民族的寛容が上手くいく場合と逆効果になってしまう場合があるのはなぜでしょうか?🙄
逆効果になってしまう場合を先ず挙げて行きます。
混迷の五胡十六国時代「前秦」の三代皇帝『苻堅』は民族融和を目指した稀代の名君です。😀
名宰相「王猛」の補佐を受け、学問を推奨し、内政も重視、国力を充実させ、文化の発展に尽力しました。
苻堅には目的とする理想があり、その理想とは差別をなくし、全ての人を平等に扱うことでした。😄
漢族でない異民族による大帝国は隋、唐、元、清など数多ありましたが、苻堅が目指した帝国は他とは異質で、それは諸民族が融和した国であり、人種や民族の差別のない世を目指しました。😂
華北を統一した苻堅は民族融和のため都の長安の近くに鮮卑族や羌族を移住させ、そして自らの出自である氏族を東方に移住させました。
また漢族を優遇し官僚にしたり、鮮卑族や羌族を重用しました。
前燕から亡命してきた鮮卑の慕容垂がその典型で、この慕容垂の登用にあたっては腹心の王猛も反対しましたが、夢の実現のためと言って苻堅は意に介しなせんでした。
しかし、淝水の戦いで、漢人の武将で苻堅に重用されていた男がこの戦の前に東晋に寝返ってしまい、大敗してしまいます。
淝水の大敗のあと辛うじて生き延びますが、漢中で独立運動を介した羌族によって捕らえられ、禅譲を迫る羌の姚萇に殺されてしまいます。
苻堅の目指した民族融和は完全に裏目に出てしまいました。😨
融和を持ち掛け信頼していた各部族の将(姚萇・慕容垂)は次々に裏切り、最後は重用したにも関わらず羌族に絞殺されてしまいました。
次に、上手く行ったケースを挙げて行きます。
ローマ帝国の最盛期においても、諸民族に対し、同様に寛容の精神が行き届いていました。
ローマの司政官は征服地を統治するのに軍事力の力をほとんど必要としませんでした。
征服された民は、ローマという単一の偉大な民族に溶け込んでおり、独立を取り戻すべく具体的に算段することはおろか、夢に見ることさえやめてしまうからです。
そして彼らは自分たちがローマ人以外の何者かであると考えることさえなくなるのでした。
かってカエサルをアレンシアで包囲して苦しめたゴール人の孫が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになり、彼らゴール人の野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになっていたのです。
この二つのケースの違いはどこから来るのでしょうか?
この謎を解く鍵は客観的評価システムがあります。
古代のアテネでは奴隷は解放されてもアテネ市民となれることは決してなく、居留外人身分に留められていました。
解放した奴隷を市民として迎え入れるということは古代世界では全くなかったと言っていい状態でした。
しかし、ローマでは解放奴隷の子が皇帝にまで登り詰める例もあり、最盛期の皇帝で最良の君子と言われたトラヤヌス帝は属州出身者であり、才幹次第ではローマ市民を足掛かりにどんどん伸し上がるれる身分制でした。
ローマ市民権は投票権・拷問されない権利・裁判権・人頭税や属州民税の免除など様々な特権があり、ローマ市民であれば財産はなくても食べるに困らず、娯楽も無料で提供されるというものでした。
一般的な属州民がローマ市民権を獲得する方法として、補助兵に志願し25年間兵役を勤めるという結果的客観的評価システムがあり、この方法でローマ市民になるものは毎年 1万人にもなりました。
実質的初代皇帝となったアウグストゥスによって定められたこのシステムは、共和政ローマ時代のポエニ戦争後の汚職や暴力が横行し、内部崩壊寸前であった内乱の一世紀の時代を終わらせ、ローマアイデンティティの元に一体化した紐帯の時代に導きます。
次に、鍵が客観的評価システムであるという証拠を挙げて行きます。
しかし、そんな古代・中世において最大の繁栄を示したローマ帝国が暗君カラカラ帝の後、間もなくして三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝の時代に入り、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。
三世紀の危機をローマに引き起こした最大の原因は、カラカラ帝の実地したある政策に求めることができます。
当然にそのことはカラカラ帝が暗君であることにも繋がりますが、暗君が続いても崩壊の危機を克服し、復活してきたローマが許容範囲以上の打撃を受けることになります。
その政策はアントニヌス勅令によって示され、全属州の自由民にローマ市民権を与えるというものでした。
一見するとヒューマニスティックな政策に思われますが、特権の一つであった属州税の免除が全ての属州民に広がったことから、重要な財源であった属州税が事実上消滅してしまいました。
その収入を補う方法としてカラカラ帝は貨幣の改鋳を行い、銀含有率を急激に下げていきます。
しかし、その結果インフレが著しく起こり、貨幣の信用がなくなり、貨幣経済が衰退、交易活動が阻害され、物々交換が増えました。
交易縮小の物資不足から灌漑や排水など設備は放棄され、その結果、耕地面積が減少し、また工業も衰退しました。
誰もが自給自足でやっていけるように努めて、自家生産はかってないほど増えて、その結果、頻繁に飢饉に襲われました。
しかし、アントニヌス勅令の負の作用はこれらに留まらず、より大きな影響を及ぼしたのは、ローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティを衰退させたことでした。
つまり、実質的に結果的客観的評価システム無力化させたことでした。
ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。
誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。
また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。
しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。
三世紀の危機をデオクレティアヌス帝によってローマは脱しますが、彼の方法は、ローマ市民権という特権を全自由民に広げたことから起点した財政悪化からのインフレを社会主義的な物価統制によって力ずくで押さえ込もうとするものでした。
安定は長く続かず、ローマの紐帯が失われた中では、寛容政策が人種差別、隔離的なものに、そしてローマに忠実だった他民族の人々は敵対勢力に変じ、ローマは崩壊の道を進んでいきます。
ローマ帝国ほど、長期間・広範囲に繁栄した国家は古代・中世にかけて見当たりません。
その理由としては民主主義に見出すことはできません。その点で言えばアテネの方が遥かに進んでおり、しかもローマがより発展したのは共和政ローマから内乱の一世紀の崩壊の危機を脱して、帝制期を迎えてからのことだからです。
集団よりも大きな単位である社会・公(おおやけ)・国家が繁栄するためには、個と集団間がリンクしたグループ主義から来る対立・紛争を防止する個と公益または集団と公益をリンクしたシステムを構築することにあると言えます。
それをしなければ、自然な流れとして、個は自らの利のために集団とのリンクを集団欲の赴くままに強めることに集中してしまいます。
公益を第一に志す者が出てきたとしても、集団によって個の力を増大させた者には、個の力によっても、数の論理によっても伍することは難しくなります。
公益を主とする者を社会利益主義者、公(おおやけ)よりも集団を重視する者をグループ主義者とすると、良貨は悪貨を駆逐するように、前者は後者に追いやられてしまい、少数派になるか、または本音と建前の使い分けで本音が後者、建前は前者の二面性の強い社会になってしまう傾向になります 。
共和政ローマの政治系体は貴族制と民主制の中間系体的なものでした。世襲的な元老院、パトロヌス(庇護者)・クリエンテス(被庇護者)の癒着関係などグループ主義的な要素を多く含んでいました。
ポエニ戦争後、属州が増えてからは、特にそれに拍車がかかります。
貴族化、利権化した総督職は収奪が主な役割となり、凄まじい収奪から、属州になった地域の多くで数十年後には人口を1/10ほどに減少するような事態も起こってしまいました。
従属した都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とし、少数の有力政治家の収入と財産が国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存するようになりました。
ローマ市民はこうした巨富の流出に預かる代償として、共和制ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で有力者の庇護下に入り、癒着 の強固な関係が築かれていきます。
ローマ軍の中核を成し、ローマを支え続けてきた自由農民の没落を救うために農地法を制定しようとしたグラックス兄弟も貴族階級により命を落とし、改革は失敗に終わり、内乱の一世紀に入ります。
そのグループ主義的な混乱を収拾し、ローマに一体化した紐帯を与えたのは帝制の基礎を作ったカエサル、アウグストゥスによる寛容政策とローマ市民権を報酬とする結果的客観的評価システムでした。
寛容政策が民族・宗教・出身地などのグループ対立を薄め、評価システムが国家と個のリンクを構築し、国家を繁栄に導きました。
上記二つのケース(中国の五胡十六国時代、ローマ帝国)は寛容政策を実施する側からみたものでしたが、逆に今度は寛容政策を受ける少数民族サイドから考察していきます。
ユダヤ人は最も知的な民族集団とされ、民族別知能指数では最も高く、21世紀初頭において世界人口0.2%しかいない状況でノーベル賞の20%、フィールズ賞の30%を占めています。
アメリカ社会でのユダヤ人の社会的地位の向上も目を見張るものがあり、全人口の2%に過ぎない中、上下両議員の1割近い議席を得て、全米資産家ランキング上位50人のうち1/3、一流大学のハーバード大学の学生の1/4をユダヤ系が占めています。
この様なアメリカにおけるユダヤ人と国家のお互いに寄与する ++(プラスプラス)の状態とワイマール共和国・ナチス時代のドイツとの真逆の状態とどう違うのか?それを検証して行きます。
近代のドイツにおいて、ユダヤ人が活躍していった要因は大きく二つありますが、一つは条件的客観的評価システムであるメリットシステム(詳しくはこちらをクリック)に伴う教育された人材の重視です。
もう一つはルター派教徒が多いながら、上層部をはじめとして一部にカルバン派が存在していたことからの資本主義社会の急激な発達により、金融業に強いユダヤ人の影響力が強くなったことです。
しかし、教育を司どる大学などや思想的な分野で共産主義的ユダヤ人の活躍の増加、経済的・社会的地位においても上層部の多くをユダヤ人が占める状態を第1次世界大戦前の旧支配者層である軍を中心としたグループ主義が利用したことが発端で、ワイマール共和国・ナチス時代におけるドイツ国家とユダヤ人の関係が悪化していきます。
第1次世界大戦において、元々ドイツには勝機が極めてない状態まで追い込まれていながら、旧支配者層の中心にいたヒンデンブルクの背後の一突きという責任をドイツ革命における共産主義者に転化するデマ的発言によって、実際には大戦におけるユダヤ人の多くは軍に誠実に勇敢に戦い貢献したという事実があったにも関わらず、共産主義者にユダヤ人が多かったことから、敗戦の責任をユダヤ人全体に押し付けていきます。
ワイマール共和国で最も著名なユダヤ人政治家の一人で、ドイツのゼネラルエレクトリック社の社長を経て外相となったラーテナウも反ユダヤ主義の過激派に暗殺されました。
戦前のドイツと近現代のアメリカの違いは、民主主義から派生する結果的客観的評価システム(詳しくはこちらをクリック)が整備されているかそうでないかです。
少数民族が優遇・活躍するには条件的客観的評価システムが大きく寄与します。
近代において、少数民族であるユダヤ人の本格的な活躍が始まるのは、条件的客観的評価システムの後押しが大きいです。
実際に、様々な民族に門戸を開けたアメリカンドリームは条件的客観的評価システムと密接した大学制度を介してのものが多いです。
しかし、その状態を長くキープするには何らかの結果的客観的評価システムの作用が必要なことがワイマール共和国・ナチス時代のドイツをみれば分かります。
条件的客観的評価システムだけで、結果的客観的評価システムのフィードバック的改善作用が働かないと、条件的客観的評価システムの代表的欠点としての性質が出てきます。
つまり、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまう性質です。 (詳しくはこちらをクリック)
これにより、社会に大きな歪みを抱えた国家は必ずと言って大きな苦境に陥ります。
その時、必ずと言って少数民族がターゲットにされるのです。
よって、少数民族が長期的に活躍するためにも量・質・種類ともに客観的評価システムが整備・機能されていることが重要な鍵となるのです。
これらの二つのケース(上手くいく場合と逆効果になってしまう場合)、両面(寛容政策を実施する側させる側)を見ても、民族的寛容政策が上手くいく鍵は客観的評価システムがどれだけ整備・機能されているかにあることが分かります。
民族的グループ主義の引力を解消させるには、寛容の精神に加えて、客観的評価システムの公益と個をリンクさせる引力が必要不可欠であることが悲劇の名君『苻堅』の生涯を見ても実感されます。😞