科挙制度が成立するまでの中国は、春秋戦国時代、三国志時代 、五胡十六国、南北朝時代と王朝と王朝との間には何百年と続く内乱と戦国の時代は続き王朝の成立期間であっても 非常に内紛にまみれたものでした 。関羽の画像

科挙制度が成立するまでの中国では、人材の選抜法として郷挙里選九品官人法などの有力豪族や貴族による血縁やコネにより事実上人事権が握られた主観的な選抜法 が採用されており 、当然のことながら、腐敗、賄賂が横行する不公平なもので、対立、紛争が多発する状況下にありました。

この状況下で人材登用という点で歴史上極めて画期的なシステムが登場します。

人材登用の客観的評価システムの中では極めて初歩的で内容的にも問題の多いものでしたが全くない状態から初歩的でもある状態の変化はそれだけでも劇的に新しい時代を切り開いていきます。 

何百年という戦乱  を統一した隋の文帝により、実力によって官僚を登用するために九品官人法は廃止され、それに代わる官史登用制度として科挙が始められました。

科挙は試験による官史登用制度で中国では元の時代に一時期中断されたのを除いて、清代まで1300年間にわたり続けられました。

科挙が本格導入された宋の時代以降に中国では王朝から王朝までの何百年における内乱・戦国時代は見られなくなりました

内乱や王朝交代期における短期間の戦乱は存在しましたが、度合いはかなり減少しました。

それを裏付けることとして、元の時代は唯一中断された期間になりますが、この時代の人材登用法は、まさに以前の中国の戦国時代と同じくする血縁・家門を中心とする縁故採用でしたが、宋・明・清など他の王朝に比較して明らかに短命な王朝であり、王朝時代も派閥争いというレベルではなく、モンゴル貴族同士の激しい武力による血で血を洗うような権力闘争が繰り広げられました。

朝鮮においても、科挙制度が本格的に採り入れられる李氏朝鮮までは、三国を中心とする内乱・戦乱が多発していましたが、李氏朝鮮の朝鮮王朝が発足してからは五百年にわたる長期王朝が存続しました。

日本においては科挙制度自体が日本の歴史に及ぼした影響は少なかったといえますが、江戸時代中後期からは科挙に類似した制度が所々に採用されています。(筆算吟味、学問吟味など)

日本の武家政権は鎌倉幕府、室町幕府と戦乱・内乱に満ちたものでしたが、江戸時代は三百年と長期存続し、特に中後期に限っては内乱・戦乱がほぼ無い状態でした。詳しくはこちらをクリック

 

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事