民主主義とプロテスタントが深く関係していることは、当ブログでも何回か言及してきました。(その中の一つはこちら

キリスト教圏のプロテスタント国を中心に欧米で浸透していった民主主義が完全ではないにせよ地域的要素を無視して根付いていった唯一の国として日本があります。

日本に、欧米に比べると完全ではないにせよ根付いた理由として、明治維新における天皇の下に平等という考え方と日本特有の仏教の性質が挙げられます。

日本の幕末維新を通して、互いに異なる二つの天皇論が並列に存在していました。

一つは吉田松陰に代表される精神派で、絶対的権限を持つ天皇を中心とした仕組みを作り出すという考え方です。

もう一つは横井小楠、勝海舟、坂本龍馬に代表される近代派で天皇を制限君主として立憲君主制の下で近代民主国家を組み立てて行くという考え方です。

この二つが合わさって、明治維新は絶対的存在の天皇の下で平等で近代的な国家を目指すという方向性に進んでいきます。

これは、まさにプロテスタントにおける絶対的存在である神の下で平等と似た仕組みとなります。

しかし、大きく違うのは、神は現実社会には存在しないのに対し、天皇は存在するということです。

存在するということは天皇の周りに元老・重臣などの取り巻きが出来、近代的民主主義国家に向かうよりも取り巻きによる主観的裁量における独裁国家の方向性に向かってしまうということの大きなリスクを背負うことになります。

また、教育において、精神派的なものが中心に行われたことによって、されにその主観的傾向が強くなり、実際に日本はそのリスクに沿った方向性に少しずつ進んでいきます。

その方向性への動きを是正することは難しくとも、それに対し少し緩和もしくは後の時代のための種を播く役割を果たしたのが、日本特有の仏教の性質にあります。

仏教には、自ら修行する出家者つまり、聖職者しか救済を得ることができない上座部仏教と一般民衆など非出家者も救済されるとする大乗仏教があります。

日本は大乗仏教がほとんどであり、その中でも多くの宗派が中心に置いている経典が法華経です。

カトリックによって変質する前の原初キリスト教と法華経は極めて共通点が多く、互いに深く影響を及ぼしていたことがうかがえます。

法華経には三大思想というものがあります。

一乗妙法、久遠本仏、菩薩行道です。

一乗妙法はすべての人を平等に成仏させるという教えです。法華経が記された当時、声聞と縁覚は仏になれないという考え方がありましたが、そうではなく、声聞も縁覚も菩薩も皆平等に教えによって成仏することができるというものです。

これは、キリスト教の聖書で説いてる全ての人はキリストによって救われるよいう教えと共通します。

久遠本仏とはブッダは永遠の仏であるという教えです。

ブッダは過去、現在、未来にかけて、永遠に人々を強化し続けているとされ、法華経においては人間ブッダは永久の仏、永遠の救い主に昇格・神格化されました。

これはキリスト教における救い主キリストは、久遠の昔から永遠の未来まで生きて存在すると説かれていることと共通します。

菩薩行道は法華経の教えを生涯かけて他者に伝道することが救済の道という教えで、これはキリスト教を信じ、その教えを他者に伝えることで誰もが等しく救済されるとするものと共通します。

また、浄土真宗の開祖である親鸞上人が始めたことと明治維新に出された法律によって日本の僧侶、聖職者は妻帯しています。

これらも含めて、原初の、本来のキリスト教に戻ろうとした宗教改革の下に生まれた聖職者と信者の垣根が少ないプロテスタントと類似性があります。

ただ救いという命題において客観性を持つ予定説の解釈の仕方はありませんが、明治以降、法華経が流行したのも関連性のあるものだと思われます。

法華経の平等思想はブッダや仏の下でのもの、つまり現代社会に存在しないものに対してはグループ主義や癒着が生じにくくなります。これは神の下での平等のキリスト教と同様といえます。

しかし、救いにおいて客観性がないので、集団化するとカトリックの様に階級制やグループ主義的に変質するリスクがあります。

集団化せずに個別に法華経を信仰した人物として、北一輝や石橋湛山がいます。

北一輝は、法華経を信仰する前から、明治維新の本義は民主主義にあり、天皇の国家、天皇の国民でなく、国民の天皇であり、天皇が一国民として、一般の国民として、一般の国民と共に国家のために、行動する公民国家こそが明治維新の本来の理想ではなかったのかと大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判します。

彼の思想は弟の北 昤吉(衆議院議員)が述べるところには、尊王思想と民権思想・国権思想が三つ巴に入り込んでいます。

現実的状況が深刻化した中で、宗教的信念、つまり類似性のある法華経によって統一されています。

明治維新は近代派である坂本龍馬が起案した船中八策を下に策定された五箇条の御誓文を基本方針に、近代民主国家を目指しながら、身分制度を革新し、優秀な人材が活躍できる様に取り組まれます。

加えて、欧米に倣って官僚試験に、中国の科挙を祖としながら、試験科目を儒学から西洋の近代学問にしたメリットシステム(つまり、科挙よりもより質の高い条件的客観的評価システム)を導入することによって、急激に富国強兵を成し遂げていきます。

しかし、先述した通り、絶対的存在である天皇が存在する為に、その周囲の元老・重臣によって近代的民主国家の方向性が変質していきます。何とか整備された議会政治も、大日本帝国憲法の性質上、権限が天皇つまり、その取り巻きに帰結するため、首相の選出も元老が行い、首相の権限も限定的で他の大臣の首を切れないことから、内閣は閣内不一致ですぐ潰れたことから、どれをとっても、民主主義の利点である政権党の政治に対して多数の国民による選挙における支持率という評価と政権を任せるという報酬からなる結果的客観的評価システム(詳しくはこちらを構築させることが不可能な状態でした。

その中で、民主主義が中途半端に導入されたために、民主主義の欠点である金権政治や衆愚政治などだけが現出し、逆効果になってしまいます。

天皇の取り巻きを中心に、元老・重臣・官僚(軍部も含む)・政党・財閥などの巨大で堅固なグループ主義が構築され、不正・癒着がさらに蔓延していきます。

またアメリカの様には財閥を規制する反トラスト法、独占禁止法などが制定されないために財閥が台頭し、自由競争を利点とするはずの資本主義経済が硬直化し、農村では大地主の小作人に対する半封建的農奴状態によって娘の身売りなどが常態化していました。

民主主義は利点である結果的客観的評価システムが派生しなければ、欠点の要素だけが残り、古代のアテナイ、フランス革命後の共和政、ドイツのワイマール共和国のように衆愚政治などを経て、独裁に帰結する運命を辿ります。

北一輝はこの流れを確実に認識していたかは別にして、少なくとも感覚的に個の流れを止める政策を創り上げます。

それが大正十二年に作成された日本改造法案大綱です。

内容として、言論の自由、基本的人権の尊重、華族制・貴族院の廃止、国民の天皇即ち象徴天皇制、立憲君主制の確立、農地改革、普通選挙、財閥解体、治安維持法廃止などがあり、まさに戦後民主主義改革を大きく先取りする内容でした。

天皇を絶対とするファシズム体制下の日本では発禁処分となり、わずか四十七部しか印刷されませんでしたが、知識人を中心に影響力を密かに拡大していき、その内容にに強く惹かれ、筆写してまで熟読する者まで出てきました。

その中の一人には、当時東京帝大の学生であり、戦後首相になった岸信介もいました。

受け止め方、解釈の仕方、ピックアップした部分の違いは人によって多種多様であっても、「日本改造法案大綱」は昭和維新のバイブル的存在として、青年将校けら大学教授まで、幅広く、浸透していきました。

多くの知識人や作家が指摘していることとして、「日本改造法案大綱」が指針させた諸政策のかなり多くが戦後日本国憲法にふんだんに取り入れられていることです。

それは、天皇象徴制から始まり、国家組織の分業構成、官民の協働的関わりによる国営、半官半民、民営事業による相互連携事業論、高額所得制限、労働者の諸権利、国民の諸権利、被疑者人権の擁護、女性の保護、子供の保護と教育の重視等々「進歩的」もしくは「革新的」部分が多少内容を変えながらも広範多岐に亘って取り入れられています。

日本国憲法の出自の解析をすると、それが仮にGHQにより作成されたにせよ、日本の歴史的実情に明るく、極めて有益な諸規定をしていることに関して、誰か隠れた知恵者が居るのではなかろうかと推定できます。

「日本改造法案大綱」を能く知る者が、GHQ内に入り込んで知恵を授けたのではという可能性も十分に考えられます。

ただ、そうであろうとなかろうかと少なくとも戦後の日本国憲法に「日本改造法案大綱」が濃厚に影を落としていることだけは確かなことだといえます。

次に、石橋湛山について見ていきます。

石橋湛山は、日本の仏教の宗派の中で特に法華経を中心に位置づけている日蓮宗僧侶の長男として生まれます。

他の日蓮宗の寺に預けられ、教育されましたが、自身は僧侶になることなく、ジャーナリストになり、大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として民主主義を提唱し、自身が社長を務める東洋経済新聞社では日中戦争から敗戦に至るまで、リベラリストに論説の場を提供し続けました。

戦後、政治家に転向し、首相にも短期間ながら務めます。

晩年に至るまで、湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたといわれています。

聖書が置かれていた理由として、湛山が中学生の時に校長として赴任した、クラーク博士の薫陶を受けた大島正健の影響が大きいとされています。

大島正健は日本プロテスタントの三大源流の一つ札幌バンドの一人でもあります。

また、アメリカのプロテスタント宣教師であるアニー・サイレーナ・ブゼルが開いた聖書教室の門下から、民本主義で有名な吉野作造や衆議院議員を務めた小山東助などプロテスタントの信仰をし、大正デモクラシーに大きく影響を与えた人物が多数輩出されます。

この様に、日本の民主主義は明治維新の近代派の流れが、精神派的教育の徹底した普及により、変質・硬直した中で、集団化せずに個で法華経を信仰している者や日本国内の少数のプロテスタント信仰者によって、かろうじて種火を戦後まで保っていきます。

アメリカが間接統治した国は、ベトナム、アフガニスタン、イラクと多くありますが、安定した民主主義が成功した国は日本が唯一となっています。

間接統治である以上、根本的な要素を変えることは至難となります。

直接統治的に介入することは費用も莫大になり、地元民の怨嗟を強く受けやすくなります。

日本が成功した唯一の国となったのは、既に種が植えられていたからだといえます。

これらの戦後改革が進められて、多くのグループ主義的特権組織が解体され、天皇主権から国民主権へ変化することによって、日本は初めて民主主義から派生した結果的客観的評価システムを曲りなりにも、獲得することに成功し、安定した民主主義を定着させます。

しかし、外圧の力を借りての、完全に自力ではなかったせいか、もしくは二次大戦後直接統治されたドイツと違い、旧体制が温存されたせいか(一次大戦後二次大戦前のドイツの様に)、日本の民主主義は、プロテスタント諸国を中心とした民主主義指数の高い国に比較すると問題点が多く、何とか安定した民主主義というにはまさにギリギリのラインの指数を上下してきますが、そのことに関して考察していきます。

戦後にはアメリカの力を介在して、北一輝の改造法案に沿った改革がされていきます。

財閥解体によって、政官財癒着の中での財閥独占による経済の硬直化の解消などが行われ、農地改革により農民の生産意欲が大幅に向上して農業生産高が飛躍的に増進し、経済発展の基盤となります。

天皇主権から国民主権に変化したことによって、曲がりなりにも結果的客観的評価システムが不完全にしても機能していきます。

しかし、ドイツの様に直接当時された訳ではなく、間接統治のために権力基盤である官僚組織が温存されたため、少しずつ戦後改革を骨抜きにして、再び官僚組織が暴走していきます

戦前から続く特別会計が一般会計よりも多い仕組みは継続され、一般会計の四倍もの額になってしまっています。

一般会計に比べて、特別会計は国会で十分な審議が行われず、形式的なチェックになり、官僚の聖域化が起きてしまい、税金の無駄使いや天下りの温床となってしまっています。

天下りの人事に伴って、受け入れ側への規制・補助などにに関する利益供与が付随したり、非効率な外郭団体が構築され、官僚機構が公益性と異なる自らの利益を追求することから、さまざまな分野に癒着や不正を波及させていきます。

後天的・公平的・公益に沿った競争における結果の不均等の認容は社会を向上・活発にさせますが、先天的・不正・癒着・グループ主義に沿った競争における結果の不均等、貧富の極端な拡大は社会を沈滞・衰退させていきます。

ここでもう一度、戦後直後から振り返って見ます。

財閥解体・農地改革などの戦後改革により、公益に沿わない不健全な貧富の極端な差が改善され、健全な中間層の成長による需要力・購買力が増し、経済が国内市場の力によって、発展していきます。(これはレーガンノミクスでアメリカ経済が改善せず、中間層を重視したクリントノミクスが成功したことと共通します)

財閥解体・農地改革などにおいて、他のアジアの国々の戦後直後からの動きを同時に比較して見ていきます。

農地改革は日本での成功を下に、アメリカの推進によりアジアの国々に波及していきます。

 

波及が成功した台湾ではリカードの罠などに陥らずに、農民の生産意欲向上により農業の生産性が高まり、農民の生活が改善し、日本と同様に所得分配の不均等が是正され、国内需要が拡大していきます。

その後の繊維産業の国内市場的基盤も強化され、就業機会を増加させ、輸出の主導産業へと成長させていきます。

中小企業の経営者に転身した農民も少なくなく、結果として経済的底辺層の人々の生産・所得もさらに改善することになります。

途上国が離陸の契機を求めるために、農業を含めた産業各部門間のバランスのとれた発展を図ることが重要であり、局部的な開発努力では寧ろ生活貧困と経済停滞の悪循環に逆戻りしてしまう可能性が高いのは、農地改革が十分ではないASEAN・中南米・アフリカ諸国をみれば分かります。

 

一方、農地改革は進められましたが、戦前の日本の様に財閥支配体制を形成した韓国では、一定の経済発展はしましたが、財閥との政官癒着が著しくなります。主要財閥だけでGDPの八割近くを占め、財閥中心の経済構造が中小企業の発展を阻害していきます。

その結果として経済破綻が頻繁に起こり、財閥から銀行まで株主はほとんど外資となり、利益が海外に流出する植民地的経済に陥ってしまいます。

実質的な失業率が極めて高くなり、先進国では自殺率が最も高く、出産率・幸福度では最下位層に位置しています。

財閥支配の中小企業抑圧の不活性の経済で、健全な競争が乏しいために自前の技術がほとんど開発されず、現在においても自然科学分野のノーベル賞受賞者が輩出されていない状態です。

 

さらに、農地改革の停滞しているフィリピンでは財閥支配だけではなく、大地主支配も著しい状態となっています。

地理的には台湾に近接している位置にありながら、一人当たりのGDPでは台湾の十分の一程度しかありません。

戦前のフィリピンは東洋一の文明国といわれ、日本よりも豊かな状態にあり、日本人が仕事を求めて、フィリピンに多くの人が移住し、一九四〇年には在留日本人は三万人に達していました。

太平洋戦争によって、街並みが廃墟化しましたが、同様に廃墟化し、アメリカの影響が強い点でもフィリピンと同様であった日本が財閥解体・農地改革など戦後民主改革により経済大国となり一時期は先進国七か国中一人当たりGDPが一位で国民総生産も世界二位まで発展したのに対して、財閥の経済の独占や大地主のトラポに象徴される政治腐敗により、フィリピンはアジアの病人と揶揄され、経済の停滞から発展途上国に分類されています。

戦前から戦後の間近の一九五〇年代はアジアでもトップクラスの経済発展を誇ったフィリピンは後進国とされる東南アジアでもマレーシアやインドネシアに抜かれ、貧困と汚職の国となってしまっています。

深刻な財政赤字、通貨ペソの失墜、高い失業率、極めて低い貯蓄率による投資が伸びず、雇用創造に繋がらず、問題が山積し、警察はお金次第で動くといわれ、関税長官を一期務めれば豪邸が建つという位に汚職が蔓延ってしまいます。

当然のことながら、戦後民主改革がなければ、日本もフィリピンの様になっていた可能性は極めて高かったといえます。

戦後の日本は改革の恩恵の飴玉を少しずつ舐めながら消費して、成長して来た感があります。

歯科矯正にしても、習癖の改善なく、また骨の裏打ちのない所に無理に拡大をした時、その後、顕著な後戻りが見られます。

日本における政治経済においても同様のことが見られます。

半分与えらた結果的客観的評価システムに裏打ちされた安定した民主主義のため、その有難みの大切さに実感がなく、また本質的な戦前の反省がされていない状態によって、戦前と同様に、安定した民主的コントロールつまり、結果的客観的評価システムによるコントロールが不十分な中で条件的客観的評価システムであるメリットシステムにより生み出された官僚の暴走が少しずつ復活して来ます。

前述した通り、国会のチェックがほとんどされない特別会計が全予算の八割方を占め、それによって裏打ちされた天下りの人事によって、公益性に反する利益を官僚機構が追及していきます。

天下り人事に伴って、受け入れ企業側への規制・補助などに関する利益供与の付随、非効率な外郭団体の存在により、自由競争が阻害され、無駄な財政支出が増大することによって、莫大な世界一の財政赤字国となっていきます。

戦後に撤廃された様々な不公平が少しずつ様々な分野で復活して来ます。

条件的客観的評価システムであるメリットシステムと密接に結びついている学歴の頂点にある東大の合格者の家庭の年収にしても、高度成長期には合格者の家庭の年収は平均年収より低かったのが、徐々に上がり、現在でははるかに高い世帯年収となっています。

歴史的に見て、後天的な差が出るのが健全で社会が発展し、先天的な差が出るのが不健全で機会の平等が成立していない証拠といえます。

アメリカの経済をリードするベンチャー企業のトップの多くはハングリー精神が旺盛な移民一世か二世であることを見ても、機械の平等つまり、公平性がしっかり担保されていれば、必然的に平均的には、低年収の家庭から成功者が出ることが多くなるといえます。

戦後改革によって、戦前と異なって、選挙による政権党の政治の評価、他の機関の干渉を受けないでの国民大多数による審判、政権党から選ばれた首相が実権を握って評価の対象となり、責任を持つ政策・政治が行える環境が整えられ、システム的には結果的客観的評価システムの裏打ちを得られる状況となりました。

しかし、日本の政治において、政党という存在は戦前の流れから、政治上の政策・主義の相違を前提に集まる政治団体という性質以上に、地縁的・職縁的に大同団結していく利権団体の性質の要素が強く、政治家は政策を学ぶよりも、年間何百回にも及ぶ新年会・結婚式・盆踊りの顔出しが重要視され、政治家になるのも利益団体を引き継いだ血縁的世襲された二世三世の政治家か、団体や建設会社などの利権導入を担う者、中央とのパイプ役としての官僚位で、例外的に知名度を利用したタレント議員などでした。

純粋に政策を学び、政治家を志す者を送り出す場として、一時期的に松下政経塾がありましたが、教育システム・カリキュラムなどが客観的評価システムに裏打ちされたものでなかったため、ただ籍を置いただけで立候補する者が続出し、廃れていきました。

政策通として担う役割を果たすべき官僚も戦前の時と同様に、政官財全般に渡る官僚閨閥図(戦後民主改革によって一時期的には、完全ではないにせよ、かなりの部分は取り除かれましたが)を戦後においても再形成し、政策通グループというよりも、利権グループの中枢的役割の要素が強いものでした。

日本の国勢選挙での投票率は半分程度しかありません。

それに対して、北欧諸国の投票率は高く、デンマークを例に出すと、国政選挙で90%程度をキープしています。

候補者も多く、議論点のいくつかの賛成・反対の選択によって、どの政党・候補者と自らの考え方が近いかを確認できるシステムもあります。

そして、二世議員という慣習もありません。

衆愚政治の原因には、選挙民が識字率が低かったり、無教養であったり、政治に興味を示さないことや選挙民に選択肢が少ないこと等があります。

選択肢が少ないと比較する評価ができないので客観的評価システムの機能が十分働きません。

客観的評価システムが機能しなければ、改善は進行しにくいので、どこに入れても同じだと選挙民は無気力感から政治に興味をなくし、衆愚政治化はさらに加速されていくことになります。

これをまさに表していたのが、戦前日本の大正デモクラシーから憲政の常道期、軍部の台頭、ファシズム独裁の流れです。

戦前日本、明治期の日本の識字率は高く、国民の政治、民主主義に対する関心も大正デモクラシーまではかなり高いものがありました。

しかし、憲政の常道期においてはどこの政党が政権を取っても問題点が解決しなかったことから、国民の民主主義や政治に対する興味が薄れ、衆愚政治化していきました。

なぜ、その様な流れになったかというと、日本の憲政の常道期の政党政治では、一度も総選挙の結果に基づいての政権交代がなかったためです。

首相を選出する権限元老の意志に委ねられていました。つまり最後の元老と言われた西園寺公望の意思によるものでした。

西園寺ルールでは不可抗力で内閣総辞職に至った場合には、同じ政党から首相が選ばれ、政策に不都合があった場合には、反対党に政権が移るというものです。

このルールにおいては選挙は不要となり、何か問題やスキャンダルがあれば交代のために、政党間の対立攻撃は激化しました。

倒閣を果たした野党が議会の少数派のままで組閣与党という有利な条件の下で、総選挙で勝って第一党に躍進するという形式は政権交代の基本形式となりました。

有利な条件というのは、政権交代の度に百人単位で官僚が入れ替わり、自党系の府県知事や警察幹部などが配置され、選挙干渉を行うというものです。

このため、内閣は短命政権でくるくる変わり、民主主義の欠点である金権政治も当然のように蔓延って、国内外問題は山積みなのに、何も解決できない状態が続き、国民の不信感が高まり、軍部独裁へと進んでしまいます。

日本の戦後民主主義もこのまま衆愚政治化がさらに加速されていくと戦前同様独裁へと進んでしまう可能性は十分にあります。

それを防ぐための考察を別記事の方でをしています。➡(詳しくはこちら

 

 

 

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