プーチンやヒトラーとリー・クアンユー同じ独裁者でも評価や結末が全く異なるのはなぜでしょうか?
これを独裁者の個性の問題として処理してしまうと問題の中核が見つからない結果となってしまいます。
プーチンやヒトラーが生み出された背景には極めて類似した社会環境下にあったことが、歴史的観点から見れば一目瞭然だからです。
ヒトラーが生み出されたワイマール共和国時代のドイツはヒトラーが首相になるまでの十数年の間、選挙や議会と連動しない形での十四人もの首相が変わる(ヒンデンブルク大統領によって)ような状態でした。
この間の立法は大統領緊急令が国会議決の立法の数をはるかに上回り、当然の様に民主主義から派生する結果的客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)が正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態(詳しくはこちらをクリック)の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、ナチスの台頭、ヒトラー内閣の成立に進展してしまいます。
プーチンが生み出されたエリツィン政権下のロシアでも選挙や議会と連動しない形での首相の頻繫な交代劇(エリツィン大統領による)が見られ、全く同様に民主主義から派生する結果的客観的評価システムが正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、プーチンの台頭、プーチン政権の成立に進展してしまいます。
これは戦前の日本の憲政の常道期においても、選挙や議会と連動しない形での首相の頻繫な交代劇(元老による)が見られ、同様に民主主義から派生する結果的客観的評価システムが正常に機能しない、中途半端な民主主義のために❸の政府形態の内紛が著しい不安定な政情中、❷の政府形態、つまり独裁の方向性、軍部の台頭、大政翼賛体制の成立に進展してしまいます。
民主主義は何も付加がなければ、衆愚政治・金権政治に極めてなりやすい傾向にあります。
民主主義から派生する結果的客観的評価システムが無ければ、民主主義の欠点、金権政治・衆愚政治だけがクローズアップされ、民主主義は行き詰まる傾向にあるということです。評価する内容、選択する内容がなければ、必然的に衆愚政治にならざる得ないということです。
選挙に行っても、候補者の所属政党の実績、政策、候補者の政治知識、議会でどのような働きを果たしたのかなどが詳しく分からないと、自らの利権に直結する人物に入れるか、主観的なイメージ・人気・知名度なので入れるしかなくなるからです。
かろうじて政権党が行なってきた政治を評価基準に置くことによって、与党系の議員に入れるのか、野党系の議員に入れるのか考慮の上で判断できるのです。
評価基準がないと必然的に民主主義が行き詰まり、国民の信頼が民主主義から完全に失われて、独裁政治へと移行してしまうのです。(詳しくはこちらをクリック)
しかし、独裁国家で在っても(つまり民主主義から派生する結果的客観的評価システムが無くとも)
他の客観的評価システムを整備することによって、国家を順調に発展させている国家があります。
それが、リー・クアンユーの指揮の下、経済的最先進国に成長したシンガポール(詳しくはこちらをクリック)です。
客観的評価システムを整備することが国家の発展にとって極めて重要なことは古代ローマをモチーフにしてもわかります。
共和政時代のローマは民主主義から派生する結果的客観的評価システムの伴わない民主制の特徴(❸の政府形態)を持っていました。
つまり、貴族などによるグループ主義が席捲しやすい状態でした。
その動きを平民階級が身分闘争による法改正(リキニウス・セクスティウス法やホルテンシウス法など)により対応・封じ込めることによって、それらの問題をクリアし、拡大していきました。
しかし、それが可能であったのは平民である自由農民がローマ軍の中核を成し、発言権を確保できていたからです。
共和制ローマの規模が都市国家のものをはるかに超えるようになると、つまりローマがイタリア半島の統一を成し遂げ、ポエニ戦争で数々の属州を得ると、貴族階級の力は以前と比べられない程の増大を見せます。
貴族化、利権化した総督職は収奪が主な役割となり、凄まじい収奪から、属州になった地域の多くで数十年後には人口を1/10ほどに減少するような事態も起こってしまいました。
従属した都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とし、少数の有力政治家の収入と財産が国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存するようになりました。
一方、ローマ軍の中核を成し、ローマを支え続けてきた自由農民は増大・長期化した遠征による経済的・身体的な負担や属州から莫大な安価な農作物の流入により急激に没落していきます。
自由農民の没落を救うために農地法を制定しようとしたグラックス兄弟も貴族階級により命を落とし、改革は失敗に終わります。
巨大化した貴族階級、グループ主義の力が席捲し、国内問題が解決されず、深刻化したため、その後ローマは内乱の一世紀といわれる混迷の時代を迎えます。
その汚職や暴力が横行し、内部崩壊寸前であった内乱の一世紀の時代を終わらせたのはカエサルとその後継者であるアウグストゥスです。
カエサルはグラックス兄弟が失敗した農地法を実行させ、後継者アウグストゥスはその寛容の精神を引き継ぎ、敵国であった属州民であってもローマに貢献した者たち、例えば水道工事や建物の建設に携わる専門家集団の奴隷を一挙に解放し、市民を飛び越えて、騎士の階級まで与えています。
ローマ市民権は投票権・拷問されない権利・裁判権・人頭税や属州民税の免除など様々な特権があり、ローマ市民であれば財産はなくても食べるに困らず、娯楽も無料で提供されるというものでした。
一般的な属州民がローマ市民権を獲得する方法として、補助兵に志願し25年間兵役を勤めるという結果的客観的評価システムがあり、この方法でローマ市民になるものは毎年 1万人にもなりました。
実質的初代皇帝となったアウグストゥスによって定められたこのシステムは、共和政ローマ時代のポエニ戦争後の、ローマアイデンティティの元に一体化した紐帯の時代に導きます。
ローマアイデンティティはローマ市民権のシステムと同化政策を可能とする寛容の精神によって支えられていました。
ローマの司政官は征服地を統治するのに軍事力の力をほとんど必要としませんでした。
征服された民は、ローマという単一の偉大な民族に溶け込んでおり、独立を取り戻すべく具体的に算段することはおろか、夢に見ることさえやめてしまうからです。
そして彼らは自分たちがローマ人以外の何者かであると考えることさえなくなるのです。
ローマは一度倒した敵国との関係を良好なものにするために、敵国のエリートに市民権を与え、また
かってカエサルをアレンシアで包囲して苦しめたゴール人の孫が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになり、彼らゴール人の野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになって行くのです。人種や出身地に関係なく、出世が可能で奴隷➡解放奴隷➡市民➡騎士階級➡元老院➡皇帝と運と才幹次第ではどんどん伸し上がれる当時ではかなり流動的な身分制でした。
カエサルとその後継者であるアウグストゥスによって❸の政府形態❷の政府形態に移行したローマ帝国は古代・中世の時代において最大の繁栄を築き上げていきました。
その後、古代・中世の時代においては、ローマ帝国ほどの繁栄を示す国は現れませんでした。
経済規模の指標となる銀の産出量の比較にしても、古代ローマが最も繁栄した五賢帝時代の1世紀に最大になり、その後減少していき、1世紀と同じ数字に戻るのは近代の18世紀半ばになってからになります。
そのローマ帝国が衰退したきっかけの鍵も客観的評価システムにありました。
3世紀初期にカラカラ帝が全属州の自由民にローマ市民権を与えるというアントニヌス勅令によってその客観的評価システムを事実上に無力化してしまいます。
一見するとヒューマニスティックな政策に思われますが、特権の一つであった属州税の免除が全ての属州民に広がったことから、重要な財源であった属州税が事実上消滅してしまいました。
その収入を補う方法としてカラカラ帝は貨幣の改鋳を行い、銀含有率を急激に下げていきます。
しかし、その結果インフレが著しく起こり、貨幣の信用がなくなり、貨幣経済が衰退、交易活動が阻害され、物々交換が増えました。
交易縮小の物資不足から灌漑や排水など設備は放棄され、その結果、耕地面積が減少し、また工業も衰退しました。
誰もが自給自足でやっていけるように努めて、自家生産はかってないほど増えて、その結果、頻繁に飢饉に襲われました。
しかし、アントニヌス勅令の負の作用はこれらに留まらず、より大きな影響を及ぼしたのは、ローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティを衰退させたことでした。
ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。
誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。
また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。
しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。
その後、ローマ帝国は三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝時代に入ります。
この時代は、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。
三世紀の危機をデオクレティアヌス帝によってローマは脱しますが、彼の方法は、ローマ市民権という特権を全自由民に広げたことから起点した財政悪化からのインフレを社会主義的な物価統制によって力ずくで押さえ込もうとするものでした。
安定は長く続かず、ローマの紐帯が失われた中では、寛容政策が人種差別、隔離的なものに、そしてローマに忠実だった他民族の人々は敵対勢力に変じ、ローマは崩壊の道を進んでいきます。
客観的評価システムの役割を考察するには、集団欲とそれを制御する客観的評価システムというものが人類社会にどう深く影響を与えていくかを、人類の成り立ちから遡って見て行く必要があります。
鋭い牙も爪も持たない人類が他の大型獣に打ち勝って生存できたのは、集団を形成することで初めて獰猛で強靭な獣と拮抗し、凌駕する術を得たからで、その本能として集団欲が深く根付きました。
人類は肉食獣的な個々もしくは一家族を単位とするよりも、草食獣的な集団を単位として生存競争を潜り抜けて社会的動物であり、集団や群れこそ実態とも言えます。
外部に攻撃対象を置くことによって、集団は内部の結束を強めます。内部の結束を強めることでさらに外部への攻撃は強くなります。この循環を繰り返し、集団はより強固なものとなっていきます。
しかし、これらが原始時代の肉食獣など他の動物に対して発動するのならともかく、人類が長い期間をかけてこれらの敵に対してほぼ克服し、もしくは生存において優位な立場になった時、つまり人類の人口が大幅に増え、他の多数の動物の中の孤立した集団ではなく、人間同士の集団が接し合うようになると、人類の集団の攻撃対象は人類の集団同士になってしまいます。
人類の集団同士の争いの中、集団は村を、村は小国をそして公(おおやけ)としての国を形成していきます。
国を支配する一族やグループは当然、特権や利益を得又差配する権限を所有することになります。これらは主に武力によって獲得されたもので当然に他の別グループによって同様に武力によって覆すことも可能となります。
実際にそうやって長い間中国は王朝と王朝の間に何百年という内乱の時代を必然のように含有し、王朝時代期間内にも常に政権内の武力的な紛争を抱え込んで行きます。
グループ同士、集団同士の争いは当然に公(おおやけ)としての国の力を落とし、属する個の人々の不幸に直結します。
内乱の時代は人口が激減します。生存するのが極めて困難な悲惨な社会となります。
つまり、原始時代のように人口が少数でそれぞれ孤立した集団しかない時ならともかく、人口が増加して多数の集団が融合した公(おおやけ)が構築されると公(おおやけ)内の 利権を巡って、しかも公(おおやけ)全体の公益を蔑ろにしながら、集団同士が争う傾向が非常に強くなります。
これをを避けるためには、公益と個また公益と集団を直接リンクさせる特別な仕組みが必然となります。
その仕組みがないと 、人類の歴史上、極めて長期間生存本能として強く機能し、実際他の肉食獣に対して有効に役目を果たしてきた集団欲が、原始時代を脱した時代においては、個と集団を密接にリンクさせ、公と個、公と集団のリンクを蔑ろにしてしまう結果となってしまいます。
その仕組みが客観的評価システムというものになります 。客観的評価システムというものには、公と個・集団それぞれと直接リンクさせていく働きがあるからです。
同じ独裁者であってもこの客観的評価システムを社会にどれだけ量・質ともに十分に構築・整備できるかどうかでその評価は全く変わってきます。
プーチンやヒトラーは客観的評価システムが十分に構築・整備できず、リー・クアンユーやアウグストゥスは当時の周囲の環境と比較して、客観的評価システムが十分に構築・整備できたため、歴史的評価や実際的な結末が全く別のものとなっているのです。