歴史的に、満場一致の決定法がとられたのは、中世ポーランドの黄金の自由期、戦前の国際連盟などがあります。
イギリスよりも先駆けて準立憲君主制、議会制民主主義を実践した中世の黄金の自由期におけるポーランドは、選挙権を持つ率は人口の1割を超え、数百年後の19世紀のイギリス・アメリカよりも高い状態でした。
しかし、全会一致の原則などによって結果的客観的評価システムが成立不可能であったため、❷形態(詳しくはこちら)の君主制の下ではヨーロッパで最も広大かつ多くの人口を抱える大国の一つ であったポーランドは、大洪水時代における破滅的な内外問わない一連の紛争・戦争の結果、人口の1/3を失い、大国の地位を失います。
そればかりか、隣接するロシア帝国・プロイセン王国・オーストリアの❷形態の君主制の三強国によって、何度も領土を分割され、一時期的に国は消滅してしまいます。
そして、長い間においてポーランドの人々は反ポーランド主義の中、差別され、抑圧されてしまいます。
戦前の国際連盟 では全会一致の原則などにより加盟国すべての賛成を得ることが必要でした。
最大で60カ国近く加盟国がありましたので、すべての国の賛成を得るということは大変です。
置かれた状況の異なる国々の意見を一致させるのは非常に困難で、決定のスピードも遅くなってしまいます。
国際政治における重要問題はほとんど解決することができませんでした。
満場一致の決定法というのは一見民主的に見えますが、その中には、結果的客観的評価システムの要素を反映できません。
ということは、結果的客観的評価システムを派生できない所謂欠点だけが顕現する民主主義と同様な結末となってしまいます。(詳しくはこちら)