ケネディ兄弟の三男、エドワード・ケネディは二人の偉大な兄達と同じ様に大統領を目指しましたが、「チャパキディッキ事件」という払拭出来ない過ちのため評価が一変し大統領への道を断念しました。
二人の偉大な兄達に比較するとどうしても評価・知名度に対しては劣ってしまっている様に思えます。
しかし、エドワードは法案を通す為の特別な粘り強い忍耐力・卓越した交渉力を持ち、民主党と共和党との重要なパイプ役を果たして、46年間の上院議員生活の中で2500本以上の法案を提出し、300本以上の法案を成立させたアメリカ議会史上最も影響力がある上院議員でした。
オバマ大統領も、弔辞の中で「現代における最も偉大な上院議員であった。」と述べています。
2009年8月28日のケネディライブラリーでのお通夜の席で、共和党保守派重鎮のマケイン・ハッチ両上院議員が揃って「どんなに議会で激しくやり合っても、終われば仲良く遊びに行った」というエピソードを語りました。
「ケネディ」という偉大な名前だけでなく、ある意味では、兄達以上の素質が備わっており、それ故にケネディ一族で最も政治家に向いているとも言われました。
二人の兄達は短期間の間において、既得権益・既存体制との激しい対立・衝突も厭わず、強い信念の下に、大きな国益のみならず、世界的公益を生み出した金の功績・貢献をした表現することができます。
それに対して、エドワード・ケネディは長期間の間において、粘り強い忍耐力・卓越した交渉力を持って、二人の兄達に決して劣らない程の公益を生み出した、いぶし銀的な功績・貢献をしたといえます。
その多くの功績の中で二つを特にピックアップして見ていきます。
一つ目は台湾の民主化です。
民主化が成立するためには、内的要因としてはプロテスタントの要素、外的要因としては西欧のアイルランド・ルクセンブルクのように民主国家と地理的・経済的・社会的に密接に交流・関係し、影響を受けていることやドイツや日本のように直接または間接的統治を経るなどの要素が必要となります。
しかし、どの要素を見ても、なかなか台湾が民主化する為の要素・要因が見当たりません。
その様な環境下の台湾で、特務組織の暴走に伴い、陳文成教授殺害事件や江南事件などが起こります。
それらの動きに対して、ケネディ上院議員を中心に30人あまりの上下両院議員が台湾に対して戒厳令解除を求める呼びかけを発表し、上院で台湾の前途決議案が採択されます。
さらに、ケネディ上院議員を中心に、5人の上下両院議員が台湾住民の人権・自由・民主の推進を目指す台湾民主化促進委員会を設立し、台湾当局に台湾の人権保障、民主化促進を求める声明を発表します。
これらのアメリカの外圧により、台湾の最高実力者である蒋経国に改革せざる得ない状況に追い込みます。
勿論、当時の台湾は中国の強い脅威に脅かされている状況でアメリカの意向に反抗できずらい状態であったことも大きな要因の一つと言えます。
しかし、そもそも本来のアメリカのあるべき姿、パックスアメリカーナにおける民主主義の普及という表の顔そのままの行動に邁進すること自体が貴重で非常に素晴らしいことであると言えます。
日本の民主化以来なかなかパックスアメリカーナにおける民主主義の普及が実質的にできずに、ダレス外交などの帝国主義を彷彿とさせるような新植民地主義の様な裏の顔的行動が先行していた中で、アメリカはまさに面目躍如といえる大きな世界的公益を打ち立てました。
二つ目はベンチャー育成政策である「SBIR」(Small Business Innovation Research中小企業革新技術研究プログラム)です。
現在では、米国のベンチャーはあらゆる分野でその勢いは留まるところを知らない活況を呈しています。
それに比べて日本のベンチャーの勢いの無さは対照的ともいえます。
しかし、1970 年代から 1980 年代にアメリカ経済が衰退傾向を強めた『アメリカの没落』といわれた 時代は、日本の製造業が世界を席巻していた時代でした。
その原因・要因を学びに日本を訪れていた米国の役人や知識層は、日本から学ぶべき大事な要素は『ベンチャー企業である、ベンチャーの起業家精神である』と現代の日本人には信じられないようなことを主張していきます。
「日本の産業が戦後こんなに強くなったのは、ソニー、ホンダ等の強力な急成長ベンチャー企業が誕生し、それまでおっとり構えていた松下電器、日立、東芝、トヨタ、日産等の大企業がソニー、ホンダが起こすイノベーションに負けてはいられない、と大企業とベンチャーの間で激しい競争が起こったから製造業の基盤全体が世界最高のレベルに持ち上げられたのだ。
それに比べて我が米国のGE、モトローラやGM、フォード等の大企業は、独占的な地位を享受して激しい競争が国内に無いから革新的なイノベーションが起きにくくなっている。日本の脅威に勝つためには米国でも日本のように強力なベンチャー企業の創出を真剣に考えなければならない」という内容でした。
日本が成功したように、米国でも強力なベンチャーが出てこないと大企業が停滞し、米国の産業復活はない、と思い詰めSBIR政策を進める法案を数年かけて、多くの反対を押し切ってエドワード・ケネディが中心となって議員立法化され1983年に発足します。
1983年から実施されたSBIRは、各省の外部委託研究開発予算の当初0.25%(現在は2.5%)を、ベンチャー企業に強制的に割り当てる法律に基づいているが、当初各省の大反対の中でとりあえず時限立法ということでスタートしました。
1970年代から1980年代にかけて躍進する日本への対抗策として、イノベーションを大企業に頼るだけではなく、ベンチャーの活力を生かそうとしたある熱心な官僚の意見をエドワード・ケネディが後押しして、やっとのことで法制化したものでした。
この法案に反対する各省の官僚は、例えば、ミサイルに関わるシミュレーションプログラムを、できたばかりで数人の従業員の会社に頼んでもそのベンチャー企業の信頼性は不明であり、税金を使ってそのようなリスクは取れない、と主張しました。
法制化され強制されてしまった後は仕方がないので、できもしないような難しく大企業が背を向けるような仕事をベンチャーに振り向けて、手も足も出ないとベンチャー企業にあきらめてもらおう、という作戦で難しいテーマを決めて公募してみましたが、いくつかのベンチャーがその難題を短期間にものの見事に解決していきます。
その様な経過を経て、SBIRはアメリカに定着していきます。
全米で毎年2千以上のベンチャーが資金援助される規模の大きさや、フェーズごとに練られた仕組みの良さや、多くの省が競い合って参加する仕組み等で成功するベンチャーが多く、長年続けられている政策であり、ベンチャー育成政策の成功例として世界的な注目を集めました。
このSBIR政策とほぼ時を同じくしてIT革命がおこり、米国のベンチャー活動は大きく動き出し、そこから生まれ続ける革新的なイノベーションは大企業を刺激するようになり、米国では「シリコンバレーモデル」が「国のビジネスモデル」であるとまで言われるようになりました。
ベトナム戦争以降の長い経済・社会の停滞・低迷を脱した後での、これらアメリカ経済の奇跡の復活はニューエコノミーと名付けられ、自信を取り戻したアメリカの人々の心に刻まれました。(アメリカ経済の戦後からの流れについての詳細はこちら)
これら二つの大きな功績は、二人の兄達が改革しようとしてきたものと同方向どころか、まさに直結しているものといえます。
悲劇の中で亡くなった二人の兄達の意志を十分に果たされた偉大な『三人目のケネディ』だったと思います。