日本の戦国時代を終わらせたのは誰でしょうか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光などいろいろな意見があります。

しかし、やはり織田信長であると私は思います。織田信長の肖像

他国各国の歴史を見ても、長きにわたる戦乱の戦国時代を終わらせる前提として必ずといって、主観的な要素の強いため既得権益化した宗教勢力の排除が行われています。

五代十国時代の柴栄による仏教勢力弾圧(中国の織田信長と言われています。)、秦の始皇帝始皇帝の画像による儒教思想弾圧などです。

どんなに教え自体が素晴らしくともその教化の運営自体が教団の上層部によって主観的に行われると既得権益化し、社会における対立・紛争を激化させているのは歴史が物語っています。

本来はキリスト教という同じ教えであるカトリックとプロテスタントにしても、その運営方法によって社会が受ける影響は大きく変わってきます。

カトリック素晴らしい宗教です。

最も尊敬すべき歴史的人物ともいえるケネディ大統領もカトリック教徒であり、現代のローマ教皇が世界的な平和・公益に大きく貢献されていることはだれもが認めるところです。

しかし、どんな宗教・思想も長所もあれば短所もあります

背景となる時代・環境・状況下によっては大きく+(プラス)に作用したり、-(マイナス)に作用したりします。

当時聖書は一般の信者の人々には与えられず、またラテン語で読まれたため、一般の人々には理解されませんでした。

よって信者は聖書に救いや信仰の拠り所を求めるのではなく、教会に求める形となりました。

カトリック教会は教皇を頂点とした階層制組織を築き上げていたために、教皇を中心とした一部の聖職者上層部グループの裁量・主観的判断によって、一方的に教義を決定し、信者も教会やローマ教皇の言うことはすべて正しいと疑うことなく信じ切っていました。

ローマ教皇が最高権力者、信仰については全ての誤りから免れ、守られている者、彼への忠誠は救済の絶対条件でカトリック教会の聖職者のみが祭司の権威を持ち、神の恵みを与えて、罪を赦す権威を授けられているという理解は、聖書に反するものであり、またカトリックの儀式や教えの中にある現象の多くが、聖書の中に書かれてなかったり、禁じられている事柄も含まれていたりしました。

特定のグループの裁量・主観的判断に大きな権限を与えた時は、前述したとおり、歴史的にみるとほとんどのケースで癒着・腐敗が進行してしまっています。

実際に、時代が経るにつれ、教会の世俗化腐敗・堕落進行をしました。

一人一人の個人の自由意志捨ててしまうと、一部の人々の主観性と裁量による支配に陥ってしまいます。

古代・中世において、カトリックや仏教を含めほとんどの宗教は、既存支配階級と深く繋がり、イエスやブッダの本来の教えから離れるところか、対極にあるような所業も多く残しています。

その中で、客観性の要素のある宗教としてのプロテスタントの登場は極めて画期的な出来事でした。

スタートした教義的にどんなに素晴らしくても、管理的に主観性の要素が強ければ、グループ主義的に、つまり公(おおやけ)に反する形に変質してしまいます。

プロテスタントのカルバニズムには、救いという命題において、他のほとんどの宗教が持っている主観的・裁量的要素のない特異的形態を保有しています。

なぜなら、予定説の考え方としては、もうそれは既に決まってしまっているからです。

他の宗教が救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきたのに対して、プロテスタントでは、原初キリスト教の教えに沿って、神の下での平等を主張し、カトリックのような身分制を否定して、信徒は皆平等で、教会聖職者を信徒の上位に置きませんでした。

また救済の証として、神から与えられた天職における世俗的労働に邁進して得た業績と収益が捉えられるようになりましたが、それはカトリックの教会指導者による人々の救われる基準主観的裁量による決定よりも、極めて客観性のあるものでした。

現代においても、民主主義指数が高く、経済的に先進国である国家にはプロテスタントの信者が多い国が多く、カトリックの信者の多い国は対して、指数が低くく、麻薬カルテルやマフィアが蔓延り、腐敗が強い傾向にあるのもそのためです。

イギリスやアメリカなどのプロテスタント国家の支配・影響下では豊かであったカトリック国家が独立すると貧困・対立・腐敗に満ちた国家に時間の経過とともに導かれていくのも、自然の流れとも言えます。(戦後間もなく時代には日本に次ぐ経済大国と言われたフィリピンや戦前は世界第5位の富裕国となったアルゼンチンetc)

古代中国における主観的要素の強い儒家と客観的要素の強い法家の比較の観点でも見て行きます。

法家の教えは儒家の述べる人治主義のような信賞必罰の基準が人の恣意であるような基準ではなく、法という定まった基準によって統治すべしという法治主義の考え方です。

千年近く続いた戦乱、春秋・戦国時代の終止符を打った秦国が法家思想が強かったことは有名です。

法治主義の考え方は始皇帝の発案のように思われていますが、秦の法治主義路線は百年以上前の商鞅の時代からです。

他の国々に見られない例外的に長期間続いた状態でした。

それにより、秦国は国力を高め、中華を統一することができました。

法家の呉起が、秦の同格の大国であった楚において悼王の信頼の下、改革を担いましたが、悼王死去後すぐに呉起は失脚し、その改革も続かなかったのに対して、秦においては、同じように、考公の信頼の下で、商鞅が法家主義的政策で改革を断行し、考公亡き後、すぐに失脚しましたが、その後もその政策は引き継がれました。

それが秦が中華を統一し、楚ができなかった大きな理由です。

秦の中華統一後、統一に伴う度重なった土木工事による民衆の疲弊と滅ぼされた国々の人民の反発によるところと後を継いだ二世皇帝が暗愚であったことから秦は滅亡します。

これは後の世において、同様に戦国の世を統一しながら短期間に滅亡した隋と共通するところです。

その後、秦の法制度を受け継いだ漢は統一国家を存続させていきます。

文帝・景帝の時代では食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、銭の間に通す紐が腐って勘定ができなくなったなどの逸話も残されています。

ただ、武帝の時代に儒教を国教とし、郷挙里選の法と呼ばれる官史任用法が採用されました。

これは各地方郷理の有力者とその地方の太守が話し合って当地の才能のある人物を推挙するもので、特に儒教の教養を身につけた人物が登用されました。

儒教の考え方は祖先や家族愛を大切にし、礼や道徳を尊ぶ貴重な要素が多く含まれています。孔子の画像

しかし、それらはミクロ的・私的な環境下で重要視すべきであり、古代周の時代の様に公の単位がミクロ的な場合は別にして、時代が進み、マクロ的・公的になった環境下でそれを重要視することは極めて適さない形となります。

同じ諸子百家の一つの墨家から儒教の家族愛は特定の集団に対する愛、差別愛、偏愛と批判されています。

個々の家族内のミクロ的なレベルではともかく、国家レベルでのマクロ的にこれが実践されると閨閥主義が蔓延り、先天的な階級社会が原則となり、公平性を欠く社会になってしまう傾向になります。

また儒教の考え方である徳治主義は人治裁量主義であり、法家が社会的公正を理念とするのに対し、仁を施すと称する恣意の裁量政治が同じ閨閥や派閥の不正を裁かず、利権と最も深く結びついている官史任用に際しても、徳や才は名ばかりで人情採用が横行し、当然その結果、利権における癒着・賄賂が蔓延り、利権や特権を得るための閨閥や派閥間での争いが激化してしまいます。

実際、武帝の前半の治世は文景の治による蓄積によって繁栄しますが、後半は不正や賄賂、反乱、盗賊の横行が各地で凄まじく蔓延し、側近の職権乱用が原因とする皇太子の反乱や巫蠱の罪など冤罪で多くの者が裁かれたり、混乱を極めます。

その後、混乱した状態を収拾したのが漢王朝の中興の祖といわれた宣帝です。

宣帝は信賞必罰をモットーとした法家主義的政治信条に則り、法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者達を政治の中枢から遠ざけ、弱体化していた漢の国勢を復興させることに成功します。

しかし、その後、儒教に傾倒し過ぎるために皇太子時代に宣帝から廃位を一時検討された元帝が結局、即位します。

元帝は儒教に傾倒し、現実離れした政策を実施し、財政は悪化、国政を混乱させます。

宣帝により中興された国勢は再び衰え、元帝の皇后一族からでた王莽の簒奪、前漢滅亡の端緒を開くことになります。

その後、漢を乗っ取り、新を建国した王莽の王朝も同様いやそれ以上に儒教帝国と呼ばれる位、儒教一辺倒の国家になります。

現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動を停止したために民衆の生活は前漢末以上に困窮し、民衆の反乱が続発し、十五年という短期間に新王朝は滅んでしまいます。

王莽の目指した方法論は別にして、方向性・目的は必ずしも間違っていたわけではありません。

土地の国有化は小作人を苦しめていた豪農への対策であり、周代の官僚機構を用いて改称を行ったのは、増え過ぎた官僚のリストラも目的としたものでした。

その他にも奴隷売買の禁止、高利貸よりも安い金利での国家からの融資政策などがありました。

一見しますと善政の様にも見えますが、なぜこれらが稀代の悪政となったのか?

儒教は精神・理想主義、徳治・人治主義からくる主観性の重視、家族血族主義などが根本にありますが、王莽はこれに固執し過ぎたと言えます。

偏った主観的人材登用を行ったために、人材が不足し、政務が滞り、不正が跋扈しました。

また、黄河が氾濫した時も、工事をした場合に王莽の先祖の墓が水没する危険があったために、必要な処置を国益・公益よりも家族血縁主義を重視して行いませんでした。

儒教の考え方は祖先や家族を大切にし、礼や道徳を尊ぶ貴重な要素が多く含まれています。

しかし、それらはミクロ的・私的な環境下で重要視すべきであり、古代周の時代の様に公(おおやけ)の単位がミクロ的な場合は別にして、時代が進行して、マクロ的になった環境下でそれを重視することは極めて適さない形となります。

歴史的に見て、社会が大きく複雑化した国家レベルになった場合に主観的裁量主義を採用してしまうと集団欲が暴走し、国を衰退させてしまうことは必然となります。

その後、混乱を収拾した劉秀が後漢を興し、光武帝となります。

光武帝は法家政策を採り、宣帝を高く評価し、儒教は重んじながらも政治は法家・法治主義で行いました。

疲弊した民を救うために、度々の奴隷解放令を出すとともに、人身売買を厳しく規制し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣告し、豪族の跋扈する郡には酷使と呼ばれる人物を太守に起用し、横暴な豪族を制圧し、犯罪数が前漢時代の五分の一に減少しました。

また、税を三分の一に、役所を統廃合し、冗官の削減をし、人民の負担の緩和を図りました。

その後を継いだ明帝も法家と儒家のハイブリッド的な政治を行い、二代に渡り、後漢期においては安定した全盛期を現出しました。

しかし、その後は王莽の治下で儒学の校舎を全国に設置して、奨励させた影響から後漢中期には儒教を学ぶ者が急増し、三代章帝の時代からは完全な儒教国家となってしまいます。

そして、外戚と宦官勢力が政争を繰り広げ、後漢は衰退していきます。

儒家は 家族血族主義でて徳治・人治裁量主義、身分制度秩序の肯定となります。

法家は『信賞必罰』を旨とした実力主義、血縁社会よりも社会的公正を優先する法治裁量主義となります。

前者の場合、人の裁量・主観的な判断で物事が決められて行きます。

家族血縁主義、身分制度秩序の肯定も相まって、一部の血縁、一族が閨閥を形成し、利権を独占する特権階級を生み出しやすくなります。

一部の閨閥グループが利権を得ている状態は、客観的基準があれば、その方向性で人は努力しますが、それがなく主観的な徳があるなしで、しかも実質血縁で利権が分配されている状態であれば、他の一族グループにとって非常に不公平で不公正なシステムに映ります。

一度構築された身分制度秩序が肯定されても、客観的に他の多数のグループにとって不公平・不公正感がある限り、利権・特権階級を得るためのグループ間の争いは激化して行きます。

後者の場合、法という客観的基準によって物事が決められて行きます。

前者と違い癒着・不正が起こりにくく、特定のグループに力が集中しにくくなり、公(おおやけ)、国全体が豊かになる傾向があります。

しかし、法家の韓非子(クリックするとリンクします)が述べてている通り、法の力によって君子の下で正しい政治を実現しようとする者、これを法術の士とし、 私利を図り王朝を害している者を当途の人とすると、両者は相容れない敵同士となりますが、当途の人は君主に気に入られており、君子と顔なじみであり、耳に気分の良いことだけを言い、身分 が高く、子分を多く従えている場合が多く、法術の士は君主の覚えがなくて、新参者で、耳の痛いことを口にし、身分が低く、味方のいない場合が多いために、法術の士が当途の人に勝てる見込みは全く薄く、この力の差によって、法術の士は身の危険に曝され、当途の人は何か罪をでっち上げられるのであるならば、刑罰を利用して殺そうとし、それれにより当途の人とそれに従って利益を得ようとする者たちが好き勝手に振る舞い、有能な者や潔白な者が彼らに阻まれ、政治が腐ってしまう傾向が極めて強くなります。

実際、法家の人身分が低い者もしくは不遇であることが多く、宣帝や光武帝などの法家を重視した皇帝も出生時には本来ならば皇帝になれる身分・地位ではないか、政(後の始皇帝)の様に待遇が悪い環境下であることも共通しています。

生まれながらにして、皇帝を継ぐ程に身分が高く、待遇が良ければ、自然の流れで既存の身分制度秩序を肯定する儒家に靡いてしまうのは当然の理かもしれません。

国々が乱立する中、生存競争のために、富国強兵が切実である状態で、開明的な君主により、有能の士を募っている中、信頼を勝ち取るか、幸運にも身分や待遇の低い状態から皇帝として昇り詰めるしか法家が政治の実権を握るのは難しくなります。

開明的な君主の信頼を勝ち取っても二代続いて英君 は続かず、大抵は 悲惨な末路を歩むことになります。

また幸運にも低い立場から皇帝になったとしても、次の跡継ぎは身分・待遇が高い立場であり、代を重ねるにつれて、儒家に傾いて行きます。

つまり、法家が実権を握れるのは例外的な場合になり、原則的に儒家が主となり、少数のグループによる主観的な政治が行われ、公(おおやけ)、国の利益に沿った客観的な基準は歪められ、公(おおやけ)主義というよりも、それぞれのグループの利益・特権を求めて争うグループ主義的な時代となります。

カトリックが聖書を信者が読めないことから、教義を階層制度の下で教皇を中心とした上層部が主観的に決定したのに対して、プロテスタントは聖書に書かれていることのみを根拠とする客観的なものでした。

またプロテスタントでは、神の下で人々の平等を主張し、カトリックの身分制を否定し、信徒は皆平等で、教会聖職者を信徒の上位に置くことを認めませんでした。さらにプロテスタントの一派であるカルヴァン派では、予定説という人に神が救済を与えるかどうかは予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないという聖書の教理の解釈を前面に出していきます。

つまり教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係ないというものです。

大体の宗教では、救済、救いというものを前面に押し出して来ます。

既得権益化した上層部主観的判断つまり裁量で、それらの基準を操作することが莫大な権益となっていまいました。

日本でも戦国時代において、日本の八大金持ちとされたものに、寺社は四つも含まれています。

石山本願寺においては、イエズス会の者により『日本の富の大部分はこの坊主の所有である』と書かれるほど財力を有し、戦国大名と姻戚を結ぶなどカトリック教会と同じように、封建制度の既得権層との密接な繋がりを持っていました。

この様な既得権益化した勢力を排除することが対立・腐敗をなくし、戦乱・戦国時代を終焉させるには必須不可欠であることは、中国の春秋戦国時代・五代十国時代、中世西欧のカトリック支配の暗黒時代そして現在のカトリック国家とプロテスタント国家の腐敗・貧困・対立度合の比較などを見ても明らかである思われます。

そういう意味で歴史の流れを読み解くと、やはり日本の戦国時代を終わらせたのは織田信長公ではないでしょうか❕

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