先ず、古代ローマの時代に活躍したカルタゴの将軍ハンニバルを見ていきます。

ハンニバルはローマに、かつてないほどの敗北を味あわせました。

戦争後も行政の長として改革の陣頭指揮を取り、カルタゴの経済を建て直し、結果ローマに対し賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明しました。

しかし、結果として母国内の反対派からの讒言を受け、失脚して最終的には不運な最期をとげます。

 

ハンニバルは悉くローマとの戦いに勝利していきます。

そして、ハンニバルの戦略は「ローマの同盟国を裏切らせローマを解体する」ものでした。

しかしこの戦略はなかなかうまくいきませんでした

理由はローマを裏切るメリットがほとんどないからです。

その中でハンニバルは本国カルタゴとの連携も取れず内外から追い詰められていきます。

古代のアテネでは奴隷は解放されてもアテネ市民となれることは決してなく、居留外人身分に留められていました。解放した奴隷を市民として迎え入れるということは古代世界では全くなかったと言っていい状態でした。

しかし、ローマでは解放奴隷が才幹次第ではローマ市民を足掛かりにどんどんのし上がるれる身分制でした。

 ローマは一度倒した敵国との関係を良好なものにするために、敵国のエリートに市民権を与え、またローマに貢献した者たち、例えば水道工事や建物の建設に携わる専門家集団の奴隷を一挙に解放し、市民を飛び越えて、騎士の階級まで与えています。

かってローマを苦しめた異民族が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになると、彼らの野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになって行きます。人種や出身地に関係なく、出世が可能で運と才幹次第ではどんどん伸し上がれる当時ではかなり流動的な身分制でした。

被征民を虜にするローマの吸引力の源が、この流動性のある身分制でした。

 

次に朝鮮王朝の正祖を見ていきます。

朝鮮における科挙制度も中国の科挙制度と同様に儒教が中心に位置されたものでした。

主観的要素の強い儒教の影響が強い政治では派閥間の争い(朋党の争い)が付きものであることは、どの時代・どの国であっても共通しています。

宋の時代での 慶暦の党議、新法・旧法の争いにのように、李氏朝鮮においても、朋党間の政治的対立・混乱に常に終始したものでした。

先ずは勲旧派と士林派の対立、そして士林派が勝利すると、士林派が西東人と呼ばれる2つの勢力に分裂し、また主導権争いを続けます。

西人が勝利すると、その西人は老論少論に分裂し、また主導権争いを続けるといった感じです。

その様な中でも、朝鮮王朝中興の祖となる名君、第22代正祖による改革が試みられます。

王朝期の混乱時である初期を除くと、名君と言われる君主のほとんどが逆境もしくは庶民の中で育っていますが、正祖も極めて逆境の中に立たされています。

幼少の頃、父親の思悼世子が祖父の英祖によって餓死させられ、父親を陥れた政治的反対勢力によって王位に就くことを邪魔され、10回以上も暗殺されそうになっています。

その様な逆境を撥ね退け、王位に就き改革を断行します。

派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策を実行し、奎章閣を改革して、優れた人材を積極的に集め、公平に破格に、登用し、高い地位を与えて研究に没頭させるなど、人材の育成に力を注ぎます。

また、暗行御史(全国の役人の不正を暴く捜査官)を積極的に地方に派遣し、各地の問題を直接把握して解決するようにも努めました。

正祖の治政は“朝鮮王朝のルネッサンス期”といわれるほど、積極的に変革を取り入れようし、儒教の“性理学”の考えとは反するものになる実学も大いに栄えました。

正祖の側近であり、実学者の代表格である丁若鏞は彼の著書で「女性を近くに置くこともせず、内侍達も近くに置かず、狩りも楽しまず、贅沢も好まず、ひたすら学問に励む臣下だけを大切に思い、また、性分があたたかく穏やかで、王だということで癇癪を起こしたり大声を出すことがなく、どの臣下も王の前で虚心坦壊に話をする。」と正祖の優れた人格について記しています。

常に命を狙われたためか武芸を高度に身に着け、神弓と呼ばれたほど弓術の天才でもありました。また、軍事的にも実権を握られている反対派と対する必要性からか、陣法書「兵学通」を作るほど、軍事的兵法などにも精通していました。

また正祖の父親の思悼世子の件があっても、学問を重視した英祖が変わらず、後継者として揺るぎない信頼・期待を託す程に正祖は文学や科学、医学にまで、あまねく精通していました。

文武両道、頭脳明晰で歴代国王たちの中で最も開明的で公明正大な君主と言われています。

その様な、個の能力・存在・問題では最高傑作と思われる正祖の改革も結局は頓挫し、中国の宋王朝における王安石の改革と同様にほとんどが無に帰します。

そして、正祖亡き後の混迷の百年と言われる時代が訪れます。

その間の人口増加は微増であったのが、科挙より優れた条件的客観的評価システムであるメリットシステムを導入した日本統治下の数十年の間に人口は倍増します。

これは決して日本の植民地政策を肯定するものでも礼讃するために記したものではありません。

ただ、どんなに優れた個の要素よりシステム的な要素の方が重要であることを示したかっただけです。

科挙も含め条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織、つまり官僚機構が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまうことです。

これを改善・改革するには極めて強力な反発があり、改革者は強い憎しみを受けます。

正祖の毒殺説が根強いのも、当時その様な切迫した状況下にあったことが想像できます。

上記下線部に関することは当然に条件的客観的評価システムである以上メリットシステムにも当て嵌まります。

正に戦前の日本やドイツがその道筋を歩みます。詳しくはこちら)また(こちらも)参照してくださいね。

どんなに優れた個であっても社会システム上の差や歪みを覆すことは至難の業ということが、この二人の天才的英雄の末路を見ることによって実感できます。

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