元祖世界の覇権国とはどこでしょうか?
古代ローマ帝国でしょうか?モンゴル帝国でしょうか?確かにそれぞれ強大な範囲を支配しましたが、世界全範囲的に影響力を及ぼしたとはいえません。
では、現代の世界の覇権国アメリカの前の近代の覇権国であるイギリスでしょうか?
いえ、その前の中世の世界の覇権国といえる存在があります。
それがオランダです。
プロテスタント、その中でもカルヴァン派が多数派を占めるようになった小国オランダは、独立戦争でカトリック国である大国スペインに勝利し、17世紀において世界的な経済超大国・世界最大の貿易国家となります。
オランダの絶頂期である17世紀半ばにおいて、オランダの海上覇権・商業覇権は揺るぎないものになります。全世界の貿易船の総数が2万あったのに対して、オランダ船は1万5000以上あり、フランスがオランダの20倍の人口がある中で、オランダ海軍はフランス海軍とイギリス海軍の合計に匹敵する規模でした。
オランダを弱小国から最大の覇権国にまで成長させたのは、全欧州からプロテスタントの商人・熟練工・産業家たちが大量に流入して、砂糖精製から武器製造や化学工業に至るまでのありとあらゆる産業において、ヨーロッパ随一の地位まで登り詰めたからで、新教徒、プロテスタントの多くは洗練された特技を持った熟練職人であったり、有力な資本家でありました。
オランダの人口の2割から3割はカトリックでしたが、世界初の株式会社と言われる東インド会社の出資者は一人残らずプロテスタントでした。
オランダでは道徳的にも政治的にも当時の諸外国と比べると自由主義が住んでいました。
オランダを訪れた外国人は召使いが主人に対して、妻が夫に対して、また庶民が貴族に対して示す尊敬の度合いが余りにも低いことに衝撃を受けています。
オランダのメイドは服装といい、振る舞いといい、女主人に似通い過ぎており、見分けがつかないというものです。
オランダの人々は、老若男女、身分を問わず、皆独立自尊であり、好きな仕事をし、商売をし、誰が金持ちになるにも制限がないとオランダよりもずっと硬直的な社会秩序に慣れた同時代の他のヨーロッパ人からはそう見られていました。
これは、プロテスタントの神の下に平等の考え方とカルヴァン派の教義によって急速に発達した資本主義の影響が大きく関与しています。
報酬制度として、封建制のような固定的な土地や特権階級を主とする場合は、貴族性などの血縁を中心とする身分制やグループ主義の影響を受けやすいですが、流動的である貨幣などを主とする場合では、身分的にも当然に流動化しやすく、貴族階級のような存在が成立しにくくなります。
それらの200年後のアメリカンドリームのような努力をすれば報われるという現象が起き、寛容と高賃金などの吸引力などによって熟練工や才能豊かな人材が全ヨーロッパからオランダに集まり、大学にも様々な外国人が集まり、人口の過半数が移民か移民の子孫となっていました。
まさにそれは、その後の現代の覇権国となるアメリカと酷似した現象となりますが、アメリカもカルヴァン派のピューリタンなどのプロテスタントの移民が中心に建国されていくことを考えると当然のことと言えます。
19世紀後半から20世紀初期にかけて、アメリカはイギリスを急速に追い上げ、世界の覇権国としての地位を築いていきますが、その背景・要因は正に200年前における覇権国となったオランダと類似している所が多くあります。
カルヴァン派のプロテスタントが中心核となり、救いにおける主観的な裁量を遠ざけ、救いの証としての客観的な収益・利潤の追求が原動力になった資本主義の発展、そして神の下の平等の考え方に基づいた環境の中、新来の移民でも最上層まで上り詰めることのできるアメリカンドリームと言われる流動性のある社会、 オランダにおいては宗主国スペイン、アメリカにおいては宗主国イギリスの圧倒的な軍事力に対抗するために宗派的に多様に一致団結する必要性から来る宗教的寛容性と特定の国教会が存在しないことなど共通項が多くあります。
両国ともにグループ主義の対極にある寛容の精神と高報酬の吸引力によって、多くの優れた人材が各地から移民として集まり、彼らの働きによってあらゆる産業が爆発的に発展していきます。
また、寛容の精神からオランダの大学は17世紀最も国際色が豊かで 、特にイギリス人やスコットランド人などの多くの外国人が集まったように、アメリカの大学にも性別・国籍・年齢を問わず、多くの留学生や学者が世界各地から集まり、ハーバード大学など名門校の教授の多くは移民などの外国人が占めるようになりました。
また、近代の世界の覇権国イギリスを生み出したのは、この元祖世界の覇権国といわれるオランダです。
17世紀末期に、オランダ海軍の大艦隊がイギリスに侵攻し、オランダ兵がロンドンを占領し、オランダ執政オラニエ公ウィレム3世がイギリス王として即位、妻のメアリーと共同でイギリスを統治することになりました。
オランダの優位が絶頂に達し、オランダの商業面・軍事面での拡大は誰にも止められないかに見られましたが、ウィレムがイギリス王になったことをきっかけに世界覇権国の座はオランダからイギリスに移っていきます。
その当時のイギリスがどのような状態であったかは、少し遡って、16世紀頃から見ていきます。
イギリスにおける教会領は王国の1/3を占めており、さらに加えて信徒から教会は貪欲に富を巻き上げて、その富はローマ教皇庁にそっくり送られていました。
しかし、イギリス国王であるヘンリー八世が離婚問題を機にカトリック教会と決別し、独自のイギリス国教会を成立させると、膨大な修道院領が没収され、富裕な市民階層に売却されていきます。
これらの富裕な市民階層が準貴族のジェントリーとしてこの払い下げにより台頭してきます。
封建主義的、固定的な既存の王侯・貴族・聖職者などの支配身分階層に比較して、ジェントリーは富を蓄積した市民や独立自営農民のヨーマンが土地を購入してジェントリーになったり、逆にジェントリーが没落するなどジェントリーの構成 メンバーは絶え間無く、入れ替わりました。
つまり、ジェントリーは極めて流動的な階層であって、この流動性がイギリスの階級対立を緩和する役割を果たし、さらに社会的・経済的に上昇を求める人々に活力を与えていきます。
エリザベス一世によって、イギリス国教会の教会制度は整えられていき、プロテスタントでありながら階層的に教会を監督・統制する主教制というカトリックの司教制度に近いものが採用される一方で、信仰義認説・聖書主義・予定説など教義はカルヴァン主義に近く、儀式はカトリック的なものを残すなど、プロテスタントとカトリックの中間的存在として存立していきます。
エリザベス一世の時代はイギリス・ルネッサンスの最盛期となり、対外的にもカトリック国のスペインの無敵艦隊を破って海外進出の端緒を開きました。
16世紀の宗教改革後、エリザベス1世の時代を経て、17世紀半ばまではジェントリーの台頭期と言われていますが、その土地保有が全体の25%から50%に増大しました。
君主から報酬として特定地域の支配権を付与される代わりに防衛や戦力提供の義務を負う軍務制度として設置される封建的貴族制度と違い、貨幣制度の中で商業などによる利益によって、土地保有が進められていき、伝統的封建貴族より商才に富んだ新興ジェントリーが台頭して行きます。
ジェントリーたちの新しい試みの中で最も成功したのは海外進出でしたが、初期にはカルヴァン派を国教とするオランダに圧倒され、イギリスは苦戦を強いられます。
オランダでも土地の貴族制は比較的重要ではなく、社会的なステータスは主に収入によって決められており、オランダ社会を支配していたのは都市の商人階級であり、階層間の分離は決定的なものではなく、カルヴァン派の思想が社会的差異の重要性を減少させ、社会的な流動性はイギリスよりも大きくありました。
当時のイギリスは大陸ヨーロッパのほとんどの国と何ら変わることなく、国内ではグループ主義の下、ひっきりなしに宗教戦争や人種間戦争が起こっており、イギリス国教会は反対派に弾圧を加え、そしてイギリス(イングランド)人はアイルランド人やスコットランド人、ウェールズ人を屠っていました。
それに比べてオランダでは宗教的寛容政策が進み、グループ主義的対立はイギリスに比べて少なかったことなどから、オランダのイギリスにおける優位性がありました 。
しかし、そのような状況の中でピューリタン革命は独裁に転じてしまい、その後王政復古によりカトリックの王建が復活すると、国教会派の議会の要請でオランダからイギリス国王の娘であるメアリーとその夫のオランダ総督のウィレムがオランダ軍を率いてイギリスに上陸し、無血クーデターで国王の交代が実現しました。
この革命、名誉革命以後イギリスはウィレムの下でオランダのシステムを取り入れていきます。
宗教のグループ主義を中心とするな内戦の永い時代を終わらせ、オランダと同じように宗教的・人種的寛容を取り入れていきます。
その中で、マイノリティ集団であったユグノーやスコットランド人などによって、イギリスは台頭して来ます。
ユグノーはフランスのプロテスタントのカルヴァン派の人々で、イギリスに亡命してきた人々です。
プロテスタントの多くは熟練工や有力な資本家が多いのは先述しましたが、オランダと同様にイギリスでも彼らは大きな利益を生み出します。
ユグノーの時計職人達によって、ロンドンは世界の時計製造業の中心へと成長し、その他製紙・金属細工など様々な技術がユグノーによってイギリスに持ち込まれます。
金融面においても、フランスとの戦争や内戦などによってできたイギリスの巨額債務の2割をも引き受けるなど大きな貢献をします。
国家権力上部からなされてカトリック的要素を残したイギリス(イングランド)の宗教改革と異なり、スコットランドの宗教改革は、下部から行われ、カルヴァン派のプロテスタントが国教とされました。
現在でもイングランドの各地には中世紀にカトリック教会として栄えたゴシック建築の会堂が今もなお聳え、イギリス国教会として利用されているのに比べ、スコットランドでは、カトリック教会の会堂はほとんど残っておらず、大聖堂も大寺院もことごとく破壊されているのは対照的でもあります。
スコットランド人は後の産業革命の原動力にもなり、産業革命において最も重要な発明と言える蒸気機関の開発者はスコットランド人のジェームズワットであり、さまざまな分野に人材を供給し、イギリス帝国はスコットランド帝国と呼んだ方が正確だという言葉さえ出ました。
また、イギリス国教会の中でも、カルヴァン派のピューリタンなど非国教徒との協力関係を保ち、名誉革命時にオランダの影響で定められた寛容法の精神に忠実に名誉革命体制の主体となったのがローチャーチと言われるプロテスタントの要素の強い人々でした。
先に繁栄したオランダにおいても、ユトレヒトやゴーダといったカトリックの影響が著しい都市では、黄金時代の繁栄を享受することは余りありませんでした。
オランダによって、イギリスはプロテスタントの要素が強くなるとともに、寛容の精神からグループ主義による対立・争いを減少させることにより、オランダに次ぐ覇権国として台頭していきます。
しかし、イギリスを揺るぎない世界の覇権国と足らしめたのは、民主主義から派生した政権党の政治に対して多数の国民による選挙における支持率という評価と政権を任せるという報酬による結果的客観的評価システムでした。
ウィリアム3世として即位したウィレムは子がなかったために、落馬事故で亡くなった後、メアリの妹のアンが王位を継承し、アン女王として即位しました。
アン女王も嫡子がないまま死去すると、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯が迎えられて、ジョージ1世として即位します。
しかし、この時、既に54歳で英語を解せず、イギリスの制度・慣習などについても知識がなかったために、イギリスよりもドイツに滞在することのほうが多く、政務を大臣たちに委ね、国王は君臨すれども統治せずという原則が確立しました。
1721年から20年間政権を担当したをウォルポール内閣から、内閣が議会に対し責任を持って国政を担当するという責任内閣制が成立し、議会政治は政党が選挙によって多数党の位置を競い、多数党が内閣を組織するという政党政治の枠組みが出来上がりました。
これによって、対立の暴力による決済に替わる体制内二党制が開始されました。
社会において改革しなければいけない事象が生まれた時、それを行うには必ず対立が伴います。
今までの長きに渡る歴史において、対立の暴力による決済がなされてきましたが、それは劇薬であり、副作用が強く、場合によっては、飲む前よりも対立が激化し、社会が荒廃してしまう危険性がありました。
かといって、それを恐れて改善が行われなければ、清流は常に流れなければ腐ってしまうように、社会も沈滞・衰退してしまいます。
それが、内戦・クデーターのような暴力を使わずに、平和裏に体制を大きく変革できるということは極めて画期的なことでした。
先の覇権国オランダにしても、人種的・宗教的なグループ主義的な対立は少なく、それが繁栄の礎にもなりましたが、対立は無になることは社会上決して有り得ません。
実際には大商人・都市貴族、宗教的には穏健的カルヴァン派が支持する連邦議会派と中小市民・農民層、宗教的には急進的カルヴァン派が支持する代々総督職を世襲して実質的なオランダ王家であったオラニエ家の対立がありました。
後には、それら都市貴族、オラニエ家などの従来の支配者層に代わってより徹底した共和制を求める愛国派も加わって、内戦状態になることも珍しくありませんでした。
そして、そのことがオランダ凋落の大きな原因にもなって来ます。
対して一方のイギリスにおいては、都市の商工業者、中産階級を基盤として議会の権利や民権の尊重を主張し、宗教的寛容・積極財政を採ったホイッグ党と王権・国教会を擁護して貴族・地主・聖職者の支持を受けたトーリー党が平和裏に交代して政権を運営していきます。
プロテスタントの要素、寛容の精神、そして初歩的ではあったものの民主主義から派生した結果的客観的評価システム である政権党の政治に対して多数の国民による選挙における支持率という評価と政権を任せる報酬というシステムによって、イギリスは世界覇権を確立していきます。
ヴィクトリア朝中期において、イギリス人は世界人口の2%でしかありませんでしたが、最先端業の生産設備では全世界の40%から45%を保有しており、世界の産業生産の実に4割を担っていました。
1860年頃には、世界の商船の1/3以上がイギリス国旗をはためかせており、イギリス海軍は保有する艦船数が多いこともあって、2位・3位・4位の国々の海軍を合わせたよりも強力でした。