個人の存在は、個の生存・利益を中心に動く食欲・性欲などの本能を社会に適合する為に、調整・制御することが常に求められています。
しかし、本能の中で集団欲だけは特に制御が非常に困難な性質を帯びています。
他の本能は、それぞれ単独の要素においては、個のレベルで社会の大きな基準に対応する為、余程の状態や環境でない限り、制御はされていきますが、集団欲によって、集団化し、集団のレベルで社会の基準に対応する時は、集団が大きくなれば成る程、集団欲もしくは他の本能であっても集団欲によって裏打ちされたものは、社会の基準を歪め、暴走してしまう可能性が高くなります。
集団欲が強く、公益よりも集団を優先する人をグループ主義者とし、集団欲が薄いか自身で適切に制御でき、公益を第一に行動する人を社会利益主義者とします。
社会利益主義者は、公益の目的の為に、より適格な人材を求めるために、より広い領域からセレクトして集団化を行うことがあっても、グループ主義者の様に、グループ形成自体をも一つの目的とされた手段・目的が一体化した闇雲な集団化ありきの集団化形成は行いません。
また、客観的視点が公益形成において必要不可欠の要素ゆえに、それを保つことも加わって為、少し集団と距離を保つ傾向にもあります。
それに対して、グループ主義者は、グループ形成自体を目的化している為に、比較的に見ると、圧倒的に容易にかつ強固にグループ形成し、閨閥などの様なより身近で、狭い範囲からの結集をコアとして、公益ではなく、グループ利権を主目的とした巨大なグループ主義複合体を築き上げます。
それ故に、集団化したグループ主義者により、孤高を保つ傾向にある社会の利益主義者は自然の流れで各個撃破されてしまう傾向にあります。
その圧倒的に不利な状態でも、社会利益主義者の不撓不屈の精神と八面六臂の働きによって改革が辛うじて、部分的にも達成できたとしても、客観的評価システムが十分に整備されていない状態ではグループ主義の主観的バイアスによって、その評価が歪められる場合が多く見られます。
人の性質として、『仇は骨に刻むが、恩は忘却しやすい』とも言われます。
それは、仇など攻撃を受けると人の防衛反応に集団欲が強固に結合し、過剰反応ともいえる排他的、攻撃性の高い行動をするのに対し、恩は身近に接す環境で感謝を示さないと社会生活上で不都合が生じる場合などに限定してしか強い必要性が起きないことが多く、特に身近に接していない社会利益主義者が公益の為に大きな働きをし、それが時間差を持って大きな幸福が社会全体に与えられても、社会利益主義者に感謝や恩を感じ、それに報いようという人は極めて少数か皆無に近いと思われます。
社会利益主義者は公益に相反する多くの既得権益と対決する為、権益を持つグループ主義者達に大きな仇を刻まれます。
強固な攻撃と皆無に近い支援の中で、公共善における功労者である社会利益主義者達が追い込まれ、そして、結果として大きな恩を仇で返されてしまうのを見て、社会利益主義者に近い考え方を持ち、予備群的性質がある人々は跡を辿ることに当然のことながら、二の足を踏んでしまいます。
逆に公益に反するグループ主義者が本来、社会利益主義者が受けるべき過大な報酬を受け取る状態、つまり仇を恩で返されている状態を見て、良心の壁によって辛うじて、公益に反するグループ主義的行為を踏み止まっていたグループ主義の予備群的人々は堰を切った様に、その跡を辿っていきます。
よって一度、度合の強いグループ主義者が発言力や実権を握ると、制御する特別なシステムがない限り、悪貨が良貨を駆逐するが如く、まさにドミノ倒しの様に、グループ主義化が急速に拡大進行し、癒着・腐敗が蔓延し、公益が大幅に侵されてしまいます。