よく自己啓発本で、「お金稼ぐ」ことは「人を幸せにする」ことであるというマインド設定をすべきだという記述が見られます。
しかし、現実的にはそうでないことは高収入の人=社会利益の貢献度高い人という理想的な構図が成立していないのを見ても分かります。😓
この世の中は、基本的に資本主義社会です。
現代社会においては資本主義制度は必須のものです。
原始時代や山奥に点在した集落など集団同士の接触がほとんどない状態で人口が少ない環境では、自給自足が適しているのかもしれません。
しかし、人口が増加して集団同士が密接に交わり合う環境において、貨幣経済が成立せず、自給自足の社会なった場合は、慢性的な食糧危機に喘ぎ、大飢饉・疾病などによって荒廃を極め、食料・資源の欠乏のために、絶えず略奪・紛争が頻発てしまうことは歴史が証明しています。
人口が増加すればするほど、食料・資源が当然多量に必要となります。
各自の非効率な自給自足の自家生産では追いつくわけはなく、役割分担をして、それぞれが分担した生産物を効率的に多量生産して、貨幣経済の下、交易や流通の発達によって、各自に必要な食料・資源が行き届くようにするしかありません。
また市場を無視した狭義の社会主義的な物価統制は、古代においてはローマ帝国時代のディオクレティアヌス帝時代、近代においてはソビエト連邦を例にしても、歴史的に見ると、短期的に成功しても長期的には失敗に帰することは明らかです。
つまり、人口が現代のように莫大になっている以上、貨幣経済とそれが発達してできた資本主義経済は代替えとなるものがない以上、必要不可欠なものと言えます。
また、貨幣などは客観的評価システムの主たる媒介であり、これを欠くことは客観的評価システムの機能も、より優れた代替え物ない以上、極めて低下してしまうことになります。
しかし、それは所詮媒介であり、客観的評価システム自体ではありません。
それを有効に作用させるには、客観的評価システムの質と量に懸かっていると言えます。
客観的評価システムが不十分なほど、資本主義の欠点と言える問題が出て来ます。
恐慌・環境破壊・帝国主義や新植民地主義の流れをくむ紛争や戦争などが主たるものです。
資本主義単体を肯定した スミスの小さな政府論は、利己心こそが経済活動のエネルギーであり、経済を発展させる原動力であり、皆が自由に行動しても、世の中全体として市場メカニズムが働き、調和されるので政府は最低限の夜警国家でいいというものです。
しかし、実際にはそうはならず、投機が横行したり、過剰生産からの恐慌が起きたり、市場のメカニズムを機能不全にする財閥の市場シェアの独占が生じたり、経済の利益を追求するあまりに帝国主義や新植民地主義が激化し、その延長上に国家間の紛争・戦争が勃発しました。
また利益を最優先するため、大量生産・大量消費により資源を浪費し、公害や資源の枯渇などの環境破壊も進行しました。
これらが生じるのは経済利益が必ずしもイコール社会利益、公益ではないため、当然のことと言えます。
日本における高収入分野の人々と言えば、官僚 医師 金融・投資関連等が一般には思い浮かばれます。
しかし、これらの人々は本当に効率的に的確に教育され、知識・技術を社会利益・公益に沿った方向性で切磋琢磨し、その高給に十分に見合う働き・機能をはたしているのでしょうか?🙄
また、逆の方向から見ると高収入分野というと優秀な能力と努力をいとわない人材も集合します。
果たして、日本のシステム下ではそれに十分に見合う報酬を付与できているのでしょうか?
この二点において並行して考察していきます。
先ず官僚分野から見ていきます。
シンガポールのリークアンユも日本を手本としていた時代において、日本を世界第二位の経済大国に伸し上げた本来は世界に誇れる極めて優れた官僚組織は、天下り先を構築すれば出世するという負の結果客観的評価システムによって残念ながら変容してしまっています。
一方、シンガポールは戦後、隣国マレーシアのルック・イースト政策に先駆けて、日本をモデルに、日本が官僚主導の開発主義体制から日本株式会社と呼ばれたように、国というより、一つの株式会社と呼ばれるような産業の隅々まで、国・官僚のコントロールが行き届いた形態を創り上げました。
日本が、戦後の民主改革の恩恵により、一時期的にせよ多くのグループ主義が解除されることによって高度経済成長し、世界第二の経済大国になったものの、グループ主義の再構築によって、世界最大の政府債務残高(対GDP比)を保有するようになってしまったのに対し、同形態に思えるシンガポールは、健全に成長を続け、国際競争力・国際格付、腐敗指数など全て世界の最良・最上位のレベルを保持し続けています。
両方、官僚主導とする一つの株式会社と称される形態であるのに、一方は腐敗・癒着による無駄遣いによる借金大国になり、一方は官僚機構に関する調査でアジアで最も官僚の弊害が少ない評価を受ける違いはどこから来るのか?
それは、官僚の報酬体系から読み解くことができます。
日本においては天下りという非公式で、癒着性の高い、加えて上司や政官財のグループ主義などの主観的裁量の影響を受けるものを主体としているのに対して、シンガポールでは官僚の報酬はGDP成長率という客観的指標と連動し、国が成長すると報酬が増え、停滞すると報酬が下がります。
二十世紀末に一人辺り国民所得がかっての宗主国イギリスを抜いた時、政府は閣僚と高級官僚の給与を大幅に引き上げて、その労に報いました。
この結果的客観的評価システムによって、シンガポールの官僚は企業の業績を上げ、国を成長させることに全力を傾けます。
一方では天下りのなどのシステムによって、日本の官僚は公益に相反するグループ主義に邁進することになるのです。
このシンガポール特有の客観的評価システムとして挙げられる公務員給与が GDP と連動しているシステム(結果的客観的評価システムの一つ)について見ていきます。
世界恐慌になった21世紀初頭のリーマンショック時には、 GDP が急落したために公務員給与が大幅に減額され、大統領・首相・閣僚レベル・官僚のトップ・国会議員なども2割近く削減されました。
逆に前年比で15%ほど GDP が増加した年には、上級公務員には8ヶ月分の GDP ボーナスが支給されました。
民間企業の業績とGDP が伸びた時は高い給料が支給され、下がれば支給される給料が減額されます。
そのため、シンガポールの官僚は民間企業の業績を上げ 、GDP を伸ばすために必死になります。
他国と比較すると官僚は非常に高い給料が与えられ、30代前半で2000万以上の給料を手にし、40代半ばでは1億円を超える者もあり、このことがシステムを十分に機能させることに大きく寄与して行きます。
決して、誤解してほしくないのは上記(官僚 医師 金融・投資関連等)の人々の報酬が高すぎるということではありません。むしろもっとあげるべきとも思われます。しかし、その方法・基準が大きな問題なのです。社会利益・公益に沿った形でなくてはならず、現在のグループ主義的要素によって、場合によっては社会利益と相反する形のシステム(天下りなど)で進められるべきではありません。
医師においても日本では医者不足が問題になっており、世界的に見ても医師報酬は決して高くありません。
ただ、今のシステムの延長で数を増やしたり報酬を上げていくのも財政だけの問題だけではなく、適切な手法とはいえません。
病院の多い県(人口あたりの病床数が多い県)の県民は、健康度や平均寿命は大差ないのにもかかわらず、入院医療費を多く使い、また全国で寝たきりの人が少ないのは一人あたりの病院数が少ない県が多いなどのデータもあります。
WHOの「自殺予防マニュアル」によると、自殺既遂者の9割が精神疾患を持ち、6割がその際に抑うつ状態であったと推定され、日本では、高度救命救急センター搬送の自殺未遂者の8割以上に精神疾患が認められたと言います。
このような状況にありながらも、適切な治療を受けていた人は約2割。仮にこれらの悩みを抱えた人を早く見つけて適切な治療を施せば、自殺率は3割以上減少できるといわれていました。
しかし、精神科医の数は1998年から2008年にかけて、1425人から5629人に増えましたが
、自殺者数は1998年から2008年にかけて、3万2863人から3万2249人とほぼ同水準にとどまっています。
虚業的分野である金融業は、莫大な収入・報酬を受けていますが、特に投資関連(特に外資系)は圧倒的トップクラスの高収入を得ています。
しかし、年数が経過すればするほど、アクティブファンドはインデックスファンドに負けてしまうという現実(アクティブファンドは株価指数などより高い運用成績をプロが目指す能動的ファンドで、インデックスファンドは株価指数などと同等の値動きを目指す受動的ファンドです)があるのです。
また、保険会社で月収数千万に及ぶ高収入を得ている人の報酬が顧客の掛け金のかなりの割合から出ている現実があります。
それは言い換えると、その分同じ保証でも掛け金が高くなるか、同じ掛け金なら保証のレベルが下がることを自動的に意味して来ます。
人件費が余り掛からない共済の方が基本的・一般的には保険会社の商品に比べて割安・低コストでパフォーマンスの高い商品が提供されているのを見ても分かります。
保険会社の中でもネット専業の保険サービスも登場しており、人件費や家賃が浮くことから割安の保険料を提示する事業者が多くなっていますが、それも人件費を削減することから由来しています。
客観的・論理的にこれらを考察すると、低品質の金融・保険商品を営業力によって販売することによって、高収入を得ることが王道化してしまっている感があります。
つまり残念ながら、ここにおける営業力とは、半分詐欺的なもしくは接待やリベート、コネなどのグループ主義的な非建設的で社会利益や公益性からは距離があるというか、相反するといっていいたぐいのものを意味することになってしまっているのです。
実業的な製造業やクリエイティブなサービスにおけるものならともかく、虚業における営業力というものは、どうしてもその傾向になってしまうの致し方のないことかもしれません。
営業力自体が客観的評価システムの機能が充実し、その商品の質・費用対効果が皆全員が手軽に迅速に把握できるようなっていれば、それは余り必要性のないものといえます。
勿論、建設的な営業力や虚業分野もあります。
金融は経済を体で例えると血液であり、営業は商品の伝達・橋渡しをするいわば酵素的な働きをし、それぞれ重要な機能・役割を担っています。
しかし、現在においてはそれらが強調・重視されすぎている傾向にあります。
例えて言うと、必須アミノ酸におけるアミノ酸の桶の理論に近いものがあります。
九種類のうち、一番含有量の少ないアミノ酸を一番背の低い桶板に例えると、いくら満杯にしようとしても、そこから水が流れてしまう。
つまり、吸収されずに排出するために、エネルギーや栄養素を無駄に浪費し、逆効果になるというものです。
必要量に対して充足率の最も低いアミノ酸を制限アミノ酸と言います。
公的社会の利益、公益において最も制限アミノ酸になりやすいのが、客観的評価システムと言えます。
経済においては、金融や営業も必須アミノ酸の一つといえます。
しかしながら、制限アミノ酸である客観的評価システムが十分に整備されていない現象では、これらの要素をただ大量に取り込んでも、ほぼ排泄されて、無駄にエネルギーが消費され-(マイナス)になるだけといえます。
そればかりか、客観的評価システムが十分に整備されていないということは公益とリンクする機能が不十分ということになる為、反公益性、グループ主義的なものの追及が先走ってしまうリスクが極めて高くなります。
グループ主義的利益を追及したヘッジファンドが自分達の利益を上げるために、虚業的マネーゲームによって国や社会の経済破綻さえも誘導する様になると、例え血液や酵素の機能を持っていたとしても、公益とリンクさせる機能つまり体を健康・健全に保つプログラムシステムを担う客観的評価システムが欠けていれば、それらを正しい機能させることができない状態で暴走させることになるので、ほぼ癌細胞化しているといってもいい状況といえます。
上記(官僚 医師 金融・投資関連等)の人々は、高収入分野であるがために、優秀な能力と努力をいとわない人材が集合しますが、それが社会利益・公益に適切に沿った形で活用されているかというと残念ながら、とても言えません。
その為には、グループ主義を制御するとともに同時に社会利益・公益とリンクさせる客観的評価システムの十分な整備が不可欠となって来ます。しかし、残念ながら、今の日本では客観的評価システムの十分な整備がされてない現状です。
年齢を経るにつれて分け隔てなく人を思いやり優しくしたり、社会利益に尽くす人ほど報われず、場合によっては迫害を受け、あまり他者の気持ちを思いやらない自己中心的・グループ主義的利益に邁進する人ほどストレスを感じず、裕福に幸せを謳歌している現状をいやという程、目のあたりにするようになります。
高収入の人=社会利益の貢献度高い人という理想的な構図が成立していないというのが主たる原因であると思います。
金銭的利益を第一に追及する資本主義万能主義により、マクロ的に見ると投機の横行・過剰生産などからの恐慌が起きたり、市場のメカニズムを機能不全にする財閥の市場シェアの独占が生じたり、経済の利益を追求するあまりに帝国主義や新植民地主義が激化し、その延長上に国家間の紛争・戦争が勃発しました。
また利益を最優先するため、大量生産・大量消費により資源を浪費し、公害や資源の枯渇などの環境破壊も進行しました。
これらが生じるのは経済利益が必ずしもイコール社会利益、公益ではないため、当然のことと言えます。
資本主義万能主義的な格差(詳しくはこちらをクリック)は、大企業や財閥などが力を持ち過ぎることによって、政府が弱体化し、大企業などの富を第一とする影響下に置かれ、客観的評価システム機能が低下し、グループ主義が蔓延り、帝国主義・新植民地主義的戦争や紛争、環境破壊などを生み出します。
次に金銭的利益を第一に追及する資本主義万能主義により、起こる現象をミクロ的に見て行きます。
今、話題になっている貴闘力チャンネルで暴露されている相撲業界を題材にしていきます。
相撲業界では、弟子に対して金銭的にケチであったり、八百長で金銭的にためこむ人の方が結果的に年寄株を取得でき、協会に残れたり、幅を利かすことができ、逆にルールを守り、ガチンコ相撲に邁進する人が追い出されることが多々あるということです。
しかし、このことは相撲業界だけでなく、どの業界にもあることの様に思います。
40キロ制限は一応規則づけられていますが、誰もが守れる環境になく、皆平均60キロで走行している状況で、かといって100キロ以上で走行している者が摘発されるのではなく、寧ろその様なものこそ業界の中心に位置され、比較的良心的に50キロ付近で走行している者が摘発されるという現象はある意味、この日本社会では典型的と言っていいものかもしれません。
だからこそ、『知ってはいけない金持ち悪の法則』(詳しくはこちらをクリック)の主題である、『金持ちの99%は何らかの「悪事」を働いていおり、それは少しばかりの「性格が悪い」というようなライトな悪ではなく、その実情を知れば、誰しもが激しい嫌悪感を抱くような、かなり「本格的な悪」である』という表現がされるのかもしれません。
また、アメリカのコーネル大学、ノートルダム大学、カナダのウェスタン・オンタリオ大学の研究・調査では信頼性・利他主義・優しさ等のいわゆるお人よしのいい人ほど収入が低いという結果も出ています。
この様な現象をなくすためには、客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)を質・量ともに整備させることにより、資本主義万能主義的要素を社会利益主義的要素に転化させ、高収入の人=社会利益の貢献度高い人という理想的な構図(社会利益主義的格差の特化)を成立させるということが必要です。
客観的評価システムの十分な整備により、高収入の人=社会利益の貢献度高い人つまり経済利益イコール公益の構図が構築させることが最も重要なことと言えます。
ただ、今の現状(客観的評価システムの整備が不十分な状態)で社会利益主義的(資本主義万能主義でなく)に生きていき、幸せになることは可能なのか?
社会の利益・改善を志す者は、自分達の時間・努力、場合によっては財力やリスクを掛けて、それを成さしめようとします。
それに対して、グループ主義を指向する人々は、自分達の利益と直結しやすい癒着・利権の構築に同じ様に、時間・労力等を費やします。
個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。
前者の行動は後者に比べて、自分達の利益に直結していないからです。
特に、公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、更にその度合が激しくなります。
彼らはかなり高い可能性で、既得権益のグループ主義との圧倒的不利な状態での対立を背負うことになるからです。
集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。
公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れで迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。
且つ、それに加えて公益を生み出す為の努力に費やす労力・時間・財は利権的グループ主義に費やされる場合と比べると圧倒的に回収率が低く、グループ主義的に生きることが+200%位の回収率になったとしても、公益主義に生きることは-200%位の迫害的回収率になってしまう傾向にあります。
この集団欲が引き起こす習慣的惰性の流れを変えるシステムがなければ、グループ主義が座標上における傾きを-(マイナス)に変えてしまい、いくら社会の利益主義者が大きな+(プラス)を生み出しても、少しずつその効果を減衰させてしまいます。
歴史はその繰り返しともいえます。
その悪循環を止めなければ、歴史が進行すればする程、科学力は当然に大きくなって、社会の歪みなどが改善されない状態では、そこから生み出される被害から文明が破綻してしまうリスクは時が経るにつれて当然に高くなってしまいます。
通常の平均的人物の公益に対する寄与度の平均値を1と仮定すると、社会の利益主義者の寄与度を100とします。
しかし、莫大な+(プラス)を生み出す為の反対勢力を貶めたことの-(マイナス)が10あるとします。
+(プラス)部分は公益に関して公と個をリンクさせる客観的評価システムがなければ、先ず評価・報酬を受けることはありません。
つまり、百の評価が0、あったとしても自らが属しているグループ内における評価がある位で、1か2程度といえます。(直接グループにに寄与しているわけでもないので、その評価・報酬は極めて低くならざる得ないといえるからです)
ただ、-(マイナス)の部分は集団欲の過剰になる傾向にある防御機能としての攻撃反応によって、-10が-20や-30になって帰ってきます。
本来ながら+90の評価・報酬を受けるべき社会の利益主義者が、実質的には-20や-30の評価・報酬とまさに迫害的リターンを受けることが典型的・原則的なパターンとなってしまいます。
その様な悪条件の中、社会の利益主義的に生きることは、精神的にも身体的にも厳しい環境に置かれます。
客観的評価システムの整備が不十分な状態で本質的に社会利益主義的な方向性を貫くのは極めて困難であることが分かります。(深く熟考せずに、「お金稼ぐ」ことは「人を幸せにする」ことであるという明らかに矛盾のある定義をマインド設定できるような表面的な社会利益主義ではなく)