残念ながら、この世界においては多くの理不尽な経験や行為が蔓延しています。

この社会においては、客観的評価システムがしっかり整っているとはいえない状態です。

である以上、主観・裁量的要素がほとばしることによって、不公平な事柄が多発したり、もしくは事柄が実際に不公平かどうかは関係なくとも皆がめいめいにそれぞれが不公平・不信感を抱くことが多くなることは致し方のないことといえます。

つまり、人が理不尽を感じる時とは、①実際にその様な行為が行われている時と②その様な行為が行われていると誤解されている時の二つのケースがあるということです。

先ず①について考えていきます。

なぜ理不尽な行為が実際に蔓延してしまうのか?

先ず、集団欲が強く、公益よりも集団を優先する人をグループ主義者とし、集団欲が薄いか自身で適切に制御でき、公益を第一に行動する人を社会利益主義者と規定します。

社会利益主義者は、公益の目的の為に、より適格な人材を求めるために、より広い領域からセレクトして集団化を行うことがあっても、グループ主義者の様に、グループ形成自体をも一つの目的とされた手段・目的が一体化した闇雲な集団化ありきの集団化形成は行いません。

また、客観的視点が公益形成において必要不可欠の要素ゆえに、それを保つことも加わって為、少し集団と距離を保つ傾向にもあります。

それに対して、グループ主義者は、グループ形成自体を目的化している為に、比較的に見ると、圧倒的に容易にかつ強固にグループ形成し、閨閥などの様なより身近で、狭い範囲からの結集をコアとして、公益ではなく、グループ利権を主目的とした巨大なグループ主義複合体を築き上げます。

それ故に、集団化したグループ主義者により、孤高を保つ傾向にある社会の利益主義者は自然の流れで各個撃破されてしまう傾向にあります。

その圧倒的に不利な状態でも、社会利益主義者の不撓不屈の精神と八面六臂の働きによって改革が辛うじて、部分的にも達成できたとしても、客観的評価システムが十分に整備されていない状態ではグループ主義の主観的バイアスによって、その評価が歪められる場合が多く見られます。

人の性質として、『仇は骨に刻むが、恩は忘却しやすい』とも言われます。

それは、仇など攻撃を受けると人の防衛反応に集団欲が強固に結合し、過剰反応ともいえる排他的、攻撃性の高い行動をするのに対し、恩は身近に接す環境で感謝を示さないと社会生活上で不都合が生じる場合などに限定してしか強い必要性が起きないことが多く、特に身近に接していない社会利益主義者が公益の為に大きな働きをし、それが時間差を持って大きな幸福が社会全体に与えられても、社会利益主義者に感謝や恩を感じ、それに報いようという人は極めて少数か皆無に近いと思われます。

社会利益主義者は公益に相反する多くの既得権益と対決する為、権益を持つグループ主義者達に大きな仇を刻まれます。

強固な攻撃と皆無に近い支援の中で、公共善における功労者である社会利益主義者達が追い込まれ、そして、結果として大きな恩を仇で返されてしまうのを見て、社会利益主義者に近い考え方を持ち、予備群的性質がある人々は跡を辿ることに当然のことながら、二の足を踏んでしまいます。

逆に公益に反するグループ主義者が本来、社会利益主義者が受けるべき過大な報酬を受け取る状態、つまり仇を恩で返されている状態を見て、良心の壁によって辛うじて、公益に反するグループ主義的行為を踏み止まっていたグループ主義の予備群的人々は堰を切った様に、その跡を辿っていきます。

よって一度、度合の強いグループ主義者が発言力や実権を握ると、制御する特別なシステムがない限り、悪貨が良貨を駆逐するが如く、まさにドミノ倒しの様に、グループ主義化が急速に拡大進行し、癒着・腐敗が蔓延し、公益が大幅に侵されてしまいます。

このような結果から、理不尽な行為が実際的に蔓延してしまうのです。

 

次に②について考えていきます。

なぜ、理不尽な行為が行われていると誤解されてしまうのか?

実際的に良心的サービス・治療などを受けたとしてもそれを正当・公平に実証する客観的評価システムがない以上実感できないのが現実です。

その様なシステムがない中では、その分野の専門家でない限り(また専門家であっても客観的データー・結果が無ければ)、正当・公平に判断するのは非常に困難です。

受ける対象者は当然のことながら、その分野の専門家でない場合がほとんどだからです。

実際的に、利益を度外視して懇切丁寧にサービス・治療などを行っても、時間が掛かった、治療がしんどかった等の-(マイナス)面ばかり記憶に刻んでしまうのは上記に記述している『仇は骨に刻むが、恩は忘却しやすい』という人の性質としての特性なのかもしれません。

しかし、そうなった場合の利益を度外視して懇切丁寧にサービス・治療などを提供したサイドの疲労感・ストレスは極めて高いものとなります。

経済的にも、精神的にも、身体的にもダメージが大きく、それが日々長期的に積み重なると想像を絶する苦痛を背負いと逆境に追い落とされることになります。

社会の向上を縦軸、時間の流れを横軸とした座標上で考えていくと、大事なことは一時期的に大きく+(プラス)になることよりも傾きが+(プラス)になることがより重要であるといえます。

少なくとも、公益に努めた人々がそうでない人々よりも圧倒的に、自他ともに分かるレベルで報われるか、優遇されなければ後の一般の人々のが続かなくなります。

社会の利益・改善を志す者は、自分達の時間・努力、場合によっては財力やリスクを掛けて、それを成さしめようとします。

それに対して、グループ主義を指向する人々は、自分達の利益と直結しやすい癒着・利権の構築に同じ様に、時間・労力等を費やします。

個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。

前者の行動は後者に比べて、自分達の利益に直結していないからです。

特に、公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、更にその度合が激しくなります。

彼らはかなり高い可能性で、既得権益のグループ主義との圧倒的不利な状態での対立を背負うことになるからです。

集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。

公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れで迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。

且つ、それに加えて公益を生み出す為の努力に費やす労力・時間・財は利権的グループ主義に費やされる場合と比べると圧倒的に回収率が低く、グループ主義的に生きることが+200%位の回収率になったとしても、公益主義に生きることは-200%位の迫害的回収率になってしまう傾向にあります。

この集団欲が引き起こす習慣的惰性の流れを変えるシステムがなければ、グループ主義が座標上における傾きを-(マイナス)に変えてしまい、いくら社会の利益主義者が大きな+(プラス)を生み出しても、少しずつその効果を減衰させてしまいます。

歴史はその繰り返しともいえます。

その悪循環を止めなければ、歴史が進行すればする程、科学力は当然に大きくなって、社会の歪みなどが改善されない状態では、そこから生み出される被害から文明が破綻してしまうリスクは時が経るにつれて当然に高くなってしまいます。

通常の平均的人物の公益に対する寄与度の平均値を1と仮定すると、社会の利益主義者の寄与度を100とします。

しかし、莫大な+(プラス)を生み出す為の反対勢力を貶めたことの-(マイナス)が10あるとします。

+(プラス)部分は公益に関して公と個をリンクさせる客観的評価システムがなければ、先ず評価・報酬を受けることはありません。

つまり、百の評価が0、あったとしても自らが属しているグループ内における評価がある位で、1か2程度といえます。(直接グループにに寄与しているわけでもないので、その評価・報酬は極めて低くならざる得ないといえるからです)

ただ、-(マイナス)の部分は集団欲の過剰になる傾向にある防御機能としての攻撃反応によって、-10が-20や-30になって帰ってきます。

本来ながら+90の評価・報酬を受けるべき社会の利益主義者が、実質的には-20や-30の評価・報酬とまさに迫害的リターンを受けることが典型的・原則的なパターンとなってしまいます。

しかし、社会の利益主義者を迫害すれば、歴史上必ずといっていい程に時間差で社会全体に極大な不幸が押し寄せています。

よって、社会の利益主義者を社会全体の人々の為に、グループ主義者の迫害や詐欺的主観的評価から絶滅危惧種の様に保護し、優遇しなければなりせん。

その為には客観的評価システムの質と量の整備が必要不可欠となります。

それらが整備されればされる程、グループ主義の主観的評価は排除され、正当な報酬・権限を与えられた社会の利益主義者はグループ主義者との対立を有利に進めることができ、二の足を踏んでいた社会の利益主義者の予備群は後に続き、グループ主義者の予備群は逆に距離を置くようになり、座標における傾きは大きく+(プラス)となって来るのです。

しかし、現状では、マクロ的・社会全体的に客観的評価システムの質と量の整備がにされることは極めて困難です。

であれば、どうすべきか?

短期的には、対処法的にミクロ的環境(自分自身の周囲環境)において、理不尽なことがあるからと言って、対立を激化させてしまい、--(マイナスマイナス)のall loser(全員が失う)結果に陥いらないように、粘り強い忍耐力・交渉力によって、それぞれめいめいの分離した主観的状況から離脱し、それぞれめいめいの交差・統合した客観的結末に導く努力をするしかないといえます。

それと並行して、長期的には、根本的にマクロ的環境(社会全体の環境)において、理不尽な行為・評価がなされない様に客観的評価システムの質と量の整備を地道に皆で協力して進めていくしかありません。

 

 

 

 

 

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