特定の宗教・民族の批判主義の代表例として反ユダヤ主義があります。

主たる原因とされるものとしては

①ユダヤ人は富を持ちすぎている。

②ユダヤ人は他の民族と同化しない。

③ユダヤ人は自分達が選民だと傲慢になっている。

④ユダヤ人は劣悪な民族である。

⑤ユダヤ人は世界の問題の原因となっている。

などがあげられます。

①に関しては、職業選択の自由を制限された結果であって本来批判されるべき対象ではありません

もし、富を持つこと自体が批判されるのであれば、資本主義制度はもちろんその制度の上で評価・報酬がされている客観的評価システムをもひいては批判することに繋がります

②③は少数民族が防御的行為としての特徴のため、これだけをピックアップして批判してしまうと、多数民族が良で、少数民族が悪という数の論理の構図が出来上がってしまいます。

多数民族がいれば、対比的に少数民族がいるのが当然で、この構図が成り立ってしまうと、少数民族は常に迫害を受け、それに対する彼らの正当な対処から由来する対立・紛争が絶え間なく、常に社会全体に包有し続けることになってしまいます。

④⑤はどの点をもってそれを指摘しているか全く不明です。

ユダヤ人が共同体社会を構築することによって、歴史的に世界・社会全体に優秀な人材を供給し続けてきたことは、dreaminngの⑿ドイツの近現代史を客観的評価システムの観点から考察にも述べています。

ただ、共同体社会をミクロ的なものからマクロ的なものに拡張してできた共産主義を批判の元とするなら、同時に共同体社会を構築する客家やフランス革命の基盤となった中世の北フランスの共同体コミューンの存在自体も批判の対象となってしまいます。

共同体社会の構築には長所面もあれば、短所面もあります。

それはどんな事象にも共通することです。

少なくとも一民族の問題ではなく、一民族に全ての責任を負わせるのは論点が180度ずれてしまっているといえます。

 

悪魔が描かれるとき、描いた者が信仰する宗教と別の宗教の神様がモチーフとされることが歴史的に見てよくあります。

もしかすると、悪魔というものは本来存在せず、自分の所属しないグループを一つの角度全面的に批判・否定する行為から生み出されるものかもしれません。

 

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事