フランス革命、中国北宋時代末期等大きな動乱の前には必ず国家的財政破綻があり、その主たる原因は歴史的に見てどの時代でも主導権を握る特権階級・既得権益の強固なグループ主義体といえます。

しかし、悉くこの強固なグループ主義体は改革に反対します。

 

フランス革命直前においてのフランスのブルボン王朝が放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実にその歳入の9倍の赤字を当時抱えていました。

1774年にテュルゴーが財務長官に任命され、財政改革を行おうとしました。

第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたため、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとしましてたが、貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任します。

次に銀行家ネッケルが財務長官に任命されました。

ネッケルは免税特権の廃止によって税務の改善を図りましたが、三部会(前述の聖職者300人、貴族300人、庶民600人の三つの身分代表者によるフランス国内の全身分の部会による議会)での聖職者と貴族の特権身分による反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免されました。

ネッケルの後任財務長官たちも課税を実現しようとしましたが(1783年、カロンヌ - 1785年、ブリエンヌ)、特に貴族階級の抵抗で辞職に追い込まれ、財務総監官邸は「免職ホテル」と呼ばれました。

中国北宋時代末期においても同様の展開を見せます。(詳しくはこちら

結局は両方とも破局的結末を迎え、特権階級・既得権益の人々はもちろん全ての階級の人々が激しい争い・混沌の中に陥っていきます。

Ⓐなぜ、ほとんどといっていい程、このような現象に陥ってしまうのでしょうか?

Ⓑこのような現象に陥らず、改革・改善を穏便に進行させることはできないでしょうか?

Ⓐは②のアプローチと③のアプローチが大きく・根本的に相反する中(詳しくはこちら)で②のアプローチと③のアプローチを分離もしくは対立させて作用させたためであると思います。

ではそれを踏まえたうえでⒷの解決策を考えていきます。

解決策の糸口として見出せるのはシンガポールにおける官僚などの賞与と GDP 成長率とを連動させる制度です。

シンガポールは独裁国家です。さらに条件的客観的評価システムが強く、特化されているため、普通に考えると時間の経過とともに、官僚組織が公益と反する形でグループ主義化していくのが歴史的に見て典型的なパターンといえます。

しかし、実際は逆に世界的に見て腐敗指数が最良で、官僚が主導権を強固に握る官僚国家で在りながら、官僚における害がアジアでは最も少ないと言われています。

これはなぜでしょうか?

②のアプローチと③のアプローチの間を官僚などの賞与と GDP 成長率とを連動させる結果的客観的評価システムがリンクさせているからといえます。

つまり、公的利益とグループ主義的利益を同化させる工夫が必要ということです。

それが無理であれば、ルター派諸国の民主改革における流れのような道筋を長期間に掛けて実践していくしかありません。

 

 

 

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事