ソ連影響下の周辺国が共産主義化しているな中でなぜフィンランドだけ免れることができたのでしょうか?🙄

この謎を解くには先ず、共産主義の成立過程を考察していく必要があります❗

共産主義ユダヤ人と密接関連していると言われていますが、実際に共産主義の生みの親といわれるカール・マルクス、ロシア革命におけるレーニンやトロツキー、ドイツ革命におけるローザ・ルクセンブルク、ハンガリー革命におけるクン・ベーラなど共産主義の思想家や指導者の多くはユダヤ人家系であり、ロシア革命に至ってはロシアの人口のわずか数パーセントしかいないユダヤ人が共産主義革命政府幹部のほとんどを占める状態でした。マルクスの画像

またアメリカ共産党発足時点の党員の7割はアメリカ国籍を持たない外国人、とりわけ 東欧系ユダヤ人でした。

なぜ、このような現象が起きるのか?

それはユダヤ教の特質にあります。

ユダヤ教は選民思想、排他的要素が強く、ユダヤ教の聖典タルムードにはユダヤ人のみ人間、異邦人は動物とみなすような記述もあります。

また宗教指導者のラビの教え絶対とし、ユダヤ人は各地に自足的な共同体社会を存立してきました。

ディアスポラと言われるユダヤ人の共同社会はその名の由来通り、撒き散らされたような状態で、他の国家や民族の中で、囲まれて点在していました。

排他的要素が強く、異邦人を動物と捉えるユダヤ人たちの世界は、まさに原始時代において、人類が強暴で獰猛な他種生物に囲まれて、集団と集団が距離を保ちながら、他種生物との生存競争に明け暮れていたような状態と言えます。

選民意識が強く、排他的要素が強ければ、少数民族であることも加わると当然の帰結として、他民族からの激しい迫害を各地で受ける傾向にあります。

実際、ユダヤ人はヨーロッパなど世界各地のほとんどで迫害の歴史を歩んで行きます。

つまり、原始時代において、人類が強暴で獰猛な他種生物に囲まれている状態の様に、ユダヤ人達も周囲に強暴で獰猛な他民族に囲まれている状態であったと言えます。

人類が集団化して、他種生物に対抗して、打ち勝ったようにユダヤ人達も他民族からの迫害からの対抗処置として、自然の流れで集団化していくことになります。

原始時代の人類が外敵に対抗するために様々な道具や知識を武器にしたように、ユダヤ人達は何よりも学問を重視し、タルムードにも多くの処世術的な要素が含められ、また金融業以外の職種が制限されていたことも相まって、学問・知識・金銭的富など武器にしていきます。

それらの武器が有効に作用される時代、学問や知識が評価される大学制度にリンクした条件的客観的評価システムであるメリットシステムの整備や金銭的富が最重要視される資本主義社会が発達する近代になって、ユダヤ人の顕著な活躍が始まります。

資本主義社会が特に発達し、それぞれ世界の覇権国となるオランダイギリスアメリにおいては、特にその傾向にありました。

近代のオランダにおいては、寛容の精神の下、迫害は少なく、ユダヤ人社会繁栄していきます。

世界初の株式会社であるオランダ東インド会社の株式の名義は1/4はユダヤ人でありました。

世界金融の中心地となっていたオランダのアムステルダムの 全人口の1%強に過ぎなかったユダヤ人共同体は経済的・文化的繁栄を築いていきます。

ウィレム 3世の時代に世界金融の中心地がアムステルダムからイギリスのロンドンに移っていくに従って、ユダヤ人のコミュニティの中心もイギリスに移っていきます。

産業革命・資本主義が発展する18世紀イギリスにおいて、イギリスに居住するユダヤ人の数は激増し、19世紀にはユダヤ人の国会議員やユダヤ出身の首相も誕生し、大蔵省や外務省などの官庁にもかなりの数のユダヤ人官僚が在籍するなど、当時のヨーロッパ各国の中では、イギリスは最もユダヤ人寛容な国となりました。

20世紀になるとアメリカに流れ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツの大虐殺から逃れてきたユダヤ移民なども加わり、戦中に世界一のユダヤ人社会にアメリカはなりましたが、特にドイツ系ユダヤ人科学者が多く、これによってアメリカのアカデミズムはユダヤ人聖域と化しました。

1901年から1939年までの38年間に自然科学分野でノーベル賞を受けたアメリカ人の数はわずか14人だったものが、1943年から1955年までの13年間、つまりドイツ系ユダヤ人達がアメリカへ逃げてからは自然科学分野でノーベル賞を受けたアメリカ人は29人にものぼりました。

ドイツでは、逆の現象が起き、最初の38年間は35人の受賞者を出しましたが、次の13年間はたった5人でした。

ユダヤ人最も知的な民族集団とされ、民族別知能指数では最も高く、21世紀初頭において世界人口0.2%しかいない状況でノーベル賞の20%、フィールズ賞の30%を占めています。ユダヤ人の画像

アメリカ社会でのユダヤ人の社会的地位の向上も目を見張るものがあり、全人口の2%に過ぎない中、上下両議員の1割近い議席を得て、全米資産家ランキング上位50人のうち1/3、一流大学のハーバード大学の学生の1/4をユダヤ系が占めていました。

この様なオランダ・イギリス・アメリカにおけるユダヤ人と国家のお互いに寄与する ++(プラスプラス)の状態ワイマール共和国・ナチス時代のドイツとの真逆の状態とどう違うのか?それを検証して行きます。

当時のドイツにおいても、プロイセン時代の伝統である宗教的寛容によって、ユダヤ人社会が発達し、第二次世界大戦後のアメリカの様に、人口割合をはるかに超える割合で、大学教授、医師、法律家、教師などを占めて、世界的活躍貢献を国家に対して、ユダヤ人は果たしていました。

その+(プラス)的状況を大きく-(マイナス)に転化していく作用をもたらしたのは共産主義の誕生です。

共産主義が生み出された要因の一つは確かにユダヤ共同社会の要素があります。

しかし、それだけではなく、さらに平等思想他決思想の要素の要因もあります。

他決思想は他者に考え・判断を委ねるもので、反対に自分自身で判断していくのが自決思想です。

万人祭司の考え方からプロテスタントは自決思想と言え、教皇無謬説のカトリックなど大体の宗教は他決思想と言えます。

民主革命の流れによる自由・平等思想の普及とドイツのユダヤ人社会の発達、プロテスタントだけでなく、共産主義の生みの親と言われるマルクスの育った ライン 地方の様に、他決思想のカトリックが強い地域も多く存在していたことから、共産主義は19世紀半ばにドイツにて発祥しました。

共産主義平等思想の共同社会を形成し、指導者層考えを委ねるもので、各地のユダヤ人思想家を中心に世界全体に大きな影響力が行史されていきます。

ドイツにおいても、極左勢力離脱後の穏健体制的社会民主党の代わりに、共産主義勢力反体制革命的行動を起こします。

しかし、共産主義革命が成立したケースには三つの共通項ユダヤ民族平等思想他決思想がありますが、ドイツにおいては統合前の中心国だったプロイセンの様に北部地方には多くのルター派プロテスタントが存在しており、領邦教会制のなごりで領邦君主など既存の体制に対して、改良的行動に出ても、反体制的な行動に出ないのがルター派プロテスタントの特徴で、新しい他決思想の支配に組みする可能性は少ないと言えます。

実際、共産主義の革命は民衆に受け入れられず、失敗に終わります。

東方のアジアに視点を移して見ると、ユダヤ人と同じ様に、移民を繰り返し、原住民との軋轢が多く、強固な結束力をもって共同体を形成している東洋のユダヤ人と言われる客家がまさに共産主義を成立させる要素の一つとなっています。

世界で最も早い時期に共産主義国家に近い形態を成したのが太平天国です。

太平天国は中国の清の時代末期に、アヘン戦争後、戦時賠償のための増税や銀の流出によるインフレなどにより、民衆の生活が圧迫され、暴動が頻発し、国力が著しく衰退している中で、反清朝の反乱により樹立された南京を首都とした武装的自治組織です。

指導者である洪秀全をはじめとして、主要幹部のほとんどは客家出身であり、平等思想を下に天朝田畝制度を発布し、私有財産を廃止して土地を公平に分配し、生産を集団化し、消費財を共有し、官僚制度の中央集権化を目指しました。

支配層の腐敗・内紛・欧米列強の介入によって滅びましたが、その後、同様の政府形態を構築していった中国共産党においても、客家との強い関連性を見ることができます。

国民党との内戦によって10万人の兵力を2000人になるまで減らした長征において、それを支えたのが客家系住民であって、その経路は奇しくも太平天国の逃走経路と一致し、客家人の移住区にも相当しました。

同地域に居住する苗族などとは対立したのに対して、客家系住民からは支援と人材の供給もされ、2000人のうち1/5が客家人が占め、朱徳、葉剣英、鄧小平などは、その後の中国共産党の中心になっていきます。

またマレーシアにおける紛争において、マラヤ共産党は20世紀終わりに武闘放棄を宣言していますが、その時の共産党兵士800人のうち実に500人が客家人でもありました。

ユダヤ人と同様、強固にお互いを問答無用で支援し合う共同体を形成する少数民族である客家は中国の総人口数%にも満たない状況で、外では械闘という他民族との戦闘・対立を繰り返しながら、中では平等感と連帯感を持って強く団結し、公嘗という一族共有の公産を遺産の寄付などによって所有し、祖先の祭りや師弟の教育など一族全体のために使用し、こうした教育がさらに子弟の一族への帰属意識を強くし、固い団結を支えていきます。

この共産主義国家をミクロ化したような共同社会を持つ客家の存在は共産主義国家の誕生と必然的に深く繋がっていきます。

西方のヨーロッパにおいては、共産主義国家が成立する三つの共通項ユダヤ民族平等思想他決思想がありましたが、東方のアジアにおいても同様に客家平等思想他決思想三つの共通項を見出すことができます。

中国・ベトナム・北朝鮮これらの共産主義国家が成立した国々の共通項として、平等思想の大乗仏教人治主義で他決思想の強い儒教客家の強い影響力を挙げることができます。

ユダヤ民族にしても、客家にしても、ディアスポラつまり、撒き散らされたような分散・点在した状態においては社会と++(プラスプラス)の関係を築けるのが、集団化したり、点が線になり面になり大きな閥を形成するようになると、一転してマイナスの作用を強く発現するようになります。

共産主義国家の形成がまさにそれに相当します

共産主義国家結果の平等を原則とするため、客観的評価システムがほとんど機能しない体制で、指導部に考えを委ねる他決思想の下、指導部の主観的裁量によって政治が実施されるため、必然的に癒着・腐敗・内紛極めて起こりやすい状態となります。

太平天国にしても、表面的な高い平等主義の理想とかけ離れて、実際の内情は指導者層が特権階層化し、周囲には男女の交際を禁止しながら、洪秀全をはじめとする幹部は多くの側女を抱え、天朝田畝制度も実行までには至らず、天京事変など指導者同士の内紛が激しく、衰退・崩壊していきました。

共産主義国家において腐敗・内紛代名詞とも言えます。

ただイスラエル国家の中でキブツという数百人から千人程の小規模の共有財産を主とした共同社会が数百程、ディアスポラ的に点在していますが、その中では比較的問題が少なく、人材面でも生産面でも人口比率以上の多大の貢献を果たしています。

こうしてユダヤ民族や客家の姿を通して見ていくと、グループ主義集団欲の作用短所と長所を再確認することができます。

原始時代のようにディアスポラ的小集団である時は、グループ主義集団欲は体格的に貧弱な人類が獰猛で強靭な他種大型動物に打ち勝ったように+(プラス)に働きますが、打ち勝った後、人口が増大し、集落が巨大化したり、多くできると、逆にそれらが腐敗・紛争の元凶となり、-(マイナス)に作用してしまいます。

これはまさにユダヤ人や客家などの排他的・点在的共同社会を形成する民族にそのまま当て嵌まります

ディアスポラ的状態であれば、共同体が育む優れた教育水準によって供給される優れた人材などによって社会に多大な利益がもたらされるのに対して、集団化してミクロ的共同社会をマクロ的なものに延長させようとしたり、ディアスポラ的なものを繋げて強固な閥を形成した時、つまり共産主義国家のような状態がもたらされた時、社会は大きなマイナスを被る可能性があります。

近代のドイツにおいて、ユダヤ人が活躍していった要因は大きく二つありますが、一つはメリットシステムに伴う教育された人材の重視です。

もう一つはルター派教徒が多いながら、上層部をはじめとして一部にカルバン派が存在していたことからの資本主義社会の急激な発達により、金融業に強いユダヤ人の影響力が強くなったことです。

教育を司どる大学などや思想的な分野で共産主義的ユダヤ人の活躍の増加、経済的・社会的地位においても上層部の多くをユダヤ人が占める状態を第1次世界大戦前の旧支配者層である軍を中心としたグループ主義が利用したことが発端で、ワイマール共和国・ナチス時代におけるドイツ国家とユダヤ人の関係が悪化していきます。

第1次世界大戦において、元々ドイツには勝機が極めてない状態まで追い込まれていながら、旧支配者層の中心にいたヒンデンブルクの背後の一突きという責任をドイツ革命における共産主義者に転化するデマ的発言によって、実際には大戦におけるユダヤ人の多くは軍に誠実に勇敢に戦い貢献したという事実があったにも関わらず、共産主義者にユダヤ人が多かったことから、敗戦の責任をユダヤ人全体に押し付けていきます。

ワイマール共和国で最も著名なユダヤ人政治家の一人で、ドイツのゼネラルエレクトリック社の社長を経て外相となったラーテナウも反ユダヤ主義の過激派に暗殺されました。

ユダヤ人が共産主義国家の一因となっていたことは確かですが、それは共同社会という要素が本因であり、その形態を取るのは客家など他にもあります。

また、それだけでは成立せず、他決思想なども必要となります。

共同社会形態を取ることには+-(プラスマイナス)両面があります。

長所と短所は表裏一体であるようにです。

問題は運悪く、マイナスとマイナスが交わった時、大きなマイナスが生み出されただけで、ユダヤ民族に全ての責任を押し付けることは理不尽(クリックでexplainにリンクします)であり、プラス面として多くの優れた人材を世界各地に供給してきたことは周知されてきたことで、マイナス面だけデフォルメされるべきではありませ

 ドイツで最もユダヤ人が多いプロイセン王国がドイツ統一の中心になったのも、第二次世界大戦後アメリカの超大国としての地位を不動にしたのも、そして遡って中世においてポーランドをヨーロッパ最大領土国家になるまでに繁栄させたのもユダヤ共同体の教育が生み出す優れた人材が大きく寄与しています。

北フランスでは、中世の時代から領主からの反乱で誓約共同体が結ばれて、国王特許状により自治権を確立した歴史があり、共同体のコミューンという概念フランス革命の推進に大きな役割を果たしました。

実際的に、革命派は平等主義の北フランスを根拠地として、反対に王党派南フランスを根拠地としました。

欧米で広がる民主主義の波からの平等思想、大半がカトリック信徒であることからの他決思想、そして共同体のコミューンの存在によって、フランス革命は民主主義の概念の中でも平等主義が優先される共産主義的な方向性に傾いていきます。

ジャコバン独裁や共産主義の先駆とされるバブーフのネオ・ジャコバンなどです。

つまり、共産主義の要因ユダヤ民族というよりも共同社会にあります。

共同社会は、規模などの違いによってプラスマイナスの作用が大きく変わってくる、長所面と短所面を表裏一体に併せ持ったものです。

言い換えると、集団化・グループ形成プラス面とマイナス面の存在に行き着きます。

ドイツにおいても、民主主義の波からの平等思想・カトリックの他決思想ユダヤ共同体の三つの要素が揃っていましたが、カトリックと同数の自決思想のプロテスタント教徒の存在、メリットシステムによって強固になっていた前支配者の軍組織を中心としたグループ主義の影響力により、共産主義の脅威に曝されながらも、かろうじて共産主義国家の成立には至りませんでした。

これは、共同体の要素がユダヤ共同体程には強くなかった革命後のフランスにおいても同様に、共産主義の脅威に曝されながらも、その国家成立はしませんでした。

ロシア・東ヨーロッパなどのギリシャ正教カトリック教徒つまり、他決思想である国家共産主義化がされてる一方で、フィンランドの様にロシアに強い干渉を受ける環境下にありながらルター派プロテスタントが大半を占める自決思想の強い国家においても共産主義化はされませんでした。

 

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