人生には色々な選択があります。

大きな選択、小さな選択、ただどの選択においても、人生の無数の枝分かれの運命を司る役割を担っています。

この選択の手順を戦略的(長期に熟考して)戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)に分けて考察していきます。

前者は、大脳皮質系、理性的にじっくり考えて行動の方向性を決定していきます。

よって当然のことながら、人によって個性が出て、多様性が構築されます。

後者は、大脳辺縁系、本能的にとっさに場当たり的に判断し、直接行動に移していきます。

よって、個性というよりも皆同様の反応的な同一性のあるパターン化されたものが構築されていきます。

ただ、普通は後者の判断前に、前者の判断が介在しますので、人生の選択は個性が出て、多様性が構築されるのです。

しかし、その多様性においても、置かれている環境(国、社会など)によって濃淡、質の度合が大きく変わってきます。

具体的に見て行くと、選挙、進学・就職、採用、恋愛・結婚さまざまな選択があります。

選挙は自分の所属する環境(国、社会など)を決定させる大事な選択です。

しかし、国・社会の一つとってみても、置かれている環境によって全く制度が違います。

選挙においては、日本では候補者の名前を連呼連呼の画像するような認知度・知名度など主観的要素を競うことを主とし、政治家は政策を学ぶより、新年会・忘年会・盆踊り盆踊りの画像などの顔出しが重要視されますが、スゥエーデンでは、政策論争を中心とした静かな討論・対話集会対話の画像が一般的で、各政党のマニュフェストを叩き台にした具体的な政策論議が進められます。

政治主導による政策の実行で政策党の公約の七割から八割はスゥエーデンでは実行されていきます。

抽象的な公約しか掲げられず、余り守られない日本とは対照的です。

また、投票率も、定員に対する立候補者数も圧倒的にスゥエーデンは日本を上回っています。

民主主義から派生する政権党の政治に対して多数の国民による選挙における得票率という評価と政権を任せるという報酬という結果的客観的評価システムでは他の野党との対比や選択肢の豊富さがその機能の充実度に直結しています。

マニュフェスト等により具体的な公約が示され、過去実績において七、八割実行されていることは政権を任されていない野党であっても、政権獲得後のビジョンが把握でき、与党の代わりとなる選択肢になり得ると共に与党の実際の政治と以降の方針であるマニュフェスト等との対比にもなることから、日本の様にマニュフェストが抽象的で余り守られないことと比較すると機能の充実度がかなり高いといえます。

選択肢がなかったり、対比がしにくい状態では、当然投票率も下がり、日本の地方の首長を決める選挙では、相乗りの候補と共産党の候補の二択しかないことが常態化して、投票率も20%台とかなり低率になることもあります。

投票率が下がると一部の利権団体の影響力が大きくなり、正当な評価がされにくくなるという悪循環に陥ります。

つまり、選択するにしても客観的に評価選択できる選択肢が用意されている場合とそうでない場合があるということです。

前者の場合は、戦略的(長期に熟考して)選択がほぼできないことを意味します。(客観的に評価選択できる選択肢が乏しいのですから当然ですね・・・)

となると戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)選択しかないわけですが、大脳辺縁系、本能的に判断し、直接行動に移していくものですから、個性というよりも皆同様の反応的な同一性のあるパターン化された選択となってしまいます。

こんな選択の意味のない、改善変化機能のない行動自体を棄権する人も当然増えて行きます。(それは投票率に如実に反映されていますね・・)

もしくは、その決まりきったレールの方向性を目的意識を余り持たずに黙々と皆と同様にパターン化して道を辿って行くかありません。

次に、進学・就職についても見て行きます。

これは、いうももがな自分の人生の大枠(公的生活において)を決定させていく、最も重要な選択の一つといえます。

この選択においても、置かれている環境(国・社会)によって全く制度が違います。

この制度の違いを説明するキーワードとして条件的客観的評価システム

ワードが必要となりますので簡単に説明していきます。

条件的客観的評価システムとは、社会の利益を生み出すであろう知識経験などを評価するもので、選抜試験、資格試験などがこれにあたりごく普及されている一般的なものではあります。(結果的客観的評価システムと違い、あくまで社会の利益を生み出すであろうという予測でしかありません。)

条件的客観的評価システムには1⃣第1段階目つまり歩的、原始的なものに科挙があります。

次に、科挙に影響を強く受けた西欧諸国がより社会の利益に沿った評価システムとして作り上げたのが2⃣第2段階目になるプロイセン・ドイツから導入された官僚を採用するためのメリットシステムとそれらを裏付けする学歴があります。

そして、それら以上に社会の利益に即した形での3⃣第3段階目になるドイツ・スイスのマイスター制度などを起源としたデンマークなどの全職業に網羅された職業訓練教育制度に裏打ちされた資格・技量認定制度などがあります。

1⃣2⃣3⃣に進む程、質が高いものとなります。)

日本の大学生のほとんどは卒業し、その成績も就職にほとんど関与しないため、つまり評価に曝されないことから、皆が余り学ばなくなります。

日本の就職において、評価の対象になるのは主に学歴です。

しかし、学歴は大学入学試験における国語・英語・数学・理科・社会などの教養科目に対する評価になります。

教養科目は、実際的に、社会の利益を直接的に生み出す実学とは距離があります

主にその実学を学ぶ場が大学であるのに、それに対する評価はほぼ存在しないため、皆が教養科目を対象とした大学入試では必死に努力しても、大学に入ってからは余り学ばなくなるのです 。

教養五科目という、一つのしかも実学から距離のある基準だけの観点で評価をすることは、公益とのリンクが薄くなるとともに、人々の能力・努力の多様性を無視し適材適所という観点でも隠れた才能を極めて埋もれやすくなります。

アメリカと日本で対照的なものが、IQが高い人が多いギフテッドと言われる人々に対する取り組みの違いです。

キフテッドと言われる人々は、一般的に注意力散漫であったり、共同作業がうまくできないと言う発達障害 ADHD併せ持つとされています。

長所と短所が合わせ鏡のようになる状態で、実際にギフテッドの人々の高校中退率はかなり高いと言われています。

日本では、高校中退者は学歴という基準だけの評価では低能とされ、就職もままならず、社会の落ちこぼれとされる場合がほとんどです。

しかし、ギフテッドと言われる人々の中には、アインシュタインやビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ビル・クリントンなど多くの著名人が含まれます。

失読症であるディスレクシアである者も多く、アインシュタインもその中の一人で、第一志望の大学に落ち、滑り止めの大学でも教授とコミュニケーションが取れずに苦労したと言われています。 

一つの基準だけでの評価だけでなく、第三段階の条件的客観的評価システムのように、あらゆる職業に資格や技能鑑定を付与した評価基準が多くある方が、当然受け皿が大きくなります。

アメリカのように、大学に入ってから自由に好きな専攻を選択し、その実業に沿った専攻科目の成績評価 GPA が、その後の就職などの将来に大きく関与していくシステムも第3段階のシステムに準じたものと思われます。

アメリカでは、そのシステム以外に、直接ギフテッドの兆候が見られる子供達に早期に介入していくプログラムもあります。

できない所でなく、長けている所を探し、伸ばしていく教育がされています。

長所と短所は合わせ鏡であり、そういう意味で言えば、全ての人々がギフテッドで ADHD とも言えます。

その長所と短所の度合いが大きく、表面上に出ている存在が定義上のギフテッドと言うこともできます。

能力や才能のある優秀な人々というのは、ある意味その能力がたまたま適応する環境フリーライドしている側面があります。

優秀な人材を発掘、掘り起こすにはそれを評価するできるだけ多くの基準とそれを伸ばす教育の場が必要不可欠です。

ギフテッドでディスレクシアなどの大きなハンデがありながら、アメリカでは努力で克服し、活躍している人々が多くいます。

好きこそものの上手なれとは言いますが、自分の興味がある選択肢が用意されれば、人は努力乗り越えていく傾向があります。

大事なことは、限定した環境下でのたまたま適合した極めて一部分・一分野能力主義ではなく、様々な可能性・方向性が提示された中で、自分に適合するものを選択し、思う存分に努力し追求できる場を用意する実践的な教育システムとその努力を評価する客観的評価システムによって創設されて、保証される努力主義であるということです。

限局した範囲での能力主義に弾かれた者は、当然のことながら 努力する場も、評価もないことから努力をしなくなる傾向にあります。

デンマークでは、あらゆる職業でライセンス(資格)を持っていることが義務付けられていて、ライセンス所有者は職種による最低賃金が保証されています。

職業教育を終え、専門職のライセンスを得、実務経験を得た後でさらに同種のグレードアップした職業資格を取得することも可能です。

例でいうと、産業挙育コースの課程を修了して卒業資格を得て庭師になると40万程の月給が、さらに農業学校を卒業して農業技師の資格をとると50万、大学を卒業して造園設計技師の資格をとれば60万程の月給が保証されます。

これはスイスでも同様の制度がなされており、両国は生涯学習という観点ではそれぞれ一位二位の世界的最上位のランキングに位置しています。

評価・報酬制度の裏打ちがあってこそ、学ぶインセンティブが生まれるため、当然と言えば当然ですね。

様々な努力する場とそれを評価する第3段階のシステムある国の代表国であるデンマークスイスでは、自分の能力を向上させる生涯学習などで費やす時間だけでなく、国際競争力幸福度においてもそれぞれ世界最上位レベルの順位に位置しています。

つまり、客観的評価システムが充実しているいないで、進学・就職における自分の要望とマッチングする選択の基準となる物差しの多様性の充実度が全然異なるということになります。

日本のように、物差しが学歴という一つのものに限定されていると実質的に選択肢・選択幅もかなり限定されることになり、戦略的(長期に熟考して)選択もあまり活用されず、主としてパターン化された戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)選択が用いられるようになります。

進学・就職の逆サイドから見た人材の採用にしても、その人物の実業に沿った専攻科目の成績評価 GPAや技量を認定・保証する資格などの客観的資料が無ければ、面接官の主観的な短時間の面接だけでは、どう考えても戦略的(長期に熟考して)選択よりも戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)選択の要素の特性が圧倒的に強くなってしまいます。

次に、恋愛・結婚についても見て行きます。

これもまた自分の人生の大枠(私生活における)を決定させていく、最も重要な選択の一つといえます。

恋愛・結婚においても、選択における客観的資料・基準が余り用意されていません。

人材の採用における面接官の主観的な短時間の面接に少しプラスαされた(時間的・吟味的に)状況下で、外見・容姿など表面的雰囲気などで主として決められていきます。

しかし、外見(容姿)と中見(内面)のパラドックスの記事(詳しくはこちらをクリック)で述べた様に、外見(容姿)と中見(内面)は原則的に反比例・相反してしまいます。

選択における客観的資料・基準が余り用意されていないため、実質的に、大脳皮質系、理性的にじっくり考えて行動の方向性を決定していく戦略的(長期に熟考して)選択よりも、大脳辺縁系、本能的にとっさに場当たり的に判断し、直接行動に移していく戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)選択が主となる為、外見(容姿)と中見(内面)を比例的に捉えてしまいます。(事実と相反する)

学歴や収入などがあるのではないかという意見もありますが、これは主要5科目の学業の習得状況と資本主義的な経済活動が優れているもしくは上手く現況とマッチングしていることを示しているに過ぎません。

その人、個人の内面的、生き方の方向性などはそれらでは決して測れません。

これが、公益・社会利益に沿った客観的評価システム(条件的、結果的共に)十分に充実・機能している状態であれば、高収入の人が社会利益により尽くして、生き方の方向性においてある一定の評価値を提供する可能性もありますが、現況ではなかなか難しい、可能性として極めて乏しい状態といえます。

よって、現況において、特に客観的評価システムがあまり整備されていない環境下では、いくら戦略的(長期に熟考して)選択を重視しようとしてもそのための評価基準・資料がないため、実質戦術的(短期的、とっさの場当たり的な判断)選択するしかないという現実を許容するしかない帰結となってしまうことになります。

つまり、どの選択においても、大脳辺縁系、本能的にとっさに場当たり的に判断し、直接行動に移すような個性というよりも皆同様の反応的な同一性のあるパターン化された行動をするか、もうそのようなつまらない選択に幻滅し、行動・選択自体をせずに放り投げるか(選挙に行かなかったり、進学・就職せずに引き込もったり、恋愛・結婚せずに独身を貫いたり・・・)などの非建設的な人生となってしまいます。

人生は「学びの場」と言われていますが、これでは学ぶというよりもただ無機的に決められたレールの上を辿り、事なかれ主義に時間を浪費させるだけのような気がします。

人生は牢獄のようなものだと表現する人がいます。

スピリチュアル的な人の中には、さらにこの世の中は別世界(私たちのいた本来の世界と定義されています)で罪を犯した人々の牢獄・刑務所であると主張する方々もいらっしゃいます。

百歩譲って、そうだとしても学びが無ければ、再犯率が高いことを考えても(詳しくはこちらをクリック)この世界の存在価値が極めて無意味なものとなってしまいます。

学びの為には、生涯学習時間が世界一位・二位のデンマーク・スイスの例を見ても、そのモチベーションを裏打ちする客観的評価システムの整備が必要不可欠であることがわかります。

評価・報酬するシステムによってモチベーションを湧かせるのではなく、自己犠牲・奴隷根性的にモチベーションを無理やり湧かせることは、教育ではなく、洗脳に近い行為のように思います。(シベリア抑留における共産主義思想の植え付けのように・・)

歪んだ思想・不幸がどの世界においても、まき散らされ、全くもって逆効果となってしまいます。

人生を学びある、個性的で、多様性のある面白く、楽しいものにするためにも客観的評価システムの整備は必須なのです。

そして、世界比較的に客観的評価システムの整備が整っている国程、幸福度が高いこともそれを証明しています。

 

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