日本の南北朝時代の騒乱の中、最高位の権威を持つ後醍醐天皇でもなく、前政権の絶大なる基盤をもつ北条時行でもなく、足利尊氏が最後に勝ち残ったのはなぜでしょうか?

先ず、北条時行の方を見て行きます。

乱当時は、年齢的に彼は幼かったため、彼を押し上げたのは旧政権の北条氏における支持層といってもいいでしょう。

北条氏は鎌倉殿の13人でもわかるように、有力御家人を次々と権力闘争・戦争によって滅ぼし、味方をしてくれた御家人に滅ぼした有力御家人の土地を褒美として分配することによって、求心力を保ち続けました。

いわゆる『いざ、鎌倉』というやつです。

しかし、そのシステムが破綻する二つの要素が浮上してきました。

一つが元寇の問題です。

戦いによる報酬・評価システムを保つためには戦いに勝利することによって得る土地や財が必要不可欠です。

しかし、外敵を追い払っただけなので、当然得れる土地や財がありません。

多くの御家人は多額の出費に比較して不十分な報酬しかもらえず、生活に窮するようになって来ます。

もう一つが、滅ぼす氏族が、ほぼなく北条氏全盛の時代となり、その中でも北条得宗家の御内人が力を持ち、高利貸しとも結託し、多くの窮している御家人にさらに追い打ちをかける所業をしていきます。

これは、共和制ローマの末期の状態とよく似ています。

ローマ軍の中核を成し、ローマを支え続けてきたのはローマ市民である自由農民です。

彼らの多大なる経済的・身体労力的奉仕によってローマはポエニ戦争など外的紛争に勝利しますが、それによって属州が増えてからは、利権化した総督職によって貴族階級は以前とははるかにレベルの違う莫大な力を持ち、その反面、最大の貢献者である彼ら自由農民は、属州からの安価な農産物の流入・多額の戦費などの負担などによって急激に没落していきます。

自由農民の没落を救うために農地法を制定しようとしたグラックス兄弟も貴族階級により命を落とし、改革は失敗に終わり、対立・争いの内乱の一世紀に入ります。

同じように、鎌倉末期においても努力しても報われないことに対する多くの御家人の不満が爆発し、対立・争いの南北朝時代の先駆けとなる鎌倉幕府の滅亡に繋がっていくのです。

しかし、彼ら御家人の期待の受け皿となった後醍醐天皇も公平に戦いの貢献における褒美・評価システムを運営できたわけではなく、貴族中心のより不満の出るものでした。

それなら、まだ旧政権の北条氏の方がましなのではないかということで発生したのが中先代の乱です。

北条高時の次男であった北条時行を旗頭に旧支配層の御内人を中心に勢力を拡大し一時は鎌倉を落とし、短期的にも占拠に成功します。

しかし、思ったほどに勢力は拡大せずに、結果的に足利尊氏に敗北してしまいます。

その要因としては二つ上げることができます。

一つには鎌倉末期における努力しても報われないことに対する多くの御家人の不満の記憶です。(その中でも恩恵をうけた御内人などの一部は別にして)

もう一つは足利尊氏の人望です。

彼が人望が高かったのは戦いの貢献における褒美・評価システムの運営力にあります。

彼の気前の良さはかなり群を抜いていたようです。

当時お中元のような風習が流行り、尊氏には山のように贈り物が届けられましたが、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、結局その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかったといいます。

それだけではなく、戦いの貢献における褒美・評価システムにおける重要性についてもしっかり把握していました。

当時の絶対的権威であった後醍醐天皇に対しても、中先代の乱における戦いの貢献における褒美・評価システムの采配権に関しては決して譲りませんでした。

また、観応の擾乱でも戦いの勝利者であったはずの弟の直義から堂々とこのシステムの采配権を横取りし、結果的には支持形勢を逆転させています。

努力すれば報われるというのは人として最も強力な願望です。

この願望の力によって、足利尊氏が最後に勝ち残ったといえます。

しかし、戦いの貢献における褒美・評価システムなので室町幕府も鎌倉幕府以上に戦乱・争いに満ち溢れた時代となっています。

同時代(鎌倉・室町時代)の中国においては、宋・元・明が相当しますが、宋と明においては戦いの貢献における褒美・評価システムに代わって、科挙つまり官僚選抜試験による客観的評価システムが第一に重要視されるようになってきます。

これによって、中国においては争い・紛争が激減していきます。(詳しくはこちらをクリック

実際的に、宋と明に時代に挟まれた元の時代は科挙制度は採用されませんでしたが、この時代においては科挙制度が本格的に導入される宋以前の時代まで頻発した何百年における内乱・戦乱の時代(春秋戦国時代・三国志時代・五胡六国時代・南北朝時代・五代十国時代)同様にモンゴル貴族同士の激しい武力による血で血を洗うような権力闘争が繰り広げられました。

の時代の人材登用法は、まさに以前の中国の戦国時代と同じくする血縁・家門を中心とする縁故採用でしたが、宋・明・清など他の王朝に比較して明らかに争いに満ち短命な王朝でありました。

朝鮮においても、科挙制度が本格的に採り入れられる李氏朝鮮までは、三国を中心とする内乱・戦乱が多発していましたが、李氏朝鮮の朝鮮王朝が発足してからは五百年にわたる長期王朝が存続しました。

日本においては科挙制度自体が日本の歴史に及ぼした影響は少なかったといえますが、江戸時代中後期からは科挙に類似した制度が所々に採用されています。(筆算吟味、学問吟味など)

日本の武家政権は鎌倉幕府、室町幕府と戦乱・内乱に満ちたものでしたが、江戸時代は三百年と長期存続し、特に中後期に限っては内乱・戦乱がほぼ無い状態でした。詳しくはこちらをクリック

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