や排水など設備は放棄され、その結果、耕地面積が減少し、また工業も衰退しました。

 

誰もが自給自足でやっていけるように努めて、自家生産はかってないほど増えて、その結果、頻繁に飢饉に襲われました。

 

しかし、アントニヌス勅令の負の作用はこれらに留まらず、より大きな影響を及ぼしたのは、ローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティを衰退させたことでした。

 

ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。

 

誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。

 

また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。

 

しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。

 

三世紀の危機をデオクレティアヌス帝によってローマは脱しますが、彼の方法は、ローマ市民権という特権を全自由民に広げたことから起点した財政悪化からのインフレを社会主義的な物価統制によって力ずくで押さえ込もうとするものでした。

 

安定は長く続かず、ローマの紐帯が失われた中では、寛容政策が人種差別、隔離的なものに、そしてローマに忠実だった他民族の人々は敵対勢力に変じ、ローマは崩壊の道を進んでいきます。

 

 

③なぜローマ帝国はこれ程まで長期間・広範囲に繁栄したのか?

ローマ帝国ほど、長期間・広範囲に繁栄した国家は古代・中世にかけて見当たりません。

 

その理由としては民主主義に見出すことはできません。その点で言えばアテネの方が遥かに進んでおり、しかもローマがより発展したのは共和政ローマから内乱の一世紀の崩壊の危機を脱して、帝制期を迎えてからのことだからです。

 

集団よりも大きな単位である社会・公(おおやけ)・国家が繁栄するためには、個と集団間がリンクしたグループ主義から来る対立・紛争を防止する個と公益または集団と公益をリンクしたシステムを構築することにあると言えます。

 

それをしなければ、自然な流れとして、個は自らの利のために集団とのリンクを集団欲の赴くままに強めることに集中してしまいます。

 

公益を第一に志す者が出てきたとしても、集団によって個の力を増大させた者には、個の力によっても、数の論理によっても伍することは難しくなります。

 

公益を主とする者を社会利益主義者、公(おおやけ)よりも集団を重視する者をグループ主義者とすると、良貨は悪貨を駆逐するように、前者は後者に追いやられてしまい、少数派になるか、または本音と建前の使い分けで本音が後者、建前は前者の二面性の強い社会になってしまう傾向になります 。

 

共和政ローマの政治系体は貴族制と民主制の中間系体的なものでした。世襲的な元老院、パトロヌス(庇護者)・クリエンテス(被庇護者)の癒着関係などグループ主義的な要素を多く含んでいました。

 

ポエニ戦争後、属州が増えてからは、特にそれに拍車がかかります。

 

貴族化、利権化した総督職は収奪が主な役割となり、凄まじい収奪から、属州になった地域の多くで数十年後には人口を1/10ほどに減少するような事態も起こってしまいました。

 

従属した都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とし、少数の有力政治家の収入と財産が国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存するようになりました。

 

ローマ市民はこうした巨富の流出に預かる代償として、共和制ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で有力者の庇護下に入り、癒着 の強固な関係が築かれていきます。

 

ローマ軍の中核を成し、ローマを支え続けてきた自由農民の没落を救うために農地法を制定しようとしたグラックス兄弟も貴族階級により命を落とし、改革は失敗に終わり、内乱の一世紀に入ります。

 

そのグループ主義的な混乱を収拾し、ローマに一体化した紐帯を与えたのは帝制の基礎を作ったカエサル、アウグストゥスによる寛容政策とローマ市民権を報酬とする結果的客観的評価システムでした。

 

寛容政策が民族・宗教・出身地などのグループ対立を薄め、評価システムが国家と個のリンクを構築し、国家を繁栄に導きました。帝制の①、②のリスクも五賢帝時代のように血縁に拘らない状態であれば回避しやすくなります 。

 

では、古代ローマの時代のように現代でも民主主義ではなく帝制が望ましいと言えるのでしょうか?

 

帝制や独裁は、博打のようなものであって、大概は混乱時からの武力統一や衆愚政治からの主観的な思考からの選出であることが多く、カエサルが来るのか、ヒトラーが来るのか、リー・クアンユー来るのか、スターリンが来るのか予測できないものです。

 

裏目が出た時には人々は計り知れない不幸を背負わなくてはいけなくなります。

さらに代が下るに従って、血縁に縛られている以上は裏目に出る率は極めて高くなります。

 

五賢帝の時代のように血縁と距離を置いた帝制は極めて稀であり、集団欲の中でも最も強い血縁関連の誘惑を、絶対権力者である者たちが代々連なって、制御できる確率極めて低くなり、それを期待するのは現実的ではありません。

 

元々、一人の絶対権力者の主観的な判断に全てを委ねることがこれから述べていくこのブログSystemDreamer最終的な到着点である客観的評価システムの質と量の整備と網羅対極に位置することでもあります。

 

民主主義それ自体は、アテネや共和制ローマを見ても、人類の歴史上あまり大きく寄与していません。

 

客観的評価システムと相互補完することによって、はじめて有益な制度となるのです 。

 

では、古代ローマの時代のように現代でも、奴隷がいてその上で支えられる特権階級が存在することが望ましいといえるでしょうか?

 

大事なことは比較論です。また時間軸を古代・中世に当ててみる必要性があります。

 

当時の世界観から言えば、奴隷が存在することが常識とされ、そこから這い上がることは極めて難しい時代でした。

 

その中でローマ帝国は宗教・民族に寛容で、努力してローマに貢献すれば優遇される制度が、補助兵を25年勤めれば市民権が与えられる結果的客観的評価システムなど様々あり、それがローマ・アイデンティティとしてローマのインフラ防衛を支えることなどの公共善一体的な紐帯を示すことになっていました。

 

公共善を指向する人々は、自分たちの時間努力場合によっては財力リスクを掛けて、それを成さしめようとします。

 

それに対して、グループ主義を志向する人々は、自分たちの利益と直結しやすい癒着や利権の構築に同じように、時間や労力などを費やします。

 

個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。

 

前者の行動は後者に比べて、自分たちの利益に直結していないからです。

 

特に公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、さらにその度合いは激しくなります。

 

集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。

 

公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れの中で迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。

 

そうなると、歴史的史実の観点では、社会全体が時間差で大きな不幸にまみえることになってしまっています。

 

 共和制ローマ初期には重装歩兵としてローマの防衛に大きく寄与していた平民の発言権の向上から、民会の決定が元老院の承認を得ずにローマの国法になったり、平民の権利を擁護する護民官が設置されることなどにより、グループ主義的な貴族階級の権限の制限が、平民と貴族との身分闘争の中で進行している間は、共和政ローマは拡大・繁栄していきます。

 

しかし、拡大するに従って、属州に利権を得ることにより元老院などの貴族階級の力が増大し、改革を志した平民派で護民官のグラックス兄弟が暗殺されるに至っては、ローマは崩壊の危機に直面する内乱の一世紀を迎えることになります。

 

当時の、国際法や国連などが当然ない中では公益の最たるものは防衛軍事であり、それらを支えた重装歩兵の主力となった自由農民である平民が拡大戦争によって、権限が増大するのではなく、逆に没落したことによりローマは内乱の一世紀という逆境に立たされます。

 

ローマの防衛や拡大に貢献した自由農民や平民が逆に没落した共和制末期に比べて、帝制期に近づく頃には、カエサルがグラックス兄弟が挫折した農地法を成立させ、元老院の権限を制限し、アウグストゥスが補助兵を25年勤めた者や水道工事・建物の建設に携わる専門家集団に市民権などの特権を与えるなど皇帝が個と公(おおやけ)をリンクさせる役割を持つようになります。

 

しかし、帝制は世襲や血縁によるグループ主義を生みやすく、奇跡的にも免れた五賢帝時代は繁栄したものの、それは幸運の賜物でした。

 

また、与えられた特権であるローマ市民権も世襲されたことから、グループ主義化・貴族化していき、贅沢を通り越して、退廃的な文化を構築し、それらの生活は奴隷によって支えられるために、さらに帝国主義的な侵略によって、奴隷を確保ししていくしかなく、防衛線も大きくなり、軍事費も財政を圧迫するようになります。

 

一つの失策により、ドミノ倒しのように崩れていくリスクの上にあり、実際にローマはそのように崩壊していきます。

 

奴隷制度はグループ主義的な制度であり、当然望ましくない制度ですが、ローマ帝国では他の国々に比較すると寛容であり、努力によっては抜け出し、さらに上に登れる制度であったことが大国になった理由の一つであり、また貢献した者に与えられる特権も、ローマを繁栄させた原動力の大きなものでしたが、世襲化・固定化させたことがローマを硬直化させました。

 

奴隷制度・侵略戦争は現代においては禁忌条件であることは当然の事です。

 

ただ古代・中世の時代においてはそれは通用しません。よって当時の他国・他の地域との比較により話を進めていきます。

 

大国を一つの繁栄の基準にしているのも決して軍事的なものを最優先的に、帝国主義的なもの、侵略主義的なものを礼讃しているためではありません。

 

国力や経済力がそのまま軍事力や安全保障に直結してるのは、歴史的に証明されており、その指標として、当時の時間軸の中で基準としているだけです 。

その点については、ご理解の程して頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

 

次回⑸客観的評価システムを西欧の歴史2⃣(宗教改革)を踏まえて考証

前回⑶グループ主義を制御する客観的評価システムの種類と長所・欠点

 

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