よく言われることとして、正義感をもつことは対立を生み出すので、あまり持たず、多様性を認め、人を批判したり、悪口も言うべきではないという意見があります。
確かに一理あります。
しかし、人間は社会的な生物です。
社会的に協調して、相互扶助して生かされています。
一人で生きている様に見えても、実際的には独力で生きていける人は誰もいません。
社会的なインフラ、教育、福祉、流通(食べ物・生活必需品etc)が整備された社会的環境下だからこそ独力で生きていけるように見えるだけです。
その中で社会利益にとって反すること、正しくないことをしている人を野晴らしにしてしまうと、社会全体つまり皆全員に不幸が及んでしまいます。
大事なことは対立を生み出すという理由で極力正義感を持たないということではなく、正しいということに関する基準をどのように決定していくかということにあると思います。
主観的グループ主義的に決定するのではなく、客観的社会利益主義的に決定していくということです。
『正しいということに関する基準をどのように決定していくか』ということを考えるにおいては、『宗教が決める救われる基準』の歴史が極めて参照になります。
キリスト教にしても、仏教にしても、大体の宗教の教義・教えはとても素晴らしいものです。
イエスもブッダも、 最も身分の卑しいとされている人々に対しても分け隔てなく接しています。
しかし、歴史的に見ると宗教組織が政治・経済に大きな影響力を持っている程、階級制がより徹底され、戦乱に満ち溢れた社会になってしまっています。
歴史的に見て、ほとんどの宗教が救われる基準つまり、救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきました。
中世西欧の戦乱に満ちたことから暗黒時代といわれた時代、カトリックでは、管理・運営において、教えを全てローマ教皇の主観的な判断に委ねられていました。
教皇の無謬性、間違いはない、全て正しいという考え方もそれを表しています。
多数の人々の主観的な考えが交差し、修正し、補填し合うことによって、客観性が構成されます。
カラマ・スッタでのブッダの言葉でも『人から聞いたというだけの理由で信じてはいけない。何事も教師や司祭の権限だけの理由で信じてはいけない。ただ、よく吟味・熟考した上で、理性と経験によって、承認できること・良いこと・自他共にまた世界全体に恩恵をもたらすことを真実であると受け入れ、その真実に則ってあなたの人生を送りなさい。』というものがあります。
他人に自分の考えを委ねてしまうことは、悩みや葛藤から解放され、極めて楽になれるということと集団に所属し、一体感や安心・安堵感を感じたいという集団欲の要素から、常に全ての人々への強い誘惑として存在しています。
環境が劣悪で、苦しみが大きいほど、その誘惑は巨大になってきます。
しかし、皆がそれに呑まれてしまうと、歴史的に、人類にとって大きな不幸を生みます。
それが西欧における暗黒時代であり、似た事象として、衆愚政治からのヒトラーなどの独裁政治があります。
ヒトラーの言葉として『弱い男 を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりもより支配者を愛して、自由を与えられるよりも、どのような敵対者にも容赦しない教義の方に、内心でははるかに満足を感じている。』というものがあります。まさに、これらの集団欲などを悪辣に利用するために解釈された考え方です。
我々は決してこのような誘惑に捕らえられてはいけません。
どんなに苛酷で、苦境であっても、先述したブッダのカラマ・スッタの言葉を胸に刻まなければなりません。
一人一人の経験と理性の下に吟味・熟考した意思や考え方が交差し、修正し、補填し合うことによって、初めて客観性が生まれます。
一人一人の個人の自由意志を捨ててしまうと、一部の人々の主観性と裁量による支配に陥ってしまいます。
しかし、古代・中世において、カトリックや仏教を含めほとんどの宗教は、既存支配階級と深く繋がり、イエスやブッダの本来の教えから離れるところか、対極にあるような所業も多く残しています。
その中で、客観性の要素のある宗教としてのプロテスタントの登場は極めて画期的な出来事でした。
スタートした教義的にどんなに素晴らしくても、管理的に主観性の要素が強ければ、グループ主義的に、つまり公(おおやけ)に反する形に変質してしまいます。
カルバニズムには、救いという命題において、他のほとんどの宗教が持っている主観的・裁量的要素のない特異的形態を保有しています。
なぜなら、予定説の考え方としては、もうそれは既に決まってしまっているからです。
他の宗教が救済の裁量権・決定権によって、莫大な寄進を受け、利益を得、既存の上層階級と癒着・一体化・腐敗化して、階層社会を強化してきたのに対して、プロテスタントでは、原初キリスト教の教えに沿って、神の下での平等を主張し、カトリックのような身分制を否定して、信徒は皆平等で、教会聖職者を信徒の上位に置きませんでした。
また救済の証として、神から与えられた天職における世俗的労働に邁進して得た業績と収益が捉えられるようになりましたが、それはカトリックの教会指導者による人々の救われる基準の主観的裁量による決定よりも、極めて客観性のあるものでした。
現代においても、民主主義指数が高く、経済的に先進国である国家にはプロテスタントの信者が多い国が多く、カトリックの信者の多い国は対して、指数が低くく、麻薬カルテルやマフィアが蔓延り、腐敗が強い傾向にあるのもそのためです。
しかし、予定説の捉え方によっては人種差別が肯定されるようになるという欠点も生まれてきます。
カトリックのように、全く好きなように聖書を無視して、教会上層部の利益に沿う形でのグループ主義的に教義を決めるよりはましではありましたが、聖書の解釈においては主観的裁量の要素がグループ主義的に働いてしまいます。
(また、客観性の要素を生み出した 救いの証としての経済的な業績・利益についても、それが持つプラス面とマイナス面があり、それについては、別記事で詳しく考察しています。)
同様に『正しい人間が報われてほしい』という皆の想いがどんなに強く、素晴らしいものであっても、『正しい』ことにおける基準が主観的な判断に委ねられてしまうと『宗教が決める救われる基準』と同様に対立・紛争・戦乱に満ち溢れた社会となり、皆全員にとって大きな不幸が生み出されてしまいます。
『正しい』ことの対極にある悪魔が描かれるとき、描いた者が信仰する宗教と別の宗教の神様がモチーフとされることが歴史的に見てよくあります。
また、魔王と呼ばれる存在が実は戦乱に満ち溢れた社会の元凶である巨大に既得権益化したグループ主義体を改革しようとした人物であることもよくある歴史的史実です。
よって、『正しい人間が報われる』為には、その実際の『正しいということに関する基準の決定』の実行における管理・運営において一部の主観的な判断に委ねられるのではなく、客観性のあるシステム下で実行されるべきことが必要不可欠であることが分かります。