古代中国の画像

まず古代中世の中国史から客観的評価システムの考察をしていきます。

①何百年と続く内乱と戦国の時代をなくす科挙制度

この時期における客観的評価システムは初歩的な条件的客観的評価システムである科挙制度だけであり、よってこの制度の考察を中心に話を展開していきます。

科挙制度が成立するまでの中国では、人材の選抜法として郷挙里選九品官人法などの有力豪族や貴族による血縁やコネにより事実上人事権が握られた主観的な選抜法 が採用されており 、当然のことながら、腐敗、賄賂が横行する不公平なもので、対立、紛争が多発する状況下にありました。

春秋戦国時代、三国志時代 、五胡十六国、南北朝時代と王朝と王朝との間には何百年と続く内乱と戦国の時代は続き王朝の成立期間であっても 非常に内紛にまみれたものでした 。関羽の画像

この状況下で人材登用という点で歴史上極めて画期的なシステムが登場します。人材登用の客観的評価システムの中では極めて初歩的で内容的にも問題の多いものでしたが全くない状態から初歩的でもある状態の変化はそれだけでも劇的に新しい時代を切り開いていきます。 

何百年という戦乱  を統一した隋の文帝により、実力によって官僚を登用するために九品官人法は廃止され、それに代わる官史登用制度として科挙が始められました。

科挙は試験による官史登用制度で中国では元の時代に一時期中断されたのを除いて、清代まで1300年間にわたり続けられました。

科挙が本格導入された宋の時代以降に中国では王朝から王朝までの何百年における内乱・戦国時代は見られなくなりました

内乱や王朝交代期における短期間の戦乱は存在しましたが、度合いはかなり減少しました。

②移行期である唐王朝

宋の前王朝である唐の時代では従来の主観的な選抜方法客観的な選抜方法の科挙が混在する移行期となりました。

科挙は導入されたものの、恩蔭の制という科挙を受けなくとも父親の官位で子供が一定の高位に就くことができ、そのような官僚は任子と言われて、唐の前半までは任子が優勢で、科挙で選ばれた進士はそれを補う形でした。

新王朝の初期は代々名君が多く、唐でも隋の文帝が整備した法治主義の要素を持つ律令制を受け継いた太宗により国力は高まり、治安も安定しました。

天下泰平になり、道の置き忘れたものは盗まれず、家の戸は閉ざされることなく、旅の商人は野宿をする程、豊かで治安の良い治世でありました。

ただ、今までの時代と同じように名君は続きにくい傾向にあります。

特に王朝の中期後期になるほど主観的基準、つまり血縁や家柄で登用された重臣に囲まれた中で、君主は育成されてしまいます。

太宗の後を継いだ高宗も政治への意欲が薄く、代々の時代と同様に外戚一族の専横が始まります。

ただ、他の通例と異なったことは皇后の武后が貴族階級の本流から遠く、既存の名門貴族層から支援が受け難かったために、非名門出身の科挙合格者の官僚が積極的に登用されていったことです。

武后は帝位を簒奪し、中国史上唯一の女帝となったために、政争は絶えませんでした。

しかし、彼女が権力を握っている間には農民反乱は一度も起きておらず、民衆の生活は安定しており、後の唐の絶頂期てある玄宗皇帝時代の開元の治を行ったのは武后時代に登用された科挙出身の官僚が中心となっています。

玄宗治世の前半の開元の治時代とって打って変わり、後半は唐朝宗室の一員で貴族派、恩蔭派であった李林甫が実権を握り、開元最後の賢相と言われた張九齢など科挙出身の政治家を追い落としました。

加えて、府兵制の破綻に伴なって、変わる兵制として節度使制度が採り入れられましたが、 文民統制されていた節度使の役職が李林甫により、軍人が就くようにされ、節度使の権力集中を危惧していた張九齢が人物的にも警戒していた安禄山を抜擢し、その結果として安禄山は十の節度使のうち三つもの節度使を兼任するようになりました。

つまり、安史の乱を始めとする節度使勢力による唐衰退の端緒を恩蔭派の李林甫が開くことになってしまいました。

唐後期から五代十国の戦国時代にかけては節度使を中心とした軍閥同士の争いとなりました。

ただ科挙制度が一部行われた影響か、従来の何百年という期間では ではなく五十年程度の内乱・戦国時代となっています。

 

③宋王朝での科挙制度

完全に科挙による登用制度に移行した宋以降の王朝では、旧王朝から新王朝にかけての移行期においての多数の国々による短期間での政権交代を伴う百年単位の内乱・戦国時代、軍閥割拠の時代はほとんど見られなくなりました

五代十国の戦国時代を統一した宋では、軍人が政治を執る五代の傾向を改めて、文治主義を打ち出し、科挙の整備、地方の軍隊の弱体化と中央軍の強化、節度使の無力化などを行い、それまでに貴族が科挙を経ないで官僚になることはよくありましたが、それを廃止しました。

しかし科挙は客観的評価システムの中で極めて初歩の問題の多いもので、まず科目に儒教の解釈が含まれ、科挙に及第した官僚たちには詩文の教養のみを君子の条件として尊び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する者もいる始末でした。

科挙の試験自体が一般常識を備えたという条件をクリアしてるかの客観的評価システムでしかなく、高い技術があっても専門家は軽侮される傾向が強く、偉大な発明を行った技術者や科学者が高官に登った例は極めて少なく、書物や前例ばかりを重視して実務に疎くなるという欠点がありました。

また条件的客観的評価システムである科挙を補填・修正するべき結果的客観的評価システムも欠如していたことから、三年清知府、十万雪花銀という詞がある通りに三年地方官を勤めれば、賄賂などで十万両位は貯めることができるという状態となり、トップの厳しい管理がなければ、腐敗官僚の登竜門的様相を呈することもありました。

科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれ、職役などの免除や罪を金であがなうことができるといった数々の特権が与えられました。

科挙によって登場した官僚たちによる新しい支配階級は士大夫と呼ばれました。

ただ今までの旧来の貴族の家系は場合によっては数百年間続いていたのに比べ、士大夫 の家系は長くとも四~五代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ、昨日の権門も明日には没落する状態になっていました。

特権を目的とした貴族間の戦争から、同じ特権を目的としながら、戦争ではなく科挙の受験勉強における競争へと主とした部分で転化されたために戦争は減少し、宋の時代は中国のルネッサンスと呼ばれ平和を謳歌した時代でもありました。

中世、町の人々は普通防犯のために夜間は 日本でも江戸時代、夜は外出禁止で辻々に木戸という門で塞ぎ、木戸番という役人が目を光らせていました。中国も唐代の長安など夜間には木戸を閉めていました。

ところが宋代では夜間外出自由になり、盛り場は夜中明るく、人々は旅芸人の芸や講談読みの話を聞いて楽しみました。経済的文化的には空前の繁栄を迎えました。

④科挙制度の欠点

しかし、科挙の最大の欠点である要素として儒教が導入されていました。つまり、一般常識を図るための経書の解釈などは儒教の経書が使われました。

客観的評価システムの一つである科挙の中に相反する主観的評価・裁量を主とした儒教が取り入れられたのです。孔子の画像

儒教は素晴らしい思想です。論語人生におけるバイブルともいえる良書だと思います。しかし、どんな宗教・思想も長所もあれば短所もあります

背景となる時代・環境・状況下によっては大きく+(プラス)に作用したり、-(マイナス)に作用したりします。

科挙導入により、血縁などに限らずに登用されるようになったため血縁間における争いは薄められましたが、儒教の特徴である朋友などを対象とした差別愛が引き起こす争いが朋友など派閥間においては逆に表面化し、強まりました

また儒教の欠点である実学を軽視し、スペシャリストを下の存在としてみる点においても科挙の公益のための客観的評価システムとしての質をマイナスに導きました。

儒教が浸透すればするほど、派閥争いが激化する傾向にあります。

後漢期における党錮の禁、唐代の牛李の党争、宋代の新法旧法の争い、明代の東林党・反東林派の争いなどがあり、中国以上に儒教を国教化した朝鮮の李氏王朝での朋党政治・派閥政治の悪弊は有名です。

その他儒教の人治主義の傾向が強まると法治主義が弱まり、結果汚職が盛んになり、実学軽視の傾向から、万巻の書を読み、何もしないという者が尊敬される反面、額に汗を流す職人などが軽視されるなどの欠点も出てきます。

宋代においても、徐々に慶暦の党議、新法旧法の争いなど派閥争いが激化していきます。

朝廷に腐敗が進行し、国力が落ちたために、異民族の侵略を防ぎきれず、北宋は女真族の金に、南宋はモンゴル帝国の元により滅亡されてしまいます。

その後、元が中国を支配していくことになります。フビライの画像

科挙は清代末の1905年に廃止されるまで続けられますが、その中で元の時代は唯一中断された期間になります。

元の時代の人材登用法は、まさに以前の中国の戦国時代と同じくする血縁・家門を中心とする縁故採用でした。宋・明・清など他の王朝に比較して明らかに短命な王朝であり、王朝時代も

派閥争いというレベルではなく、モンゴル貴族同士の激しい武力による血で血を洗うような権力闘争が繰り広げられました。

宋・明・清における特権階級は科挙合格者によって形成された士大夫という新しい支配層で、科挙が根付く以前の中国や元代における特権階級は血縁・世襲などを主とした門閥貴族という旧支配層ということになります。

組織単位の争いは大体、集団欲の暴走によって引き起こされますが、血縁における集団欲は生存本能・子孫を繁栄させるための本能により直結していることから、他種の集団欲に起因する争いより激化・長期化する争いを生じさせてしまいます。

科挙はこの血縁を起因とする争いを以前に比べてかなり減少させることになります。

しかし、人治主義など主観的要素の強い儒教が科目に取り入れられたこと、また結果的客観的評価システムのフィードバック的補填・修正がないことも相まって他の派閥などから起因する集団欲の暴走からの争いは代わりに増えることになります。

ただ争いの激化度・長期化は以前よりかなり改善されました。

それは血縁を起因とすることと派閥を起因とすることの集団欲における 生存本能における直結度の問題だけではありません。

特権階級を獲得することは集団欲以外の本能の五大欲の一つの財欲名誉欲などに深く関係します。

それらは今まで貴族間の武力闘争を中心に行われてきましたが、その中心の中に科挙の受験勉強という要素が大きくウエイトを占めることによって当然争いの度合いも減少することになります。

科挙導入によって、宋の時代の市民たちの享受していた豊かな生活・文化の質は世界に比べるものがない程になり、農業中心だった中国が飛躍的な商業の発展を見せ、流通システムが伸び、印刷術が文化を広く伝え、首都だけでなく地方にも商工業都市ができました。 

しかし、条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織、つまり官僚機構が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまう性質があります。(詳しくはこちら

これを改善・改革するには極めて強力な反発があり、改革者は強い憎しみを受けます。

 

⑤王安石の改革

初期の条件的客観的評価システムである科挙を本格的に導入した北宋においても、王安石の改革でそのことは実感できます。

経済の拡大によって、大地主・大商人が官僚機構と繋がって台頭し、自作農・小商人が没落して彼らに隷属するような構造が出来上がっていきます。

税負担者の減少、経済の硬直化に加えて、官僚群と軍隊は増加の一途を辿り、財政破綻の危機になります。

その中で改革の必要性を説いたのが王安石です。

貧農や小商人に対し低融資で支援する青苗法・市易法

大商人の暴利を防ぎ、かつ財政収入確保の効率化のための均輸法

農民にとって大きな負担となっていた労役を免ずる募役法

貴族・特権官僚・大地主などの特権・利益を抑え、中小農民や中小商工業者を保護・育成し、財政の再建を図ろうとした政策に加え、官僚機構を改革するための科挙改革である三舎法倉法なども時の皇帝である神宗に上奉します。

それまでの科挙の最重要項目文化人としての素養つまり詩文の才能などであったために実際に役人として重要であった法知識や経済能力は問われませんでした

そのためにそれらに長けたものを雇い、実務を執らせていました。

それがで胥吏です。

しかし、彼らは無給のために手数料や民衆から搾取によって収入を得ており、その搾取はかなり悪辣なものでありました。

そこで王安石は科挙において現実政治に対する実践を図る論文試験を重視するようにして、官僚に法律・経済に対する知識を持たせる一方で、実務を取り仕切っていた胥吏の腐敗を防止するために、俸給を支給する代わりに賄賂を取れは厳罰に処す倉法を制定します。

加えて、三舎法により大学を創設し、実際の政治に必要な知識を教育によって身に付かさせ、外舎・内舎・上舎の三段階に分けた定数600、200、100の中で年2回の試験を通過した者が上に登り、上舎での成績優秀者が官僚として採用されるようにしていきます。

新法の改革によって、国庫には潤沢な資金が入り、その資金を市易法の低率融資や雇用対策費用に充てて徴税層に還流させることで景気が上がり、治安も改善されました

国家財政の好転と政治の安定化を承けて、複雑な二重官制を一元化し、官僚機構の煩雑性の改善・人件費削減という国初からの懸念は解決に向かいました。

しかし神宗が崩御すると、旧法党の司馬光が宰相となり新法は悉く廃止されてしまいます。

安定した民主的コントロールがない時は頼れるのは名君のみです。

名君であった神宗の時は改革は進行しましたが、暗君の時は逆行してしまいます。

暗君といわれる徽宗が皇帝の時代に新法が政権を握りますが、神宗期の新法は国家財政の健全化のために用意られましたが、徽宗はそれを自らの奢侈のために用いました。

集めた国の公的資金を絵画購入や石集めなどの私的な趣味に散財し、それでも資金が足りないとなると皇帝の威光を悪用して、民間から大量の賄賂やお目こぼし料を取るようになりました。

宰相や地主・商人・役人達も新法を私腹を肥やす道具として勝手に利用し始めます。

青苗法や市易法では、官人・大商人・胥吏らが偽っ青苗銭や市易銭を借り受け、それを貧農や小商人に対して貸し付けるということが公然と行われ、方田均税法では、担当役人らの独断で、従来のものより短い尺を使って算出されるという不法な測量が行われ、余剰の土地と判定したものを強制的に没収し、役人への賄賂までが要求されました。

また募役法が免除されるはずの土地でも役税の徴収が勝手に行われ、保甲法の役も賃金が支払われずに差役化が進行し、国家整備の法である農田水利法も、農村から花石綱などの宝物を運ぶために一度しか利用しない道路を建設するなど意味のない工事が乱発されるといった有様でした。

統制の取れなくなった北宋の社会は破滅に向かって行きます。

地主官僚の支配体制の強化・固定化が進んだその後の明や清の時代において、王安石は伝統を破壊し、国を滅亡に追いやった極悪人とされます。

新法党と旧法党の争いによって国力が低下して、北宋滅亡の原因になったとされ、悪人官僚の代表と評価されることになります。

しかし、儒教の影響が強い政治では朋党の争いが付きものであることは、どの時代・どの国であっても共通することは歴史が証明しており、同じ北宋の時代でも新法以前の 慶暦の党議に見られるように時の政権に対して反対派が党派を組んで批判を行うことがしばしばあって、そのために改革がほとんど実現することはありませんでした。

その行動を擁護する目的に書かれたのが欧陽脩の朋党論ですが、現実の北宋の政治においての朋党間の政治対立は反対派を小人の朋党として非難・追放することに終始し、政治的混乱を招くことになり、特別それは新法・旧法の争いに限定されることではありませんでした。

歴史を少し調べればすぐにわかる事柄でありながら、王安石は北宋滅亡の原因として間違った解釈の下、最悪の政治家として清末期まで800年近くの間において非難され続きます。

特に明代には、王安石は新法の悪政を施行したから悪人なのではなくて、元来悪人だから悪政をしたのであるとまで罵倒されます。

王安石の新法は、近代多くの国で行われた社会経済政策の先駆けを成した観があります。

科挙官僚を中心とす大地主・大商人=(イコール)近代風に言えば財閥の利権の構造を改革する王安石の新法には猛烈な反対があり、特権階級・貴族階級の閨閥の頂点に立つ皇后は皇帝に向かって泣きながら新法の中止を求めたエピソードも残っています。

王安石はたちまち奸臣とされてしまい、皇帝神宗の支持がなければ、失脚どころか生命まで失しなった可能性が高かったと思われます。

神宗は名君であったこともありますが、国政に最終的責任を負わなくてはならない立場である以上、周りに非難されても王安石を支持するしかなかったとも言えます。そうしなければ国民からの支持を失い、非難されるだけでなく、最悪皇帝の地位を失うことになるからです。

靖康の変における徽宗皇帝のようにです。

北宋滅亡から800年、旧来の科挙官僚を中心とする地主官僚支配体制が続く限り、王安石の表立っての味方は誰一人もいませんでした。

王安石の科挙改革、倉法、三舎法も北宋時代に撤廃されました。

しかし、近代の西欧において、科挙制度を手本にしながら、王安石の改革的要素も含む、より優れた条件的評価システムであるメリットシステム(詳しくは⑶グループ主義を制御する客観的評価システムの種類と長所・欠点を参照して下さい。) やそのメリットシステムにより生まれた官僚機構コントロールする民主主義から派生した結果的客観的評価システム(詳しくは⑹民主主義と客観的評価システムの関係を参照してください。)により国力を増大させた英国などの西欧列強国の圧力の中で、旧体制の変革が必要不可欠と差し迫った段階において、やっと王安石は再評価されるようになります。

変法運動の理論家である梁啓超など数多くの学者たちは旧来の価値観をかなぐり捨てて王安石を賞賛するようになります 。

⑥朝鮮での科挙制度

地理的に中国の影響を強く受ける位置にある朝鮮においても、正に中国と同じような経過と性質を持つ科挙制度が根付いていきます。

中国の唐時代のように科挙制度の移行期となったのが、朝鮮の高麗時代です。

科挙の導入は高麗の光宗の時期に成立しました。光宗は貴族たちに対する牽制のために科挙を導入しましたが、結局、高位貴族の子息たちを科挙なしに官吏に登用する蔭叙を並行するようになりました。

科挙を通じないで官吏になれる制度である蔭叙で官吏になった者が科挙を通じて官吏になった者より多かったといわれています。

これは中国の恩蔭の制と全く同様のシステムといえます。

そして、中国において完全に科挙による登用制度に移行した王朝である宋に相当するのが、朝鮮では李氏朝鮮になります。

朝鮮における科挙制度も中国の科挙制度と同様に儒教が中心に位置されたものでした。

 

主観的要素の強い儒教の影響が強い政治では派閥間の争い(朋党の争い)が付きものであることは、どの時代・どの国であっても共通しています。

宋の時代での 慶暦の党議、新法・旧法の争いにのように、李氏朝鮮においても、朋党間の政治的対立・混乱に常に終始したものでした。

先ずは勲旧派と士林派の対立、そして士林派が勝利すると、士林派が西東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、また主導権争いを続けます。

西人が勝利すると、その西人は老論少論に分裂し、また主導権争いを続けるといった感じです。

その様な中でも、朝鮮王朝中興の祖となる名君、第22代正祖による改革が試みられます。

王朝期の混乱時である初期を除くと、名君と言われる君主のほとんどが逆境もしくは庶民の中で育っていますが、正祖も極めて逆境の中に立たされています。

幼少の頃、父親の思悼世子が祖父の英祖によって餓死させられ、父親を陥れた政治的反対勢力によって王位に就くことを邪魔され、10回以上も暗殺されそうになっています。

その様な逆境を撥ね退け、王位に就き改革を断行します。

派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策を実行し、奎章閣を改革して、優れた人材を積極的に集め、公平に破格に、登用し、高い地位を与えて研究に没頭させるなど、人材の育成に力を注ぎます。

また、暗行御史(全国の役人の不正を暴く捜査官)を積極的に地方に派遣し、各地の問題を直接把握して解決するようにも努めました。

正祖の治政は“朝鮮王朝のルネッサンス期”といわれるほど、積極的に変革を取り入れようし、儒教の“性理学”の考えとは反するものになる実学も大いに栄えました。

正祖の側近であり、実学者の代表格である丁若鏞は彼の著書で「女性を近くに置くこともせず、内侍達も近くに置かず、狩りも楽しまず、贅沢も好まず、ひたすら学問に励む臣下だけを大切に思い、また、性分があたたかく穏やかで、王だということで癇癪を起こしたり大声を出すことがなく、どの臣下も王の前で虚心坦壊に話をする。」と正祖の優れた人格について記しています。

常に命を狙われたためか武芸を高度に身に着け、神弓と呼ばれたほど弓術の天才でもありました。また、軍事的にも実権を握られている反対派と対する必要性からか、陣法書「兵学通」を作るほど、軍事的兵法などにも精通していました。

また正祖の父親の思悼世子の件があっても、学問を重視した英祖が変わらず、後継者として揺るぎない信頼・期待を託す程に正祖は文学や科学、医学にまで、あまねく精通していました。

文武両道、頭脳明晰で歴代国王たちの中で最も開明的で公明正大な君主と言われています。

その様な、個の能力・存在・問題では最高傑作と思われる正祖の改革も結局は頓挫し、中国の宋王朝における王安石の改革と同様にほとんどが無に帰します。

そして、正祖亡き後の混迷の百年と言われる時代が訪れます。

その間の人口増加は微増であったのが、科挙より優れた条件的客観的評価システムであるメリットシステムを導入した日本統治下の数十年の間に人口は倍増します。

これは決して日本の植民地政策を肯定するものでも礼讃するために記したものではありません。

ただ、どんなに優れた個の要素よりシステム的な要素の方が重要であることを示したかっただけです。

科挙も含め条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織、つまり官僚機構が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまうことです。

これを改善・改革するには極めて強力な反発があり、改革者は強い憎しみを受けます。

正祖の毒殺説が根強いのも、当時その様な切迫した状況下にあったことが想像できます。

上記下線部に関することは当然に条件的客観的評価システムである以上メリットシステムにも当て嵌まります。

正に戦前の日本やドイツがその道筋を歩みます。詳しくはこちら)また(こちらも)参照してくださいね。

⑦日本での科挙制度

日本でも、平安時代に科挙が導入されました。

庶民から進士に合格し下級官人となり、最終的に貴族にまでなった人物として勇山文継が知られています。

しかし、「蔭位の制」(中国の恩蔭の制、朝鮮の蔭叙と全く同様のシステム)と呼ばれる例外規定が設けられ、高位の貴族の子弟には世襲的に官位が与えられたため、受験者の大半は下級貴族で、合格者が中級貴族に進める程度でした。

このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らず、律令制の崩壊とともに廃れていきます。

その後、院政期から官職の世襲制化が進み、基本的に江戸時代まで続きます。

ここまでは総じて、科挙が日本の歴史に及ぼした影響は少なかったといえます。

しかし、江戸時代からは条件的客観的評価システムとしては科挙に類似した制度が所々に採用されています。

 

先ず、挙げられる制度としては勘定所における「筆算吟味」という試験制度です。

勘定所は、たんに幕府の財政を預かるだけではなく、勘定奉行は道中奉行を兼任し、幕府の司法機能を担う評定所の実務を担当しました。

勘定所は幕府の財政・農政・交通・そして司法を担う中枢的な役所でもありました。

幕府の中でも珍しく実力主義をとっていた勘定奉行になる者には、目付けなどから転任する目付コースと、勘定所の末端職員から奉行にまで上り詰める叩き上げコースがありました。

旗本らの幕臣にとって、格式の点では駿府城代、留守居、大目付が頂点でしたが、町奉行と勘定奉行は、大名が就任する寺社奉行とともに三奉行と称せられ、またさまざまな重要政策の諮問も受けたことから、勘定奉行は幕臣にとっても実質的な頂点ともいうべき役職でした。

勘定奉行就任者213名のうち、目付から長崎奉行を経て勘定奉行になった目付コースを通った者が108名と過半数を占め、これは標準的な出世コースであったことがわかりますが、勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行と叩き上げで奉行になった者は23名、全体の10%ちょっとにすぎませんが、これが勘定所の特異なところでありました。

 町奉行において、与力や同心から町奉行に上り詰めたものは一人もいませんでした。

幕末に勘定奉行を務め外交交渉などでも活躍した川路聖謨は、豊後日田の代官の手代の子であり、もとは幕臣ですらなかったのですが、無役の御家人の家に養子に入り、そこから勘定所に採用され勘定奉行まで上り詰めました。

 

次に挙げられるのが、「学問吟味」です。

幕府の学問吟味は 江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した試験制度です。

内容は中国・朝鮮の科挙制度と同様に、幕府公認の学問である儒学の朱子学がどれだけ身に付いているかみる試験でした。

学問吟味は漢学の筆答試験で、実施会場は昌平坂学問所で 、1792( 寛政4) 年から 1868( 慶応4) 年までの間に 19 回実施されました。

試験の目的は、 優秀者に褒美を与えて幕臣の間に学問奨励の気風をゆきわたらせることであった。

しかし、慣行と して惣領や非職の者に対する役職登用が行われ続けたことから、立身の糸口として勉強の動機付け の役割を果たしました。

試験に合格すると要職に登用されるため、下級武士にとっては数少ない出世のチャンスでした。
遠山の金さんでおなじみの遠山景元の父、遠山景晋は、生まれは500石のしがない旗本でしたが、学問吟味に合格するやどんどん出世し、ついには3000石の勘定奉行まで登り詰めています。
江戸の最高府である昌平坂学問所が多くの官僚を生み出す東大のような存在だとしたら、諸藩に設立された藩校は、地方の公立高校のようなものでした。
水戸藩の藩士子弟は、15歳になると藩校の弘道館に通うことが義務付けられていましたが、弘道館には試験に合格しないと入学できません。
20歳を過ぎても弘道館に入れない藩士は、受験予備校で猛勉強する羽目になり、これはかなり不名誉なことだったそうです。
弘道館に無事入学できたあとも試験尽くし。日頃の成績が優秀であれば、年に1回の大きな試験を受けることができました。
そこで良い成績を納めると、出世がしやすくなりました。
千葉県の佐倉藩でも同じような制度があり、藩校での成績が悪いと知行(給料)が減らされました。
また、佐賀県の鍋島藩でも厳しい受験制度が敷かれ、藩校に入学するのは6歳ぐらいからで、その後20年間にわたり在籍し、試験を受け続けます。
合格できなければ、家禄の8割を没収されるという1人の試験結果で家全体の運命が決まるという過酷なものでした。
しかし、こうした試験制度によって優秀な人材が確保され、幕末になると、これらの藩から新しい時代を担う人物が続々と排出されました。
寛政期から,昌平坂学問所,学問吟味が制度化され、七十年にも及ぶ学問―試験―登用という過程の中で、
御家人も登用され、多くの旗本への昇進者を輩出しました。
そのことは,昌平坂学問所で学ぶ御家人のモチベーションを高めました。
及第は出世になるということで後に続く御家人たちの目標となりました。
江戸幕府後期の人事政策は、明治時代の日本の本格的な能力主義による人材登用・昇進という人事政策であるメリットシステムの先駆けであり、既にその要素が多く制度化されていた可能性があります。
それがアジアで唯一、早期に封建制度から脱却し、産業革命・富国強兵・経済発展に成功できた大きな要因ともいえます。
学問吟味に及第と足高制、学問吟味の成績をもとにした番入り、養子制度、御家人株の売買などにより、幕末に活躍した多くの人材の能力主義による昇進が組織内において承認されていきました。

知識層と官僚層の関係は,阿部正弘政権の人材登用政策の下で学問吟味及第者が数多く登用され,特に外国・陸海軍などの新設部門で活動の場を与えられるようになりました。

学問吟味の及第者が最も重要な役割を果たしたのは、海防すなわち外交と軍事でした。
安政2年の長崎海軍伝習所の設立に始まった幕府海軍の創設は,海防に大きな影響を及
ぼしました。
その幕府海軍の中核となった総監の永井尚志,伝習所一期生の艦長候補矢田堀景蔵,永
持亨次郎、および塚本明毅(以下)は、いずれも学問吟味及第者で、二期の総監木村喜毅,伊沢謹吾,伴鉄太郎(以下)も及第者でした。
中国や朝鮮が科挙制度によって戦国時代を縮小させたのに対し、日本では科挙制度の導入がされなかった為に、江戸時代に至るまで戦乱の世の中から脱却することができませんでした。
しかしながら、江戸時代になり、科挙制度(第一段階目の条件的客観的評価システム)そしてそれよりも優れた第二段階目の条件的客観的評価システムであるメリットシステムの二つの要素が各所に取り入れられることによって、太平の世が三百年近く築かれ、そして明治維新における産業革命・富国強兵・経済発展の成功にも繋がっていきました。

⑧ベトナムでの科挙制度

ベトナムにおいては1075年に科挙が導入され、中国が廃止した後も1919年まで存続した世界で最後に科挙制度を廃止した国です。

また、1406年から1532年まで、ベトナムは中国の明朝によって支配されたことで、中国の科挙制度が以後のベトナムにおける科挙制度に大きな影響を与えました。

つまり、試験の出題内容や制度が中国のものと非常に類似したものが、ベトナムの科挙に導入されることとなりました。

本格的に科挙制度を採用・実施した国は中国・朝鮮・ベトナムですが、これらの国には共通点があります。

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次回⑶グループ主義を制御する客観的評価システムの種類と長所・欠点

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