宋教仁と北一輝 この唯一無二の親友同士はそれぞれが両方民主主義国家を目指しました。 二人の壮絶な努力・熱意・情熱・献身に関わらず、日中両国ともに民主主義は根付きませんでした。(日本はその後、時間差で北の播いた種が戦後民主主義として花開きましたが)
それはなぜか? 他決思想にその原因を見ることができます。
他決思想は他者に考え・判断を委ねるもので、反対に自分自身で判断していくのが自決思想です。
万人祭司の考え方からプロテスタントは自決思想と言え、教皇無謬説のカトリックなど大体の宗教は他決思想と言えます。
ケネディ大統領が就任演説で「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」と述べたましたが、この言葉はまさに自決思想を指しています。
違う表現としては、カラマ・スッタでのブッダの言葉で『人から聞いたというだけの理由で信じてはいけない。何事も教師や司祭の権限だけの理由で信じてはいけない。ただ、よく吟味・熟考した上で、理性と経験によって、承認できること・良いこと・自他共にまた世界全体に恩恵をもたらすことを真実であると受け入れ、その真実に則ってあなたの人生を送りなさい。』というものもあります。
この自決思想は安定した民主主義を構築するためには極めて大事な鍵となる要素となっています。
しかし、現在の世界の状況ではなかなかこの自決思想が根付いて、成熟・安定した民主主義国家(民主主義指数の高い国家)を構築できているのは、プロテスタント国家にほぼ限られています。
シンガポールのリー・クアンユーが人民行動党の独裁の批判に対する反論の弁としての『欧米流の民主主義ではアジアの国々は崩壊してしまうため、ある程度の独裁はやむを得ない』という論理もある程度的を得たものと言えます。
プロテスタント国家の様に自決思想が強い状態でもなく、他のアジアの国々同様にプロテスタント以外の宗教つまり、他決思想的な宗教の影響下にあるため、自決思想の欠如から民主主義を導入しても、❶の政治形態(政治形態についての詳細はこちら)に到達できずにワイマール共和国時代のドイツ・憲政の常道期の日本・ソ連崩壊直後のロシアの様に、❸の政府形態により混乱と衰退の状態に陥ってしまうリスクが高かったと思われます。
リー・クアンユーらは感覚的にそれらのリスクを選択せず、つまり欧米流の民主主義を導入せずに、事実上の一党独裁による基本的には❷の政府形態の方式を選択して行きました。
その中で、欧米の民主主義国家とはまた違う形態 で客観的評価システムの整備(詳しくはこちら)がなされて行きました。
また、このプロテスタント以外の他の宗教の様に他決思想的の影響下においては、自決思想の欠如から、民主主義を導入しても、❶の政治形態に到達できずに❸の政府形態により混乱と衰退の状態に陥ってしまうシチュエーションに関しては、鄧小平の改革開放とゴルバチョフのペレストロイカの対比に於いても如実に実感することができます。
鄧小平の改革開放は共産党独裁を維持しつつ、市場経済を導入するというものですが、ほぼ同時期のゴルバチョフのペレストロイカが経済の自由化のみならず、、政治の自由化まで推し進められようとしていたのに対し、鄧小平の自由化は経済に限定されたものといえます。
しかし、ソ連そして後継のロシア連邦においては、❶の政治形態に達することができずに、民主主義や資本主義の欠点のみが作用することにより、❸の政府形態の中で、国益に相反する行為が著しい財閥支配が幅を利かす混乱と衰退の状態になったのに対して、中国においては、❷の政府形態をそのまま維持しながら、共産党の管理の下で資本主義を導入したことにより、❸の政府形態による混乱や財閥が政府を半分支配する様な状況にはなりませんでした。
この改革開放の時代に中国は世界の工場と呼ばれる程、経済が急成長し、二十一世紀初頭にはGDPで日本を抜き、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となります。
ペレストロイカの時代にはゴルバチョフは賞賛され、鄧小平の改革開放は路線は中途半端なものとして批判されましたが、そこから数十年の単位で見た国家の維持と繁栄という視点で見れば、鄧小平の選択はゴルバチョフを凌駕したとも言えます。
政治の自由化は❶の政治形態に達するためには必要不可欠なことですが、失敗すると❸の政府形態になり、大きく逆効果になってしまいます。
導入する前に、結果的客観的評価システムが定着するための土壌が必要となって来ます。
しかし、残念ながら当時のロシアには、近代におけるカルバン派諸国・ルター派諸国共通のプロテスタント国家特有の自決思想の土壌が整備されていませんでした。
元々キリスト教のギリシャ正教の信仰が主であり、その上で思考決定を指導部に委ねる他決思想の強い共産主義支配の時代が長かったため、土壌は他決思想の傾向が強いものだったと言えます。
ゴルバチョフはペレストロイカなどの民主化政策を導入して行きますが、旧体制の保守派のクーデターをきっかけに失脚し、急進改革派のエリツィンが実権を握り、ソ連は崩壊し、後継国としてロシア連邦が発足し、初代大統領にエリツィンが就任します。
エリツィン政権下では急速な市場経済・資本主義の導入が進められ、そのために資本主義経済の最大の欠点の一つといっていい財閥支配を急速に形成してしまいます。
それをセーブするべき安定した民主主義から派生する結果的客観的評価システムも、時間的問題に加え、制度的にも機能しにくい状態でした。
つまり、発足したばかりの民主化を指向した国家がすぐに安定した民主主義を築ける訳がなく、制度的にも大統領が強い権限を持つ形態のため、政権が行き詰ってからはまさにワイマール共和国下のドイツの様に、相次いで首相交代させ、しかし議会は野党共産党が第一党であり続ける状態になります。
大統領選挙においてもエリツィンは財閥の力に大きく頼ったために、第二次エリツィン政権ではさらに財閥支配が強固になっていきます。
資本主義や民主主義の欠点である財閥支配や金権政治によるグループ主義が強固に結成される一方、民主主義による最大の長所であるそこから派生する結果的客観的評価システムは機能しない状態となり、戦前のドイツや日本同様、❶の政府形態が構築できない場合は❸の政府形態になるために、❷の政府形態への、いわゆるエーリヒ・フロムの自由からの逃走的指向が起ってきます。
ロシア連邦の実際の政治的流れで具体的に見ていきます。
首相代行のガイダルなどによる急進的資本主義政策によって、国有企業経営陣が国有財産である企業をただ同然で私物化し、新興財閥オルガルヒが発生します。
オルガルヒはエリツィン政権と癒着して、出身企業以外の国有財産も払下げを受け、私物化し、政治的影響力を強めて行きます。
彼らの納税回避により、国家財政は危機に陥り、軍の崩壊や国債乱発を引き起こします。
そうなると、当然のことながらハイパーインフレを招いてしまい、国民生活が大打撃を受けます。
深刻な物不足、ストリートチルドレンの激増、薬物汚染、マフィアの跋扈など、かって世界を二分し、アメリカと互角に渡り合えると思われていた超大国の面影を全く感じさせない程の惨憺たる状況となってしまいます。
また、中央が地方政府への補助を打ち切ったことと軍の崩壊のために、中央集権のたかが緩み、ロシアの各共和国は中央政府の威令を軽んじ、独立傾向を強め、ロシア連邦は国家分解寸前の状況になります。
この様な解決すべき問題が頻発している状況下で、エリツィン政権の対応策はドイツのワイマール共和国下のヒンデンブルク大統領や戦前の日本の元老の様に、選挙や議会と連動しない首相の頻繁な交代劇であり、当然のことながら結果的客観的評価システムが機能しないため、グループ主義をセーブすることができず、戦前のドイツ・日本同様に問題が解決されずに山積し、❷の政府形態、独裁指向に進行していきます。
逆に自決思想の土壌を持つプロテスタント国家であるフィンランドは、ソ連に接する他の東欧諸国が軒並み、皆共産化していく中で、自国のみ民主国家の形態の保持に奇跡的に成功しています。
つまり、❶の政府形態を獲得し、安定した民主国家を築くもしくは保持する過程には、プロテスタント国家特有の自決思想の土壌の要素が大きく関与しているという訳です。
では、日中のみならずに全ての世界の国民が、プロテスタントの様な宗教的要素に頼らずに自決思想をもつにはどうしたら良いのでしょうか?
そのことに関しての考証については➡(詳しくはこちら)