改革者(グループ主義的な者ではなく、社会利益主義的な)の評価が低かったり、憎まれてしまうのはなぜでしょうか?🙄
社会の利益・改善を志す者は、自分達の時間・努力、場合によっては財力やリスクを掛けて、それを成さしめようとします。
それに対して、グループ主義を指向する人々は、自分達の利益と直結しやすい癒着・利権の構築に同じ様に、時間・労力等を費やします。
個と公(おおやけ)をリンクさせるシステムが特別なければ、自然の流れで前者は後者に駆逐されます。
前者の行動は後者に比べて、自分達の利益に直結していないからです。
特に、公共善のために既得権益を相手に改革を志す者は、更にその度合が激しくなります。
彼らはかなり高い可能性で、既得権益のグループ主義との圧倒的不利な状態での対立を背負うことになるからです。
集団欲というのは、外部の敵に対しては凄まじい結束力を持って攻撃性を放つからです。😨
公共善のために尽くす社会利益主義者や改革者は、個と公(おおやけ)を直結するリンクによって優遇・保護するシステムがないと自然の流れで迫害され、除外される傾向が極めて高くなります。
且つ、それに加えて公益を生み出す為の努力に費やす労力・時間・財は利権的グループ主義に費やされる場合と比べると圧倒的に回収率が低く、グループ主義的に生きることが+200%位の回収率になったとしても、公益主義に生きることは-200%位の迫害的回収率になってしまう傾向にあります。
この集団欲が引き起こす習慣的惰性の流れを変えるシステムがなければ、グループ主義が座標上における傾きを-(マイナス)に変えてしまい、いくら社会の利益主義者が大きな+(プラス)を生み出しても、少しずつその効果を減衰させてしまいます。
歴史はその繰り返しともいえます。
その悪循環を止めなければ、歴史が進行すればする程、科学力は当然に大きくなって、社会の歪みなどが改善されない状態では、そこから生み出される被害から文明が破綻してしまうリスクは時が経るにつれて当然に高くなってしまいます。
通常の平均的人物の公益に対する寄与度の平均値を1と仮定すると、社会の利益主義者の寄与度を100とします。
しかし、莫大な+(プラス)を生み出す為の反対勢力を貶めたことの-(マイナス)が10あるとします。
+(プラス)部分は公益に関して公と個をリンクさせる客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)がなければ、先ず評価・報酬を受けることはありません。
つまり、百の評価が0、あったとしても自らが属しているグループ内における評価がある位で、1か2程度といえます。(直接グループにに寄与しているわけでもないので、その評価・報酬は極めて低くならざる得ないといえるからです)
ただ、-(マイナス)の部分は集団欲の過剰になる傾向にある防御機能としての攻撃反応によって、-10が-20や-30になって帰ってきます。
本来ながら+90の評価・報酬を受けるべき社会の利益主義者が、実質的には-20や-30の評価・報酬とまさに迫害的リターンを受けることが典型的・原則的なパターンとなってしまいます。
その様な悪条件の中、社会の利益主義的に生きることは、精神的にも身体的にも厳しい環境に置かれます。
客観的評価システムの整備が不十分な状態で本質的に社会利益主義的な方向性を貫くのは極めて困難であることが分かります。😥