この二つの国家の共通点は条件的客観的評価システムの短期的な作用効果によって、国力を増大させ、世界のイニシアチブ・主導権を握った後で、長期的な負の作用によって世界を奈落に誘導してしまった点です。

つまり、戦前のドイツ帝国はファシズム国家、ソビエト連邦は共産主義国家を世界に波及させてしまったことです。

ナチスヒトラー体制はドイツ帝国の影響が極めて大きく、それによって生み出されたといっても過言ではありません。

ナチスヒトラー体制を直接生み出したワイマール共和制においても実権を動かしていったのはドイツ帝国時代の条件的客観的評価システム(メリットシステム)をクリアしたものから形成された軍官僚を中心とするグループ主義でした。 (ちなみに時代の流れはドイツ帝国時代→ワイマール共和制→ナチスヒトラー体制となります。)

ドイツ帝国では、先にメリットシステムにより出来上がった軍などの官僚組織が支配者層であったユンカーと結びつき、皇帝を中心とした封建制度を支える形が強固になってしまい、イギリスやアメリカのように安定した民主主義を獲得するのは非常に難しい状態となっていました。

第1次世界大戦後のように間接支配による外国の圧力が加わろうと、支配を押しのける強固な別のグループ主義がなければ、北欧のようなレアケース以外では、グループ主義の支配を排除し、安定した民主主義改革を実行するのは非常に困難と言えました。

外圧の直接支配によって、旧支配を排除し、その支配が復活しないようなシステムを構築するしかないと言え、実際、第二次世界大戦後はそうなります。

しかし、第1次世界大戦後には、それはなされず、間接的な指示に留まっており、帝制は廃止され、社会民主党政権を取りましたが、北欧を見ても分かるように社会民主党はルター派プロテスタント国に特有に中心政党として見られ、カルバン派と違い、反体制を取りにくい性質を持っため、帝国時代の旧支配者層である軍部を中心としたグループ主義温存されて行きます。

これらの旧支配層軍部の 存在によりワイマール共和国の政治的不安定が引き起こされ、政権党社会民主党は徐々に支持を失い政権交代政権の離合集散が相次ぎ、ワイマール共和制においては、ヒトラーが首相になるまでの十数年の間、十四人もの首相が変わるような状態でした。

この様な中で、必然的に実権を動かしていくのは旧支配層である軍官僚を中心とするグループ主義でした 。

ワイマール共和国の初期における軍最大の実力者となったゼークト将軍は、ベルサイユ条約により禁止された参謀本部を兵務局として偽装し、その局長に就任、カップ一揆においては共和国の鎮圧命令を軍は軍を撃たないとして拒否し、軍の独自性を確立しました。

逆に共和国に忠実であろうと鎮圧命令に唯一賛成した軍高官であったラインハルト統帥部長との政治闘争に勝利し、後任の座に着きます 。

その後、戦前の軍部独裁体制の象徴的存在であるヒンデンブルクが政党無所属で大統領に当選すると、ゼークトの側近であり、兵務局長も歴任し、ヒンデンブルクの息子とも親しいシュライヒャーは政治将軍と言われるほどに巨大な政治的権力を振るうようになります。

ゼークト後のドイツ軍を掌握した国防次官のシュライヒャーはヒンデンブルク大統領の側近として、議会に基盤を持たない大統領内閣を増産していきます。

まず、ブリューニングをヒンデンブルクに推薦し、ブリューニング内閣が行き詰まると友人のパーペンを推薦し、パーペンが行き詰まると、自らが内閣を組織して行きます。

この間の立法は大統領緊急令が国会議決の立法の数をはるかに上回り、当然の様に民主主義から派生する結果的客観的評価システムが正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、ナチスの台頭、ヒトラー内閣の成立に進展してしまいます。

ナチスの支持層人材供給源旧支配層と密接に繋がっていました。

ワイマール共和国において、旧支配層の大きな基盤となった義勇軍ナチス党の党員や指導者の大多数の出身母体となり、ヒトラーが世に出るきっかけとなったミュンヘン一揆にしても戦前の軍部独裁体制の中心にいたルーデンドルフを神輿に起こされたものです。

中途半端な民主主義が生み出した❸の政府形態を脱するために反民主主義的な旧支配層の支持基盤が生み出したものがナチス党によるファシズム国家であったといえます。

条件的客観的評価システムの短期的な作用効果によって、国力を増大させた人材・技術的基盤を所有するドイツが当時の大恐慌時における対処法として、イタリアで生まれたファシズム政策を採ったのが丁度、一時期的でさえもマッチングしてしまい、再び軍事大国として復活したことが、世界的なその流れを加速させ、日本にも波及させていきます。

元々、日本はドイツ帝国時代の条件的客観的評価システム(メリットシステム)優位の政治体制を真似て、導入しており、それがために、民主主義から派生する結果的客観的評価システムが構築されない状態でした。

条件的客観的評価システム(メリットシステム)優位の政治体制で民主主義から派生する結果的客観的評価システムが構築されない状態である国としては、戦前の日本、ドイツ、戦後のソ連などがあげられます。

そして戦後日本も戦前程ではなくても半分その状態の要素を引き継いでしまっています。(外圧の直接支配によって、旧支配を排除し、その支配が復活しないようなシステムを構築し、その状態を完全に脱した二次大戦後のドイツに対して、一次大戦後のドイツの様に間接的な指示に留まり、旧支配者層であるグループ主義温存されたため)

このような状態時には、短期的には特に独裁政権により特化した条件的客観的評価システム(メリットシステム)により、国力は急激に向上します。

しかし、これらの国々にはフィードバック的改善作用をもつ結果的客観的評価システムが欠けているため、時間の経過とともに条件的客観的評価システム(メリットシステム)をクリアしたものから形成されるグループ主義によって条件的客観的評価システム(メリットシステム)の効果が減弱されていきます。

ソ連においても戦前のドイツと同様に、当時の大恐慌時における対処法として共産主義政策が一時期的でさえもマッチングしてしまったことと独裁政権により特化した条件的客観的評価システム(メリットシステム)による国力の急激な向上などによって世界的に共産主義国家を波及させていきます。

しかし、科学技術分野においても大戦後はノーベル賞受賞者を急激に増加させ、世界初の人工衛星や有人宇宙飛行などの二十世紀における最も重要な複数の技術的偉業を達成させたソ連は、徐々にグループ主義に連なる高級幹部の子弟等がコネや権力によってエリート大学に入学するようになり、その後の昇進において同様の傾向が見られ、この様な官僚体制の硬直化は後期のブレジネフ書記長時代以降顕著になり、独裁政権により特化した条件的客観的評価システム(メリットシステム)によるプラス面の作用が薄れていきます。

10%を誇った成長率は次第に鈍化していき、技術面でも進んでいたはずの航空宇宙技術でもアメリカに対して十年単位の遅れを取るようになります。

そしてその技術的問題によって、チェルノブイリ原発事故が起こり、ソ連は崩壊への道を歩んでいきました。

 

ドイツ帝国においても初期においては軍事分野では大モルトケ、政治分野ではビスマルクなど国勢を拡大させました。

しかし、後期においては軍事分野では偉大な伯父(大モルトケ)の名声に基づいて参謀総長に就き、大戦勃発の最大の責任者の一人とみなされた小モルトケ(多くの歴史家は、ドイツ軍の敗北の責任はシュリーフェン・プランを改訂した小モルトケにあると主張しています) 政治分野では世襲制度の最たる皇帝自身のヴィルヘルム2世(ドイツの膨張政策を主導、イギリス・フランス・ロシアとの対立を深め、第一次世界大戦を引き起こす誘因とつくったとされる)により舵取りがされ、ドイツ帝国は崩壊していきます。

 

半分その状態の要素を引き継いでしまっている戦後日本も初期には、首相はエリート官僚から選出されていたのが徐々に世襲議員がその座を奪ってきています。

また、そのエリート官僚の主たる出身母体の東大の入学者の世帯収入は初期には平均収入より低かったのが、今でははるかに上回っています。

このように条件的客観的評価システム(メリットシステム)の効果が減弱されていくと、国力が衰退し、諸問題が続発してきますが、フィードバック的改善作用を持つ結果的客観的評価システムが欠けているもしくは不十分のため、問題が解決されないまま山積みにされていきます。

その際の国々がとる典型的な手段として、外部に矛先を転化させることがしばしば採られてきました。

ドイツ帝国における第一次世界大戦、ナチス時代の第二次世界大戦、ソ連における冷戦などがそれに相当します。

これらの条件的客観的評価システムの短期的な作用効果によって、国力を増大させ、世界のイニシアチブ・主導権を握った後で、長期的な負の作用によって世界を奈落に誘導してしまうことは、一国の問題だけでなく、世界的に極めて重要な前もって対処すべき問題といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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