本音と建前の二面性が必然化してしまっているのはなぜ?

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急成長・成功している経営者が世間的・表面的・建前的には人道的・公益的発言をしながら、実質的にはブラック企業的経営や明らかに平均以上にグレーゾーン的経営をしていたり、白を白・黒を黒を貫くためには権力と立ち向かう趣旨の典型的法律系テレビドラマの監修を灰色を白とする案件を多く取り扱う権力サイドと密接化した弁護士がしているというような本音と建前の二面性がくっきりと分かれていることはよくある話です。😫

どの分野の業界でも、規則が40キロ制限とされていたとしてもほとんどの人が守れない状況下に置かれ、平均60キロで走っている状態のときに、規則違反を理由に排除される者は決して100キロ近く走っている者ではなく、寧ろ極力規則を遵守している50キロ以下で走っている者が多いのを感付いている方も多いと思います。

最近、注目されつつある貴闘力チャンネルでは、規則通りにガチンコを貫く方が恨まれ、損をすると表現されています。

皆が規則を守れない以上、規則を守れないことを理由に排除するバイアスは極めて主観的・裁量的なものになります。

それは、一部のグループ主義体の権限を莫大に成長させ、社会利益・公益との大きな歪み・不調和を生じさせます。

当然のことながら、規則を極力遵守しているサイドは当然そうでないサイドよりも規則を重視し、そうでないサイドは規則よりもグループ主義的要素(癒着構造など)を重視します。

そうなると規則を極力遵守しているサイドは経済的・社会的に圧倒的に損をし、不利になります。

また、規則を重視するということはグループ主義的主観的裁量に枠をかけるということに繋がるため、権限を莫大に成長させた体制サイドと自然の流れで対立関係となってしまいます。

たとえ明らかに平均60キロ以下の40キロ代で走っていたとしても、規則違反は規則違反なので簡単にそれを理由に排除されてしまいます。

これは決して現代の社会に限ったことではなくて、歴史的に脈々と引き継がれている現象です。

古来から大体の宗教では、救済、救い(善行を積めば救われるという)というものを前面に押し出して来ます。

既得権益化した上層部が主観的判断つまり裁量で、それらの基準(善行を主として宗教組織に対する寄付や特権付与にするなど)を操作することが莫大な権益となっていまいました。

日本でも戦国時代において、日本の八大金持ちとされたものに、寺社は四つも含まれています。

石山本願寺においては、イエズス会の者により『日本の富の大部分はこの坊主の所有である』と書かれるほど財力を有し、戦国大名と姻戚を結ぶなどカトリック教会と同じように、封建制度の既得権層との密接な繋がりを持っていました。

古代中世西欧のカトリック教会でも教皇を頂点とした階層制組織を築き上げ、教皇を中心とした一部の聖職者上層部グループの裁量・主観的判断によって、一方的に教義を決定し、信者も教会やローマ教皇の言うことはすべて正しいと疑うことなく信じ切っていました。

ローマ教皇が最高権力者、信仰については全ての誤りから免れ、守られている者、彼への忠誠は救済の絶対条件でカトリック教会の聖職者のみが祭司の権威を持ち、神の恵みを与えて、罪を赦す権威を授けられているという理解は、聖書に反するものであり、またカトリックの儀式や教えの中にある現象の多くが、聖書の中に書かれてなかったり、禁じられている事柄も含まれていたりしました。

特定のグループの裁量・主観的判断に大きな権限を与えた時は、歴史的にみるとほとんどのケースで癒着・腐敗が進行してしまっています。

実際に、時代が経るにつれ、教会の世俗化や腐敗・堕落は進行していきました。

カトリック教会は、信者に対しては蓄財や富に否定的な考え方を示し、清貧を強いて、貯蓄よりも寄付を誘導しため、貨幣経済が浸透しにくい状態が続きました。

原始時代や山奥の点在した集落などの集団同士の接触がほとんどない状態でなければ、貨幣経済が発展しない自給自足の社会においては、天候不順などで食料や資源が欠乏した時、略奪的行為や紛争が頻発する傾向があります。

交易・流通が発達せず、各自が欠乏したものと交換可能な価値の通貨などの蓄えがないと飢饉にもなりやすく、さらに略奪や紛争が起こりやすくなってしまいます。

貨幣経済が衰退していたために富の基本土地であった時代において、教会が所有する土地は西ヨーロッパの20%から30%までなり、教会は極めて裕福で巨大な組織となりました。

救いを得るために、有力者や諸侯は教会に寄進しただけに留まらず、次男や三男を聖職者とし、寄進が大きいほど高い地位に就けたために、競って寄進が行われ、既得権益との融合・腐敗は進展していきました。

この時代はカトリック教会の絶対主義の中、停滞と紛争の暗黒時代と呼ばれています。

人々の善行を積んで、救われたいという気持ちつまり社会に貢献して、幸せになりたいという社会利益的想いがある意味存分に利用され、搾取されることによって、皮肉にも想いとは正反対にあるグループ主義的要素を育成・増大させてしまいました。😖

人間が生物である以上欲(食欲、物欲、性欲、名誉欲など)があって当然です。

生物である人間が幸せを実感するためには当然に上記の欲関連がどれだけ高度に充実するかにかかっています。

問題は表面・建前的にはそれらの欲を他のグループには極力制限させ、本音・実質的にはそこから搾取することによってそれらの欲を自らや属するグループ内では存分に充実させる現実的二面性存続させるのかそれとも社会貢献をすれば幸せになれるという社会利益主義的な理想主義が搾取の対象になるのではなく、実際の現象となる夢のような未来を目指すのかということです。

自然の流れではグループ主義の引力によって前者の流れになります。それを後者に展開させるには質・量共に充実した客観的評価システムの整備が必要不可欠です。(詳しくはこちらをクリック)

現代は確かに古代中世に比べると客観的評価システムの整備は進んでいるといえます。

しかしながら、科学技術が発展する程にグループ主義が生み出す社会の歪み(貧困・戦争・環境破壊など)による被害は幾何数的に増大してしまいます。

科学技術の発展に見合ったグループ主義を制御する客観的評価システムの整備を少なくともしないと近い未来においては地球の崩壊・人類の滅亡も現実的な事象になってしまいます。

そういう望ましくない方向性ではなく、社会貢献をすれば幸せになれるという社会利益主義的な理想主義を現実化させる夢のような未来の方向性を私たちは辿るべきではないでしょうか?🥺

では、そのためにはどうすればよいのでしょうか?🙄

この資本主義の社会においては現実的にお金というツールの重要性は絶対的に否定できません。

よって、これを有効に活用することも必須な要素といえます。

つまり、『社会貢献をすれば幸せになれる』という理想的な構図をお金というツールを媒介にして『社会貢献をすれば高収入になれる』そして、『高収入になれば幸せになれる』の二つの要素に分けて達成させるというものです。

前者の要素をgiveの要素、後者の要素をuseの要素とした上記を達成するための考察をして行きます。

⑴社会利益・公益の貢献に比例する形で報酬として与えられているか?(giveの要素)

⑵報酬としてのお金が与えられた本人を額に比例して幸福にしているか?(useの要素)

⑴のgiveの要素については社会利益・公益に沿った客観的評価システムの質・量の整備によって達成していきます。(詳しくはこちら

⑵のuseの要素について詳しく考証していきます。

いくら社会利益・公益の貢献に比例する形で報酬として与えられても、それを有意義に本人が自身の幸福のために使用できる環境でなければなりません。

健康のために、快適で安全な住居のために等人はさまざまな理由でその報酬のお金を利用して獲得しようとします。

しかし、適正なエビデンスに裏打ちされた客観的データーが付随せず、ただ主観的、繰り返し的インパクトの広告を主とする現在の商品全般における消費者の選択肢は、客観的判断基準がない場合の政治における衆愚政治と同様に狭められ、有益な選択が極めて難しくなります。

いくら客観的評価システムの質・量の整備し、⑴の要素をクリアしても⑵の要素が今のまま不十分であれば、正に片手落ちの状態となります。

⑵の要素についても、それぞれの目的に沿った客観的評価システムの整備が必要である思われます。(詳しくはこちら

金銭的報酬を得るには時間・労力を必要とします。下手をすると労力を集中し過ぎて健康を害してしまう場合もあります。

その報酬が、社会的貢献に見合って配当されなかったり、有意義に活用できないということは当然、相対的に不幸な状況を生み出すことを意味してきます。

繰り返し言いますが、お金は所詮道具です。

ひとえに人を幸せにするかどうかはその使い道にあるといえます。

そのネックには⑴⑵の要素とも客観的評価システムの整備にあると思われます。

 

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