歌手の岡村孝子さんと結婚された現政治家(元野球選手)である石井浩郎さんが離婚されるときに、冗談ぽく『人魚と思ったらホオジロザメだった。』と表現されたのは有名な話です。
しかし、この様な外見(容姿)と中見(内面)が剥離して感じられることは、決して特異なレアケースではなく、現実的には典型的、通常のありがちなことなのかもしれません。
実話を基にして作られた最近のドラマ『ファーストペンギン』の中で「大事にされている、可愛がられている子供は総じてわがままだ。お行儀のいい健気ないい子の大抵の親は好き勝手なことをしている」というセリフがあります。
このセリフが実体験を基に引用されたものかわかりませんが一理ある表現だと思いました。
歴史的に見ると、どの王朝も初代から末代にかけて君主というものは大体は代を重ねる毎に劣化していき、そして滅亡していく流れとなります。
しかし、その中で突然変異的に名君と呼ばれる存在が出現することがあります。
中興の祖とされる徳川吉宗、上杉鷹山(日本)、康熙帝、宣帝、弘治帝(中国)、正祖(朝鮮)などです。
こうやって挙げて行くと、ある共通点に気が付きます。
全ての人が、順当に皇太子など後継者の道を経由して、君主の座についてないということです。
つまり、言い換えると全ての人がダークホース的な立場、本来ならば君主になれない立ち位置もしくはかなり困難であろう立場からなった方々でした。
逆に暗君・愚帝のほとんどが順当に安定的に後継者の道を進んでいます。
順当に安定的に後継者の道を進むと地位に安住して修養を怠り、周囲から甘やかされ、ちやほやされてしまうなどの状況が生み出されるからだと思われます。
比較的暗君・愚帝が少ないといわれた中国清の時代の後継者指名が太子密建という生前に公式に後継者を指名せず、継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後で紫禁城の乾清宮の正面に掲げられた「正大光明」と書かれた額の裏に置き、皇帝の崩御後、衆人立会いの下でこれを開き後継者を決めるという方式がとられているのもそのことを裏付けることといえます。
現代の似たような現象として、若いきれいな女性の方の悉くが、男性の立場から見てこいつはヤバい思われる男性に落とされてしまうことと同じことなのかもしれません。
同じ男性の立場から見ても、若いきれいな女性に対する周囲の男性のちやほや対応・アプローチ度合には正直少しドン引きするものがあります。
その中で、思春期後の大事な精神的育成期を迎えてしまうと、順当に安定的に後継者の道を進む皇太子のように、健全な精神的向上を積み重ねることは誰であってもかなり困難であると思われます。
架空の物語やドラマでは、若いきれいな女性や王子様が主人公で心も美しく描かれることがほとんどですが、現実的もしくは歴史的には真逆の現象・現実を実感されている方々も多いのではないでしょうか?
女性であれば、昔はヨン様、いまはBTSのような王子様キャラを男性であればガッキー(新垣結衣さん)のようなきれいで清楚なイメージのあるタイプを表面的な雰囲気、外見上のものだけで評価し、それを内面的な全ての評価に類推延長してしまいがちです。
人は表面的な雰囲気、外見上のものだけで評価し、それを内面的な全ての評価に類推延長してしまいがちになり、それによってさらに表面的なものの価値が爆上がりしてしまうのかもしれません。
人は本能的に種の保存のために美しいもの、かわいいものを選び・慈しむ性質があります。
そららのものが健康・生命力を表現・裏打ちしているものと捉えているからです。
では、これらの本能的欲求などによって生み出される外見(容姿)と中見(内面)の剥離はどうすればなくなるのでしょうか?
遠い未来のハイパー科学力で、好みの容姿・外見を自由自在にセレクトできるような時代が来て、かつ社会利益・公益に沿った充実した客観的評価システムの下で貢献度の高い者ほど優先してセレクトできるような環境下でなければ、完全になくすことはまず無理の様な気がします。
現在の世界においては、レアケースとして(突然変異的な名君のように)、美男美女であっても特殊な環境(社会的・経済的など困難な)下で精神的向上などが健全に育まれた場合にのみ、その度合が緩和されるぐらいなのかもしれません。