宗教にとって一番人類の幸福度に影響してくる要素として客観性の問題があります。
キリスト教にしても、仏教にしても、原初の教義・教えはとても素晴らしいものです。
イエスもブッダも、 最も身分の卑しいとされている人々に対しても分け隔てなく接しています。
しかし、歴史的に見るとカトリック教圏では階級制がより徹底されています。
カトリックでは、管理・運営において、教えを全てローマ教皇の主観的な判断に委ねられています。
教皇の無謬性、間違いはない、全て正しいという考え方もそれを表しています。
多数の人々の主観的な考えが交差し、修正し、補填し合うことによって、客観性が構成されます。
カラマ・スッタでのブッダの言葉でも『人から聞いたというだけの理由で信じてはいけない。何事も教師や司祭の権限だけの理由で信じてはいけない。ただ、よく吟味・熟考した上で、理性と経験によって、承認できること・良いこと・自他共にまた世界全体に恩恵をもたらすことを真実であると受け入れ、その真実に則ってあなたの人生を送りなさい。』というものがあります。
他人に自分の考えを委ねてしまうことは、悩みや葛藤から解放され、極めて楽になれるということと集団に所属し、一体感や安心・安堵感を感じたいという集団欲の要素から、常に全ての人々への強い誘惑として存在しています。
環境が劣悪で、苦しみが大きいほど、その誘惑は巨大になってきます。
しかし、皆がそれに呑まれてしまうと、歴史的に、人類にとって大きな不幸を生みます。
それが西欧における暗黒時代であり、似た事象として、衆愚政治からのヒトラーなどの独裁政治があります。
ヒトラーの言葉として『弱い男 を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりもより支配者を愛して、自由を与えられるよりも、どのような敵対者にも容赦しない教義の方に、内心でははるかに満足を感じている。』というものがあります。まさに、これらの集団欲などを悪辣に利用するために解釈された考え方です。
我々は決してこのような誘惑に捕らえられてはいけません。
どんなに苛酷で、苦境であっても、先述したブッダのカラマ・スッタの言葉を胸に刻まなければなりません。
一人一人の経験と理性の下に吟味・熟考した意思や考え方が交差し、修正し、補填し合うことによって、初めて客観性が生まれます。
一人一人の個人の自由意志を捨ててしまうと、一部の人々の主観性と裁量による支配に陥ってしまいます。
しかし、古代・中世において、カトリックや仏教を含めほとんどの宗教は、既存支配階級と深く繋がり、イエスやブッダの本来の教えから離れるところか、対極にあるような所業も多く残しています。
その中で、客観性の要素のある宗教としてのプロテスタントの登場は極めて画期的な出来事でした。
スタートした教義的にどんなに素晴らしくても、管理的に主観性の要素が強ければ、グループ主義的に、つまり公(おおやけ)に反する形に変質してしまいます。
カルバニズムには、救いという命題において、他のほとんどの宗教が持っている主観的・裁量的要素のない特異的形態を保有しています。
なぜなら、予定説の考え方としては、もうそれは既に決まってしまっているからです。
他の宗教が救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきたのに対して、プロテスタントでは、原初キリスト教の教えに沿って、神の下での平等を主張し、カトリックのような身分制を否定して、信徒は皆平等で、教会聖職者を信徒の上位に置きませんでした。
また救済の証として、神から与えられた天職における世俗的労働に邁進して得た業績と収益が捉えられるようになりましたが、それはカトリックの教会指導者による人々の救われる基準の主観的裁量による決定よりも、極めて客観性のあるものでした。
現代においても、民主主義指数が高く、経済的に先進国である国家にはプロテスタントの信者が多い国が多く、カトリックの信者の多い国は対して、指数が低くく、麻薬カルテルやマフィアが蔓延り、腐敗が強い傾向にあるのもそのためです。
しかし、予定説の捉え方によっては人種差別が肯定されるようになるという欠点も生まれてきます。
カトリックのように、全く好きなように聖書を無視して、教会上層部の利益に沿う形でのグループ主義的に教義を決めるよりはましではありましたが、聖書の解釈においては主観的裁量の要素がグループ主義的に働いてしまいます。
また、客観性の要素を生み出した 救いの証としての経済的な業績・利益についても、それが持つプラス面とマイナス面があり、それについては資本主義と植民地問題として、後で説明して行きます。
宗教の教え自体は概ね、グループ主義を惹きしませんが、救われる基準の判断の主観性・客観性の問題はグループ主義を生み出すかどうかに大きく影響を及ぼします。
救済の判断などの宗教における管理をする対象の規模がミクロからマクロへと大きくなるにつれて、どうしても主観的・裁量的要素が大きくなります。
国内においては、どの宗教・民族に対しても寛容的であったプロテスタントが規模が国内を超えて、大きくなり、世界的になるにおいては、植民地支配に都合のいい、グループ主義的な予定説の解釈によって人種差別が肯定され、カトリック国と同様に残虐的な搾取がなされました。
どの宗教も基本的に自己犠牲や奉仕を主とした教義が多いですが、社会を改革するスタート時には++(プラスプラス)になるシステムがないため、改革が先ず着手されるには、それらの-+(マイナスプラス)的自己犠牲の要素が必要不可欠となります。
しかし、一時期的・部分的なものならともかく永続的・全体的なものになると、階級的・奴隷制的システムに移行してしまったり、本音と建前の二面性から逆にモラルが崩壊し、欺瞞が蔓延してしまうリスクが極めて高くなります。
政教一致を実施している国を歴史的に遡って、現代も含めて検証すると、政教分離の国に比較して、内外ともに紛争が絶えないことを見ても分かります。
プロテスタント国やその国々と地理的・経済的に密接な国に民主主義指数が高く、先進国が多く、それ以外の国でそれに次いで、民主主義指数が高く、先進国が多い国として大乗仏教の国があるのも(詳しくはこちらをクリック)、宗教にとって一番人類の幸福度に影響してくる要素が客観性の問題であることを裏付けるものです。
しかし大乗仏教の国でも、儒教の要素が強いと、平等思想に儒教の人治主義、他人に考えは任せる慣習が加わって、共産主義に移行したり、教義が非公開で主観的要素が濃くなる密教の要素が強いと、途上国的特色も併せ持つ形になります。
これはプロテスタントが波及せず、カトリックと同じように聖職者と信徒の関係がヒエラルキー的なギリシャ正教が国教のロシアが民主革命に失敗し、共産党独裁になってしまったことと類似しています。
ギリシャ正教を信仰している東ヨーロッパ諸国がロシアと同じように一度は共産党化し、それを脱した後でも民主主義指数が西欧諸国に比べて低く、先進国が少ないのも同様です。
東ヨーロッパ諸国以上にロシアの脅威を受ける位置にあるプロテスタント国であるフィンランドは他の隣接国と比べ、例外的に民主主義指数が高く、先進国であることを見ても、東ヨーロッパ諸国の共産党化やその後も西欧諸国に対して民主主義指数や先進度が低いことはロシアの影響・圧力以上に宗教的問題が大きく関わっていることが見て取れます。
宗教にとって一番人類の幸福度に影響してくる要素として客観性の問題がどうしてもクローズアップされてきます。
神に委ねるのでなく、他人に考えを委ねてしまうと一部の人々の主観性と裁量が支配してしまうことになります。
それぞれが独立した考えが多数交わることによって、客観性が成立します。
宗教であれ、政治であれ、他人に考えを委ねてしまう慣習が成立することによって、中世の暗黒時代や衆愚政治からの独裁のような負の産物が作られてしまいます。
どの宗教を信仰するにしても、ブッダのカラマスッタでの教えにあることが何よりも大切であることがわかります。
しかし、人は集団欲によって、思考回路を他者に委ねてしまう傾向にあります。その方が楽でもあり、恍惚感が感じられるようにもなります。
集団と集団が距離を保つ原始時代、強暴で獰猛な他種生物との生存競争には適したものであり、人類の歴史において、その期間が圧倒的に永かったために、その遺伝子に根強く刻印されているのは当然でもあります。
しかし、人類が他種生物との生存競争に打ち勝ち、集団と集団の距離が密接、もしくはなくなり、同種間内の生存競争に変化し、多数の集落が融合した社会、公(おおやけ)というものが成立した時、その作用が害になるリスクは極めて高くなります。
他者の意見を聞くことは大事なことではありますが、完全に委ねて依存してしまうことは、人の意見を全く聞かず、自分の考えだけで行動することと同様に主観的な行動と言えます。
しかし、 逆境になればなるほど、困難になればなるほど、人はその誘惑に打ち勝つことが難しくなります。
教義的にどんなに素晴らしいものであっても、その組織の管理が主観的なものであれば、変質し、実際の作用は別物となってしまいます。
特にミクロからマクロになるにつれて、そのリスクは増大していきます。
グループ主義の鉄則によって、たとえ少数であっても、公益でなく一部のグループの利益を主としたグループ形成ができると、オセロゲームのように、全て善悪がひっくり返ってしまい、それに反するものは中心から外されたり、組織を追い出されたり迫害を受けてしまいます。
規模が大きくなればなるほど、それらが発生する確率は当然高いものとなります。
ローマ教皇を仰ぎ、聖書以上に教皇を中心とした上層部グループの主観的な判断に依存し、一つの巨大な利権団体になったカトリックに比較して、他者ではなく聖書という客観性のあるもののそれぞれの多様性のある解釈によって限りなく分裂を繰り返し、色々な考え方を持つ教派に分裂したプロテスタントを見ても、リスクの大きさの違いを見て取れます。
グループ主義的・カルト的なものが出現しても、プロテスタントでは一部の教派の問題となりますが、カトリックではそれが全体に波及してしまうリスクが高い状態で常に存在することになります。
教え・教義の問題以上に、管理の問題における客観性の有無や組織の意思形成する単位規模の大小によって、幸福を生み出すか、不幸を生み出すか変わってくるということです。