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①グループ主義の鉄則
組織というものは、社会生活分野、経済活動分野、どの分野においても大きくなればなる程、悪貨(グループ主義)が混入しやすくなり、客観的評価システムの介入がなければ、悪貨が良貨を駆逐するという流れにより、グループ主義・癒着・不正が蔓延るようになります。
グループ主義の鉄則によって、たとえ少数であっても、公益でなく一部のグループの利益を主としたグループ形成ができると、オセロゲームのように、全て善悪がひっくり返ってしまい、それに反するものは中心から外されたり、組織を追い出されたり迫害を受けてしまいます。
公共善を指向する人々(良貨)は、自分たちの時間・努力場合によっては財力やリスクを掛けて、それを成さしめようとします。
それに対して、グループ主義を志向する人々(悪貨)は、自分たちの利益と直結しやすい癒着や利権の構築に同じように、時間や労力などを費やします。
個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。
前者の行動は後者に比べて、自分たちの利益に直結していないからです。
特に公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、さらにその度合いは激しくなります。
集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。
公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステム(つまり客観的評価システム)がないと自然の流れの中で迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。
」を参照
特にミクロからマクロになるにつれて、そのリスクは増大していきます。
規模が大きい程、悪貨が存在する率が高いため、客観的評価システムの介入がなければ、グループ主義がドミノ倒しのように急激に進行しやすくなるからです。
②拡大する共和制ローマの問題
つまり、ローマが拡大するということは、グループ主義、主として貴族勢力による癒着・不正が増大することを意味してきます。
その動きを平民階級が身分闘争による法改正(リキニウス・セクスティウス法やホルテンシウス法など)により対応・封じ込めることによって、それらの問題をクリアしてきました。
国内問題が解決され、国力が蓄えられると、当時の都市国家は必ずと言って良い程、対外膨張戦争へと進んでいきます。
それによって、またローマが拡大されると、グループ主義のリスクが増大してきます。
それをまた、平民階級が身分闘争により問題に対応・封じ込めることが繰り返し行われました。
しかし、その規模が都市国家のものをはるかに超えるようになると、つまりローマがイタリア半島の統一を成し遂げ、ポエニ戦争で数々の属州を得ると、貴族階級の力は以前と比べられない程の増大を見せ、平民階級による身分闘争(グラックス兄弟による改革)が初めて失敗に帰しました。
国内問題が解決されず、深刻化したため、その後ローマは内乱の一世紀といわれる混迷の時代を迎えます。
③共和制ローマからローマ帝国へ
その巨大化した貴族階級、グループ主義の力を封じ込め、再びローマを再興したのは、Ⓐ❷の政府形態の選択とⒷ補助兵を25年勤めれば市民権が与えられる結果的客観的評価システムです。
ⒶⒷ二つが両輪となり、古代・中世の時代において最大の繁栄を示すローマ帝国を創り上げました。
実質的に❸の政府形態(詳しくはこちら)になってしまっている共和制ローマにとって、❷の政府形態に移行することは、当時の時代が❶の政府形態を獲得できる状況でない(獲得できた国家が初めて出現したのは近代のイギリスにおいて)ことを考えると、ローマが再興するためには必然のことだったかもしれません。
❸の貴族制国家においては責任を取るものが明確でなく、表面的代表者をすげ替えても、実質的な権力体制、問題点がそのままで改善されない場合が多く、社会が沈滞し、紛争が多発し、人々が貧困に喘ぐ傾向にあるからです。
まだ❷形態の方が、公益における結果評価に曝される存在があるだけ、ない❸形態よりは遥かにマシということです。
ローマの防衛や拡大に貢献した自由農民や平民が逆に没落した共和制末期に比べて、帝制期に近づく頃には、カエサルがグラックス兄弟が挫折した農地法を成立させ、元老院の権限を制限し、アウグストゥスが補助兵を25年勤めた者や水道工事・建物の建設に携わる専門家集団に市民権などの特権を与えるなど皇帝が個と公(おおやけ)をリンクさせる役割を持つようになります。
しかし、帝制は世襲や血縁によるグループ主義を生みやすく、奇跡的にも免れた五賢帝時代は繁栄したものの、それは幸運の賜物でした。
また、与えられた特権であるローマ市民権も世襲されたことから、グループ主義化・貴族化していき、贅沢を通り越して、退廃的な文化を構築し、それらの生活は奴隷によって支えられるために、さらに帝国主義的な侵略によって、奴隷を確保ししていくしかなく、防衛線も大きくなり、軍事費も財政を圧迫するようになります。
一つの失策により、ドミノ倒しのように崩れていくリスクの上にあり、実際にローマはそのように崩壊していきます。
④ローマ帝国の崩壊
Ⓑについては両輪と言いいましたが、どちらかと言えば、こちら側が主輪に相当します。
その主輪をカラカラ帝が全属州の自由民にローマ市民権を与えるというアントニヌス勅令によって事実上に無力化してしまいます。
これによりローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティが大きく衰退して行きます。
ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。
誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。
また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。
しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。
実際にカラカラ帝の後、間もなくして三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝の時代に入り、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。
暗君が続いても崩壊の危機を克服し、復活してきたローマが許容範囲以上の打撃を受けることになります。
この混迷を一時期的にしても収拾したのがディオクレティアヌス帝です。
ディオクレティアヌス帝は大きくなり過ぎたローマ帝国を四分割し、対象規模を減少させることによって、グループ主義が蔓延りにくくしました。(それを明確に意図したかどうかは別にして)
また、当時急成長しつつあったササン朝ペルシャの政治システムを参照にドミナートゥス(専制君主政)を導入します。
これにより、ローマの共和政の伝統は途絶えて、元老院はほとんど形骸化し、帝政前期の元首政の共和政的要素はなくなり、皇帝の専制化がなされます。
つまり、まだかすかに残っていた❸の政府形態の要素を完全に消し去り、❷の政府形態の傾向に特化するようになったということです。
これによって、確かに一時期的にはローマ帝国の混迷は収拾されました。
しかしながら、いくら分割したところでローマ帝国は巨大になり過ぎました。
主軸たる結果的客観的評価システムを失った状態では、崩壊していくのは時間の問題でした。
それ程、一定規模を超えたグループ主義の攻撃力は凄まじいものがあります。
Ⓑ補助兵を25年勤めれば市民権が与えられる結果的客観的評価システムが効いている状態は❶の政府形態のように民主主義から派生する結果的客観的評価システムが効いている状態とは当然違います。
しかし、種類が違えど、結果的客観的評価システムが効いている状態であることは一致しています。
巨大になり過ぎたローマ帝国におけるグループ主義の攻撃力を抑えるには、❶の政府形態のレベル(つまり何らかの結果的客観的評価システムが効いている状態)が必要であるのに、❸の政府形態の要素を薄め❷政府形態の要素を強めて、巨大化したものを少し分割したところで、一定の効果をあるにしても、必要とする効果がレベル的に圧倒的に足らない状況であったと思われます。
客観的評価システムの介入なしに、これに対することはほぼ不可能であることは多くの歴史的史実が証明しています。