正しい人間が人間が必ずしも報われるとは限らない。

寧ろ逆になってしまうことも多いと感じる方もお有りだと思います。

しかし、誰もが『正しい人間が報われてほしい』と思っている点ではほぼ共通するのではないでしょうか

ただ、それなのに思いとは別に現実社会ではそうならないのはなぜでしょうか?

鍵となるのが、『宗教が決める救われる基準』の記事内容(詳しくはこちら)と共通する要素にあります

キリスト教にしても、仏教にしても、大体の宗教の教義・教えはとても素晴らしいものです。

 イエスもブッダも、 最も身分の卑しいとされている人々に対しても分け隔てなく接しています。

しかし、歴史的に見ると宗教組織が政治・経済に大きな影響力を持っている程、階級制がより徹底され、戦乱に満ち溢れた社会になってしまっています。

歴史的に見て、ほとんどの宗教が救われる基準つまり、救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきました。

中世西欧の戦乱に満ちたことから暗黒時代といわれた時代、カトリックでは、管理・運営において、教えを全てローマ教皇の主観的な判断に委ねられていました。

教皇の無謬性、間違いはない、全て正しいという考え方もそれを表しています。

多数の人々の主観的な考え交差し、修正し、補填し合うことによって、客観性が構成されます。

カラマ・スッタでのブッダの言葉でも『人から聞いたというだけの理由で信じてはいけない。何事も教師や司祭権限だけの理由信じてはいけない。ただ、よく吟味・熟考した上で、理性と経験によって、承認できること・良いこと・自他共にまた世界全体に恩恵をもたらすことを真実であると受け入れ、その真実に則ってあなたの人生を送りなさい。』というものがあります。

他人に自分の考えを委ねてしまうことは、悩みや葛藤から解放され、極めて楽になれるということと集団に所属し、一体感安心・安堵感を感じたいという集団欲の要素から、常に全ての人々への強い誘惑として存在しています。

環境が劣悪で、苦しみ大きいほど、その誘惑巨大になってきます。

しかし、皆がそれに呑まれてしまうと、歴史的に、人類にとって大きな不幸を生みます。

それが西欧における暗黒時代であり、似た事象として、衆愚政治からのヒトラーなどの独裁政治があります。

ヒトラーの言葉として『弱い男 を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりもより支配者を愛して、自由を与えられるよりも、どのような敵対者にも容赦しない教義の方に、内心でははるかに満足を感じている。』というものがあります。まさに、これらの集団欲などを悪辣利用するために解釈された考え方です。

我々は決してこのような誘惑捕らえられてはいけません

どんなに苛酷で、苦境であっても、先述したブッダのカラマ・スッタの言葉を胸に刻まなければなりません。

一人一人の経験と理性の下に吟味・熟考した意思や考え方が交差し、修正し、補填し合うことによって、初めて客観性が生まれます。

一人一人の個人の自由意志捨ててしまうと、一部の人々の主観性と裁量による支配に陥ってしまいます。

しかし、古代・中世において、カトリックや仏教を含めほとんどの宗教は、既存支配階級と深く繋がり、イエスやブッダの本来の教えから離れるところか、対極にあるような所業も多く残しています。

『正しい人間が報われてほしい』という皆の想いがどんなに強く、素晴らしいものであっても、『正しい』ことにおける基準が主観的な判断に委ねられてしまうと『宗教が決める救われる基準』と同様に対立・紛争・戦乱に満ち溢れた社会となり、皆全員にとって大きな不幸生み出されてしまいます。

『正しい』ことの対極にある悪魔が描かれるとき、描いた者が信仰する宗教と別の宗教の神様がモチーフとされることが歴史的に見てよくあります。

また、魔王と呼ばれる存在が実は戦乱に満ち溢れた社会の元凶である巨大に既得権益化したグループ主義体を改革しようとした人物であることもよくある歴史的史実です。

よって、『正しい人間が報われる』為には、その実際の実行における管理・運営において一部の主観的な判断に委ねられるのではなく、客観性のあるシステム下で実行されるべきことが必要不可欠であることが分かります。

現代の資本主義社会においては、『正しい人間が報われる』ための報酬の媒介となるのが『お金』です。

お金は所詮道具です。お金の画像

よって、どのようにお金を活用すれば人は幸福になれるのか?という議題を追及していきます。

この議題を達成するには大きく二つの要素が必要になってきます。

⑴社会利益・公益の貢献に比例する形で報酬として与えられているか?(giveの要素)報酬の画像

⑵報酬としてのお金が与えられた本人を額に比例して幸福にしているか?(useの要素)お金を使う画像

⑴のgiveの要素については社会利益・公益に沿った客観的評価システムの質・量の整備によって達成していきます。(詳しくはこちら

⑵のuseの要素について詳しく考証していきます。

いくら社会利益・公益の貢献に比例する形で報酬として与えられても、それを有意義に本人が自身の幸福のために使用できる環境でなければなりません。

健康のために、快適で安全な住居のために等人はさまざまな理由でその報酬のお金を利用して獲得しようとします。

しかし、適正なエビデンスに裏打ちされた客観的データーが付随せず、ただ主観的、繰り返し的インパクトの広告を主とする現在の商品全般における消費者の選択肢は、客観的判断基準がない場合の政治における衆愚政治と同様に狭められ、有益な選択が極めて難しくなります。

いくら客観的評価システムの質・量の整備し、⑴の要素をクリアしても⑵の要素が今のまま不十分であれば、正に片手落ちの状態となります。

⑵の要素についても、それぞれの目的に沿った客観的評価システムの整備が必要である思われます。(詳しくはこちら

 

 

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