ローマ帝国崩壊の危機となった三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝時代はなぜ起こったのでしょうか?

この時代は、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。

三世紀の危機をローマに引き起こした最大の原因は、カラカラ帝の実地したある政策に求めることができます。

当然にそのことはカラカラ帝が暗君であることにも繋がりますが、暗君が続いても崩壊の危機を克服し、復活してきたローマが許容範囲以上の打撃を受けることになります。

その政策はアントニヌス勅令によって示され、全属州の自由民にローマ市民権を与えるというものでした。

一見するとヒューマニスティックな政策に思われますが、特権の一つであった属州税の免除が全ての属州民に広がったことから、重要な財源であった属州税が事実上消滅してしまいました。

その収入を補う方法としてカラカラ帝は貨幣の改鋳を行い、銀含有率を急激に下げていきます。

しかし、その結果インフレが著しく起こり、貨幣の信用がなくなり、貨幣経済が衰退、交易活動が阻害され、物々交換が増えました。

交易縮小の物資不足から灌漑や排水など設備は放棄され、その結果、耕地面積が減少し、また工業も衰退しました。

誰もが自給自足でやっていけるように努めて、自家生産はかってないほど増えて、その結果、頻繁に飢饉に襲われました。

しかし、アントニヌス勅令の負の作用はこれらに留まらず、より大きな影響を及ぼしたのは、ローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティを衰退させたことでした。

ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。

誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。

また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。

しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。

 

ローマ帝国ほど、長期間・広範囲に繁栄した国家は古代・中世にかけて見当たりません。

その理由としては民主主義に見出すことはできません。その点で言えばアテネの方が遥かに進んでおり、しかもローマがより発展したのは共和政ローマから内乱の一世紀の崩壊の危機を脱して、帝制期を迎えてからのことだからです。

集団よりも大きな単位である社会・公(おおやけ)・国家が繁栄するためには、個と集団間がリンクしたグループ主義から来る対立・紛争を防止する個と公益または集団と公益をリンクしたシステムを構築することにあると言えます。

それをしなければ、自然な流れとして、個は自らの利のために集団とのリンクを集団欲の赴くままに強めることに集中してしまいます。

公益を第一に志す者が出てきたとしても、集団によって個の力を増大させた者には、個の力によっても、数の論理によっても伍することは難しくなります。

公益を主とする者を社会利益主義者、公(おおやけ)よりも集団を重視する者をグループ主義者とすると、良貨は悪貨に駆逐されるように、前者は後者に追いやられてしまい、少数派になるか、または本音と建前の使い分けで本音が後者、建前は前者の二面性の強い社会になってしまう傾向になります 。

共和政ローマの政治系体は貴族制と民主制の中間系体的なものでした。

世襲的な元老院、パトロヌス(庇護者)・クリエンテス(被庇護者)の癒着関係などグループ主義的な要素を多く含んでいました。

ポエニ戦争後、属州が増えてからは、特にそれに拍車がかかります。

貴族化、利権化した総督職は収奪が主な役割となり、凄まじい収奪から、属州になった地域の多くで数十年後には人口を1/10ほどに減少するような事態も起こってしまいました。

従属した都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とし、少数の有力政治家の収入と財産が国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存するようになりました。

ローマ市民はこうした巨富の流出に預かる代償として、共和制ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で有力者の庇護下に入り、癒着 の強固な関係が築かれていきます。

ローマ軍の中核を成し、ローマを支え続けてきた自由農民の没落を救うために農地法を制定しようとしたグラックス兄弟も貴族階級により命を落とし、改革は失敗に終わり、三世紀の危機と並ぶレベルでのローマ帝国崩壊の危機となった内乱の一世紀に入ります。

そのグループ主義的な混乱を収拾し、ローマに一体化した紐帯を与えたのは帝制の基礎を作ったカエサル、アウグストゥスによる寛容政策とローマ市民権を報酬とする結果的客観的評価システムでした。

寛容政策が民族・宗教・出身地などのグループ対立を薄め、評価システムが国家と個のリンクを構築し、国家を繁栄に導きました。

帝制の①、②のリスクも五賢帝時代のように血縁に拘らない状態であれば回避しやすくなります 。

では、古代ローマの時代のように現代でも民主主義ではなく帝制が望ましいと言えるのでしょうか?

 

帝制や独裁は、博打のようなものであって、大概は混乱時からの武力統一や衆愚政治からの主観的な思考からの選出であることが多く、カエサルが来るのか、ヒトラーが来るのか、リー・クアンユー来るのか、スターリンが来るのか予測できないものです。

裏目が出た時には人々は計り知れない不幸を背負わなくてはいけなくなります。

さらに代が下るに従って、血縁に縛られている以上は裏目に出る率は極めて高くなります。

五賢帝の時代のように血縁と距離を置いた帝制は極めて稀であり、集団欲の中でも最も強い血縁関連の誘惑を、絶対権力者である者たちが代々連なって、制御できる確率極めて低くなり、それを期待するのは現実的ではありません。

元々、一人の絶対権力者の主観的な判断に全てを委ねることがこれから述べていくこのブログSystemDreamer最終的な到着点である客観的評価システムの質と量の整備と網羅対極に位置することでもあります。

 

民主主義それ自体は、アテネや共和制ローマを見ても、人類の歴史上あまり大きく寄与していません。

客観的評価システムと相互補完することによって、はじめて有益な制度となるのです 。

では、古代ローマの時代のように現代でも、奴隷がいてその上で支えられる特権階級が存在することが望ましいといえるでしょうか?

大事なことは比較論です。また時間軸を古代・中世に当ててみる必要性があります。

当時の世界観から言えば、奴隷が存在することが常識とされ、そこから這い上がることは極めて難しい時代でした。

その中でローマ帝国は宗教・民族に寛容で、努力してローマに貢献すれば優遇される制度が、補助兵を25年勤めれば市民権が与えられる結果的客観的評価システムなど様々あり、それがローマ・アイデンティティとしてローマのインフラ防衛を支えることなどの公共善一体的な紐帯を示すことになっていました。

公共善を指向する人々は、自分たちの時間努力場合によっては財力リスクを掛けて、それを成さしめようとします。

それに対して、グループ主義を志向する人々は、自分たちの利益と直結しやすい癒着や利権の構築に同じように、時間や労力などを費やします。

個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。

前者の行動は後者に比べて、自分たちの利益に直結していないからです。

特に公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、さらにその度合いは激しくなります。

集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。

公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れの中で迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。

そうなると、歴史的史実の観点では、社会全体が時間差で大きな不幸にまみえることになってしまっています。

 共和制ローマ初期には重装歩兵としてローマの防衛に大きく寄与していた平民の発言権の向上から、民会の決定が元老院の承認を得ずにローマの国法になったり、平民の権利を擁護する護民官が設置されることなどにより、グループ主義的な貴族階級の権限の制限が、平民と貴族との身分闘争の中で進行している間は、共和政ローマは拡大・繁栄していきます。

しかし、拡大するに従って、属州に利権を得ることにより元老院などの貴族階級の力が増大し、改革を志した平民派で護民官のグラックス兄弟が暗殺されるに至っては、ローマは崩壊の危機に直面する内乱の一世紀を迎えることになります。

当時の、国際法や国連などが当然ない中では公益の最たるものは防衛軍事であり、それらを支えた重装歩兵の主力となった自由農民である平民が拡大戦争によって、権限が増大するのではなく、逆に没落したことによりローマは内乱の一世紀という逆境に立たされます。

 

ローマの防衛や拡大に貢献した自由農民や平民が逆に没落した共和制末期に比べて、帝制期に近づく頃には、カエサルがグラックス兄弟が挫折した農地法を成立させ、元老院の権限を制限し、アウグストゥスが補助兵を25年勤めた者や水道工事・建物の建設に携わる専門家集団に市民権などの特権を与えるなど皇帝が個と公(おおやけ)をリンクさせる役割を持つようになります。

しかし、帝制は世襲や血縁によるグループ主義を生みやすく、奇跡的にも免れた五賢帝時代は繁栄したものの、それは幸運の賜物でした。

また、与えられた特権であるローマ市民権も世襲されたことから、グループ主義化・貴族化していき、贅沢を通り越して、退廃的な文化を構築し、それらの生活は奴隷によって支えられるために、さらに帝国主義的な侵略によって、奴隷を確保ししていくしかなく、防衛線も大きくなり、軍事費も財政を圧迫するようになります。

一つの失策により、ドミノ倒しのように崩れていくリスクの上にあり、実際にローマはそのように崩壊していきます。

奴隷制度はグループ主義的な制度であり、当然望ましくない制度ですが、ローマ帝国では他の国々に比較すると寛容であり、努力によっては抜け出し、さらに上に登れる制度であったことが大国になった理由の一つであり、また貢献した者に与えられる特権も、ローマを繁栄させた原動力の大きなものでしたが、世襲化・固定化させたことがローマを硬直化させました。

奴隷制度・侵略戦争は現代においては禁忌条件であることは当然の事です。

ただ古代・中世の時代においてはそれは通用しません。よって当時の他国・他の地域との比較により話を進めていきます。

大国を一つの繁栄の基準にしているのも決して軍事的なものを最優先的に、帝国主義的なもの、侵略主義的なものを礼讃しているためではありません。

国力や経済力がそのまま軍事力や安全保障に直結してるのは、歴史的に証明されており、その指標として、当時の時間軸の中で基準としているだけです 。

ローマ・アイデンティティとしてローマのインフラや防衛を支えることなどの公共善に一体的な紐帯をもたらした補助兵を25年勤めれば市民権が与えられる結果的客観的評価システムアントニヌス勅令によって無力化したことがローマ帝国崩壊の危機となった三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝時代を生みだすことになったのです。

次回 この三世紀の危機に対してどうローマ帝国が対処していくか見ていきます。➡『ディオクレティアヌス帝の専制君主制と四分割統治

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