平等主義というと一見プラスのイメージ、すばらしい言葉に思えます。

しかし、これを全体的・永続的に追及していくと全ての人が対立し、争い、貧困・戦乱にあえぎ、強固で固定的な特権階級が乱立される悪魔の制度となってしまうことが、長い歴史を遡って検証すると実感できます。

近現代における凄まじい粛清・内紛の嵐に満ちている共産主義政権

中世の西欧におけるカトリック教会支配の戦乱・貧困の闇の中にあった暗黒時代

宗教というものの基本的な教義は平等主義です。

しかし、現代のように政教分離が計られずに世俗的な政治に関与してくると、なぜか彼ら教団は利権団体となり、富を独占して固定的特権階級を形成するのです。

中世の西欧におけるカトリック教会は当時の富の三分の一を所有し、幹部のほとんどは貴族の子弟出身を採り入れ、貴族階級化していました。

大体の宗教では、救済、救いというものを前面に押し出して来ます。

既得権益化した上層部主観的判断つまり裁量で、それらの基準を操作することが莫大な権益となっていまいました。

日本でも戦国時代において、日本の八大金持ちとされたものに、寺社は四つも含まれています。

石山本願寺においては、イエズス会の者により『日本の富の大部分はこの坊主の所有である』と書かれるほど財力を有し、戦国大名と姻戚を結ぶなどカトリック教会と同じように、封建制度の既得権層との密接な繋がりを持っていました。

この様な既得権益化した勢力を排除することが対立・腐敗をなくし、戦乱・戦国時代を終焉させるには必須不可欠であり、日本の戦国時代を終わらせたのは間違いなく織田信長といえます。

他国各国の歴史を見ても、長きにわたる戦乱の戦国時代を終わらせる前提として必ずといって、主観的な要素の強いため既得権益化した宗教勢力の排除が行われています。

五代十国時代の柴栄による仏教勢力弾圧(中国の織田信長と言われています。)、秦の始皇帝による儒教思想弾圧などです

どんなに教え自体が素晴らしくともその教化の運営自体が教団の上層部によって主観的に行われると既得権益化し、社会における対立・紛争を激化させているのは歴史が物語っています

現代においても、政教分離が計られていない国程、貧困・戦乱に満ちています。

また、多くの新興宗教の実態も昔の戦国大名かという位の世俗的血縁・姻族関係によるヒエラルキーによる固定的特権階級の構築がされており、後継者選出においては利権をめぐるドロドロとした家族・親族間における権力闘争がよくちまたにスクープされていますね・・・

封建制度等の旧固定的特権階級を排除する過程における一時期的平等主義は有用であっても、その目的を果たした後もその方向性を永続的に追及することは、旧体制時以上の苦しみに社会全体が喘ぐことになってしまいます。(数多くの共産主義政権やフランス革命後の混迷を見れば明白です。

なぜでしょうか?

それは、平等主義を長期に追及してしまうと、グループ主義を制御する役割を担っている唯一といっていい制度である客観的評価システムが機能不全を起こすからです。

 

グループ主義を制御する役割を担っている唯一といっていい制度がなぜ客観的評価システムなのでしょうか?

それを考証していくには、グループ主義を形成する集団欲とそれを制御する客観的評価システムというものが人類社会にどう深く影響を与えてきたかを、人類の成り立ちから遡って見ていく必要があります。

鋭い牙も爪も持たない人類が他の大型獣に打ち勝って生存できたのは、集団を形成することで初めて獰猛で強靭な獣と拮抗し、凌駕する術を得たからで、その本能として集団欲が深く根付きました。狩りの画像

人類は肉食獣的な個々もしくは一家族を単位とするよりも、草食獣的な集団を単位として生存競争を潜り抜けて社会的動物であり、集団や群れこそ実態とも言えます。

外部に攻撃対象を置くことによって、集団は内部の結束を強めます。内部の結束を強めることでさらに外部への攻撃は強くなります。この循環を繰り返し、集団はより強固なものとなっていきます。

しかし、これらが原始時代の肉食獣など他の動物に対して発動するのならともかく、人類が長い期間をかけてこれらの敵に対してほぼ克服し、もしくは生存において優位な立場になった時、つまり人類の人口が大幅に増え、他の多数の動物の中の孤立した集団ではなく、人間同士の集団が接し合うようになると、人類の集団の攻撃対象は人類の集団同士になってしまいます。

人類の集団同士の争いの中、集団は村を、村は小国をそして公(おおやけ)としての国を形成していきます。

国を支配する一族やグループは当然、特権や利益を得又差配する権限を所有することになります。これらは主に武力によって獲得されたもので当然に他の別グループによって同様に武力によって覆すことも可能となります。

実際にそうやって長い間古代中国は王朝と王朝の間に何百年という内乱の時代を必然のように含有し、王朝時代期間内にも常に政権内の武力的な紛争を抱え込んで行きます。

グループ同士、集団同士の争いは当然に公(おおやけ)としての国の力を落とし、属する個の人々の不幸に直結します。

内乱の時代は人口が激減します。生存するのが極めて困難な悲惨な社会となります。

つまり、原始時代のように人口が少数でそれぞれ孤立した集団しかない時ならともかく、人口が増加して多数の集団が融合した公(おおやけ)が構築されると公(おおやけ)内の 利権を巡って、しかも公(おおやけ)全体の公益を蔑ろにしながら、集団同士が争う傾向が非常に強くなります。

これをを避けるためには、公益と個また公益と集団を直接リンクさせる特別な仕組みが必然となります。

その仕組みがないと 、人類の歴史上、極めて長期間生存本能として強く機能し、実際他の肉食獣に対して有効に役目を果たしてきた集団欲が、原始時代を脱した時代においては、個と集団を密接にリンクさせ、公と個、公と集団のリンクを蔑ろにしてしまう結果となってしまいます。

その特別な仕組みが客観的評価システムというものになります。客観的評価システムというものには、公と個・集団それぞれと直接リンクさせていく働きがあるからです。

しかし、平等主義を一時的・限定的にでなく、永続的・全体的にに追及していくことは、客観的評価システムの評価・報酬機能を実質的に無価値・無力化することになってしまいます。

そうなると、何も集団欲によるグループ主義の形成を制御するものがなくなり、皮肉にも平等主義とは全く逆の存在である所の固定的特権階級が乱立されることになるのです。

さらに平等主義の弊害として、二面性の原理(建前と実態)があります。

建前としては、平等主義を歌いながら、実質的には固定的特権階級が築かれていく現実があります。

それは、社会利益・公益とリンクした客観的評価システムがグループ主義を制御する機能に特化している中で、平等主義を追及してしまうとその機能が実質的に機能不全に陥ってしまい、急速なグループ主義体の形成が乱立してしまうからです。(行きつく先、結果・待遇・幸福度が同じであれば、評価・報酬は全く意味のなさない絵空事になってしまうということです。)

その中で、幸福な状況・待遇をゲットできるのは、自己中心的、サイコパス的要素を持つ精神未熟者でなければ極めて困難になります。

なぜなら、この二面性の原理において、実直に建前を実践し、他の人々を思いやり、公益性を追及していくことは、報われず、心がズタズタに引き裂かれていくことになるからです。

社会のために、身を粉に努力をしても、それに報いるシステムが機能していなければ、彼らは奴隷のように搾取されるしか無い為です。

その状況に罪悪感を感じずに利益やグループ主義を追及できるというのは、精神的偏り・欠落を抱えないと不可能になります。

社会の利益者がこの二面性の原理の中で自身を含む社会全体の幸福を追及するためには、この状況を踏まえながら、精神を強く持ち(麻痺させ?)、自身の幸福を建前に反する形で追及すると共に、社会全体の幸福を実践するであろう社会システムの構築に邁進するという途方もない離れ業をしていかなければならず、心身ともに疲労し・崩壊してしまう可能性が極めて高くなります。

しかも、その困難な中でも、社会の利益主義者がグループ主義に走らず、なんとか公益性と個の利益を両立させて得た高待遇・幸福度さえも、建前としての平等主義の理論で妬まれ、足を引っ張られる可能性があります。

致し方のない環境・理由ではなく、非努力・娯楽主義からなる”持たざる者”からなるグループ主義によって、恰好の攻撃対象になるからです。

自己中心的・グループ主義的・反公益的に利益を追及し、高待遇・幸福度を得た大多数の””持つ者・所有するもの”に対しては、余り攻撃の矛先が向きません。

強固なグループ主義によって彼らは守られている為です。

グループ主義の大元である集団欲から生じる攻撃性は快楽物質(アドレナリン)によって加速され、その本質である本能のおもむくまま攻撃しやすい所に集中してしまいます。

公益性を保つためにグループ主義と距離をおいて、ひたすら努力・試行錯誤している社会利益・公益主義者は、公益とリンクした客観的評価システムで守られていない限り、防御力はゼロに近いのです。

しかし、社会全体の公益性の観点から見ると、彼らが守られ、グループ主義者が制御されることが望ましいことは言うまでもありません。

実際的に、長い歴史を現代まで遡って考察すると、客観的評価システムが整備された国・社会・組織程、発展し、かつ幸福度が高いことがわかります。

 

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