名君はどのようにつくられるのか?

これは、当時の封建時代の人々(君主、家臣、民衆ともに)にとって恐らく永遠のかつ最も重要なテーマだったのではないでしょうか?

歴史的に見ると、どの王朝も初代から末代にかけて君主というものは大体は代を重ねる毎に劣化していき、そして滅亡していく流れとなります。

しかし、その中で突然変異的に名君と呼ばれる存在が出現することがあります。

いわゆる中興の祖といわれる存在です。

突然変異的な存在ながら、彼らの出現頻度・期間によって王朝の存続期間がほぼ決まるといっていいキーポイント的な存在でもありました。

このキーポイント的な存在を世界的に、全時代的に次々とあっとランダムに挙げてみます。

徳川吉宗、上杉鷹山(日本)、康熙帝、宣帝、弘治帝(中国)、正祖(朝鮮)などです。

こうやって挙げて行くと、ある共通点に気が付きます。

全ての人が、順当に皇太子など後継者の道を経由して、君主の座についてないということです。

つまり、言い換えると全ての人がダークホース的な立場、本来ならば君主になれない立ち位置もしくはかなり困難であろう立場からなった方々でした。

徳川吉宗は徳川宗家どころか御三家紀州藩の四男、母は低い身分の出身で幼年期は家臣の下で育てられました。

上杉鷹山は高鍋藩主の次男ですが、母方の遠縁である米沢藩主の上杉重定の養子となり、その跡を継いでいますが、後の彼の改革が七家騒動など上杉家代々の重臣の凄まじい抵抗を受けていることからもわかるように、支持基盤は極めて不安定で脆弱な状態な背景で君主の座に就いています。

清の全盛期を築き、中国史上最高の名君といわれた康熙帝も幼年期に天然痘にかかったことから城外に出され、祖母により厳格にしつけられましたが、その天然痘を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として後継者に指名されました。

宮中で育てられず、北京のつましい地区で育てられたということであり、先帝が崩御して家臣が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいたといわれています。

中国前漢中興の祖とされる宣帝も、皇太子であった祖父が無実の罪で一族諸共処刑されましたが、彼だけは生後間もないとの理由で殺されず、投獄され、恩赦により釈放されると民間で育てられました。

中国明の中興の祖とされる弘治帝の母親は少数民族の娘で、反乱鎮圧で全家族を誅殺され捕虜となり、弘治帝の先帝に宮人として献上されました。

また先帝の寵妃は嫉妬深い女性であり、自身以外の妃が妊娠した胎児をことごとく堕胎していたために、弘治帝は家臣により密かに育てられ成人しましたが、皇太子時代にも危うく廃されそうになったことが幾度と無くありました。

朝鮮王朝中興の祖とされる正祖も皇太子であった父親が祖父であり、先帝でもある英祖によって米櫃に閉じ込められて処刑されており、英祖の後継者として冊立されるも、老論派(主流派)からの激しい妨害の中で常に生命の危機に晒されています。

逆に暗君・愚帝のほとんどが順当に安定的に後継者の道を進んでいます。

順当に安定的に後継者の道を進むと地位に安住して修養を怠り、周囲から甘やかされ、ちやほやされてしまうなどの状況が生み出されるからだと思われます。

比較的暗君・愚帝が少ないといわれた中国清の時代の後継者指名が太子密建という生前に公式に後継者を指名せず、継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後で紫禁城の乾清宮の正面に掲げられた「正大光明」と書かれた額の裏に置き、皇帝の崩御後、衆人立会いの下でこれを開き後継者を決めるという方式がとられているのもそのことを裏付けることといえます。

歴史的観点から見ると、名君というものは、血筋や個の素質によってつくられるのではなく、健全に努力でき・成育される環境・周囲によってつくられることがわかります。

これは、名君だけでなく、すべての人々の健全な精神的向上に言えることだと思われます。

個の血筋・素質よりも努力・成育させる社会の環境・システムが重要であることがわかります。

現代の似たような現象として、若いきれいな女性の方の悉くが、男性の立場から見てこいつはヤバい思われる男性に落とされてしまうことと同じことなのかもしれません。

同じ男性の立場から見ても、若いきれいな女性に対する周囲の男性のちやほや対応・アプローチ度合には正直少しドン引きするものがあります。

その中で、思春期後の大事な精神的育成期を迎えてしまうと、順当に安定的に後継者の道を進む皇太子のように、健全な精神的向上を積み重ねることは誰であってもかなり困難であると思われます。

架空の物語やドラマでは、若いきれいな女性や王子様が主人公で心も美しく描かれることがほとんどですが、現実的もしくは歴史的には真逆の現象・現実を実感されている方々も多いのではないでしょうか?

歌手の岡村孝子さんと結婚された現政治家(元野球選手)である石井浩郎さんが離婚されるときに、冗談ぽく『人魚と思ったらホオジロザメだった。』と表現されたようですが、これは決して特異なレアケースではなく、現実的には典型的、通常のありがちなことなのかもしれません。

女性であれば、昔はヨン様、いまはBTSのような王子様キャラを男性であればガッキー(新垣結衣さん)のようなきれいで清楚なイメージのあるタイプを表面的な雰囲気、外見上のものだけで評価し、それを内面的な全ての評価に類推延長してしまいがちです。

公益に沿った客観的評価システムが十分整備されていれば、判断基準が表面的な雰囲気、外見上のものだけでなく、多角的に人を判断することができますが、残念ながら余り現在そこまで整備されてるとはいえません。

となるとどうしても人は表面的な雰囲気、外見上のものだけで評価し、それを内面的な全ての評価に類推延長してしまいがちになり、それによってさらに表面的なものの価値が爆上がりしてしまうのかもしれません。

本来ならば表面的なものの価値よりも公益に沿った客観的評価システムなどの内面的、本質的なものが評価される方が、皆の努力の方向性・ベクトルが社会を構成する全員の幸福に直結して好ましいとは思うのですが・・・

公益に沿った客観的評価システムが整備されている国程、幸福度ランキングが高いこともそれを裏付けています。(詳しくはこちらをクリック

 

 

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