一般的に良い行為とは自己犠牲的無償の支援といえます。
自分自身も若い時、学生の頃は経済的余裕のない中でも市が管理する福祉団体のボランティアにいったり、環境保護 難民支援の寄付などの自己犠牲的行為に邁進していた時期がありました。
しかし、それらの無償の支援が実はコントロールされていない支援、見せかけの支援となり、ほとんど役に立たない無用の長物を生み出したり、また支援国サイドの企業と被支援国の政権の強固な癒着の形成を助長させ、腐敗による対立の激化、貧困や混乱の増大、支援の名を借りた支援国の被支援国に対する実質的新植民地主義的支配の定着などただ程高いものはないと言える状況を作り出す現実もあることを、近現代の歴史を学び、実感しました。
「アフリカ各国の貧困問題がなかなか改善されないのもなぜか?」ということを熟考してみても、大事なことは良い行為ではなく、良いシステムであるとどうしても思ってしまいます。
自分自身が個々の人々や組織を極力非難することなく 、否定することなく、どうすれば全ての人が幸せになる 社会のシステムを 構築できるかを歴史的観点から模索し追求していく ことを目的としてこのブログを立ち上げたのもその様な考えが根底にあります。
人に責任を負わすのではなく、システムにその責任を負わせる
もちろんシステムを構築するのは人であり、そういう意味では結局はその責は人に帰すものとなります。
しかし、人を非難してしまうと対立・争いの元になります。改善するどころか争いのためにマイナスの結果となってしまうことは歴史上よくあることです。
よって、このブログでは基本的に人に責を帰するのではなく、システムにその全ての責任を追わせるものとしています。
人かシステムかということは鶏か卵が先かの問題とよく似てます。
卵に全ての責任を負わせたとしても結局はそれを生み出した鶏に責任があることになります.
しかし、その責任は1人物や1グループに負わせるのではなく、システムを生み出す全ての人々の責任とすることによって、対立や紛争のマイナス的結果をある程度は回避できる様な気がします。