歴史的に見ると、残念ながら平等・自己犠牲・道徳思想が第一とされるほど、人々が不幸になってしまいます。
それは、道徳思想の儒教が争いや対立を引き起こしてしまう(詳しくはこちらをクリック)や平等・自己犠牲思想を主とする宗教が政治にも影響を及ぼす国程、対立・腐敗が激しく、発展途上の国が多いことからもわかります。
では、なにが人々を幸福に導くのでしょうか?
それは、努力すれば報われるシステムや公平性であることがわかります。
努力すれば報われるシステムや公平性の中で最も野蛮で望ましくない方法が封建時代における戦いにおける土地などを報酬とする制度です。
日本で言うと、武士の時代が本格化する鎌倉時代を題材にするとわかりやすいと思います。
鎌倉時代といっても、決して一つの王朝が支配する平穏な時代であったわけではなく、北条家が他の有力御家人を滅ぼして、その過程で得た土地や財産を与える御恩と奉公の制度によって成立していました。
しかし、元寇の戦いにおいては防衛戦であるため得れる土地がなく、御家人の命を懸けた労力や戦費における多額の出費に見合う報酬が与えられませんでした。
そればかりか、北条得宗家に権力が集中すると実務を司る御内人が力を持ち、貧困に喘ぐ御家人の土地を商人と結託して吸収していくようになると御家人の不満が高まり、また自他ともに次の滅ぼす有力ターゲット的立場にあると認識されていた足利氏も反体制派の後醍醐天皇に加担することによって鎌倉幕府は滅んでいきます。
これは、ローマ共和制の時代と共通するものが有ります。
ポエニ戦争後、属州が増えるとそれに寄与した自由農民がそこから収穫される安価な穀物の流入などから逆に没落し、属州利権によって巨大化した貴族階級との対立による内乱の一世紀を経て、ローマ共和制は崩壊します。
内乱の一世紀を経て、ローマは帝制に入りますが、そこで大きく発展します。
帝制ローマを発展させたのは、属州民が補助兵に志願し25年間兵役を勤めるとローマ市民権が獲得できるという評価システムでした。
ローマ市民権は投票権・拷問されない権利・裁判権・人頭税や属州民税の免除など様々な特権があり、ローマ市民であれば財産はなくても食べるに困らず、娯楽も無料で提供されるというものでした。
この方法でローマ市民になるものは毎年 1万人にもなりました。
実質的初代皇帝となったアウグストゥスによって定められたこのシステムは、共和政ローマ時代のポエニ戦争後の汚職や暴力が横行し、内部崩壊寸前であった内乱の一世紀の時代を終わらせ、ローマアイデンティティの元に一体化した紐帯の時代に導きます。
ローマアイデンティティはローマ市民権のシステムと同化政策を可能とする寛容の精神によって支えられていました。
ローマの司政官は征服地を統治するのに軍事力の力をほとんど必要としませんでした。
征服された民は、ローマという単一の偉大な民族に溶け込んでおり、独立を取り戻すべく具体的に算段することはおろか、夢に見ることさえやめてしまうからです。
そして彼らは自分たちがローマ人以外の何者かであると考えることさえなくなるのです。
ローマは一度倒した敵国との関係を良好なものにするために、敵国のエリートに市民権を与え、またローマに貢献した者たち、例えば水道工事や建物の建設に携わる専門家集団の奴隷を一挙に解放し、市民を飛び越えて、騎士の階級まで与えています。
かってカエサルをアレンシアで包囲して苦しめたゴール人の孫が、ローマの軍団を率い、ローマの属州を統治し、ローマの元老院に選出されるようになり、彼らゴール人の野心は、ローマの安寧を乱すことではなく、ローマの偉大さと安定に貢献することになって行くのです。人種や出身地に関係なく、出世が可能で奴隷➡解放奴隷➡市民➡騎士階級➡元老院➡皇帝と運と才幹次第ではどんどん伸し上がれる当時ではかなり流動的な身分制でした。
最盛期であった五賢帝時代の皇帝では 、トラヤヌスが属州スペイン出身、ハドリアヌスもスペイン出身、アントニヌス・ピウスはゴール系、マルクス・アウレリウスはアンダルシア人が父親であり、両親ともアテネ人でなければ市民権が与えられなかったアテネとは対照的でした。
いくらアテネに貢献しても両親ともアテネ人でなければ市民権は与えられず、あの有名なアリストテレスも所有できませんでした。
被征民を虜にするローマの吸引力の源が、この間口の広い市民権と流動性のある身分制でした。
しかし、このシステムがアントニヌス勅令によって事実上に無力化してしまうと、これによりローマ帝国を一体化した紐帯の時代に導いてきたローマ・アイデンティティが失われていきます。
ローマ市民権は特権であり、栄誉と立身への明るい前途を約束するものであり、ローマの公共善を維持することに忠誠心や義務を抱く人々にとって、ローマ市民であることは誇りであり、目標でもありました。
誰もが市民権を得られるようになると、属州民は向上心を喪失し、元来 の市民権保有者は特権と誇りを奪われて、社会全体の活力が減退することになりました。
また市民権を得るためには帝国の住民でありさえすれば良いとなると、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民となって文明の恩恵を受けられると考えて、蛮族の大移動の大きな誘因にもなってしまいました。
しかも、ローマ市民権の相対的価値が急落し、命をかけて祖国を防衛する自負心が弱まり、ローマ軍の質的な低下が起こったために、蛮族の移動・侵略に対して、帝国の防衛線を防げない危機的事態が急増しました 。
実際にその後、間もなくして三世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝の時代に入り、地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、半世紀の間に正式に皇帝と認められた者だけでも26人が帝位については殺されるという混乱が続きます。😥
暗君が続いても崩壊の危機を克服し、復活してきたローマが許容範囲以上の打撃を受けることになります。
その後、上記のローマアイデンティの代わりとなるものの模索・試行錯誤の迷走が始まりますが、主輪を失ったローマの崩壊を止めることはできませんでした。
模索・試行錯誤の結果として、一神教であるキリスト教を「ミラノ勅令」により認容し、国教化していきますが、逆にローマの長所である寛容性を失わせ、滅亡に導いていきます。
ローマ崩壊後、西欧地方は貨幣経済が衰退し、自給自足の中で貴族制・封建制の血縁を中心としたクループ主義、武力による領土争い、固定的な階級社会となり、いわゆる暗黒時代という戦争の時代が続きます。
貨幣経済や交易が衰えた中では、自らの資源だけで生きていかなければならず、絶えず略奪的襲撃が行われる時代でもありました。
また宗教的に寛容であったローマ帝国時代と異なり、この時代はキリスト教のカトリック教会が皇帝や国王を上回る権力を握り、人間形成や学問研究に対しても大きな支配権を所有していました。
カトリックは素晴らしい宗教です。
最も尊敬すべき歴史的人物ともいえるケネディ大統領もカトリック教徒であり、現代のローマ教皇が世界的な平和・公益に大きく貢献されていることはだれもが認めるところです。
しかし、どんな宗教・思想も長所もあれば短所もあります。背景となる時代・環境・状況下によっては大きく+(プラス)に作用したり、-(マイナス)に作用したりします。
聖書は一般の信者の人々には与えられず、またラテン語で読まれたため、一般の人々には理解されませんでした。
よって信者は聖書に救いや信仰の拠り所を求めるのではなく、教会に求める形となります。
カトリック教会は教皇を頂点とした階層制組織を築き上げていたために、教皇を中心とした一部の聖職者上層部グループの裁量・主観的判断によって、一方的に教義を決定し、信者も教会やローマ教皇の言うことはすべて正しいと疑うことなく信じ切っていました。
ローマ教皇が最高権力者、信仰については全ての誤りから免れ、守られている者、彼への忠誠は救済の絶対条件でカトリック教会の聖職者のみが祭司の権威を持ち、神の恵みを与えて、罪を赦す権威を授けられているという理解は、聖書に反するものであり、またカトリックの儀式や教えの中にある現象の多くが、聖書の中に書かれてなかったり、禁じられている事柄も含まれていたりしました。
特定のグループの裁量・主観的判断に大きな権限を与えた時は、前述したとおり、歴史的にみるとほとんどのケースで癒着・腐敗が進行してしまっています。
実際に、時代が経るにつれ、教会の世俗化や腐敗・堕落は進行をしました。
カトリック教会は、信者に対しては蓄財や富に否定的な考え方を示し、清貧を強いて、貯蓄よりも寄付を誘導しため、貨幣経済が浸透しにくい状態が続きました。
原始時代や山奥の点在した集落などの集団同士の接触がほとんどない状態でなければ、貨幣経済が発展しない自給自足の社会においては、天候不順などで食料や資源が欠乏した時、略奪的行為や紛争が頻発する傾向があります。
交易・流通が発達せず、各自が欠乏したものと交換可能な価値の通貨などの蓄えがないと飢饉にもなりやすく、さらに略奪や紛争が起こりやすくなってしまいます。
貨幣経済が衰退していたために富の基本が土地であった時代において、教会が所有する土地は西ヨーロッパの20%から30%までなり、教会は極めて裕福で巨大な組織となりました。
救いを得るために、有力者や諸侯は教会に寄進しただけに留まらず、次男や三男を聖職者とし、寄進が大きいほど高い地位に就けたために、競って寄進が行われ、既得権益との融合・腐敗は進展していきました。
この時代はカトリック教会の絶対主義の中、停滞と紛争の暗黒時代と呼ばれています。
次に東世界に視点を移していきます。
努力すれば報われるシステムや公平性の中で最も野蛮で望ましくない方法は封建時代における戦いにおける土地などを報酬とする制度でしたが、それに代わる方法が隋の時代の中国で見られるようになります。
初歩的な条件的客観的評価システムである科挙制度です。
科挙制度が成立するまでの中国では、人材の選抜法として郷挙里選や九品官人法などの有力豪族や貴族による血縁やコネにより事実上人事権が握られた主観的な選抜法 が採用されており 、当然のことながら、腐敗、賄賂が横行する不公平なもので、対立、紛争が多発する状況下にありました。
春秋戦国時代、三国志時代 、五胡十六国、南北朝時代と王朝と王朝との間には何百年と続く内乱と戦国の時代は続き、王朝の成立期間であっても 非常に内紛にまみれたものでした 。
この状況下で人材登用という点で歴史上極めて画期的なシステムが登場します。人材登用の客観的評価システムの中では極めて初歩的で内容的にも問題の多いものでしたが全くない状態から初歩的でもある状態の変化はそれだけでも劇的に新しい時代を切り開いていきます。
何百年という戦乱 を統一した隋の文帝により、実力によって官僚を登用するために九品官人法は廃止され、それに代わる官史登用制度として科挙が始められました。
科挙は試験による官史登用制度で中国では元の時代に一時期中断されたのを除いて、清代まで1300年間にわたり続けられました。
科挙が本格導入された宋の時代以降に中国では王朝から王朝までの何百年における内乱・戦国時代は見られなくなりました。
内乱や王朝交代期における短期間の戦乱は存在しましたが、度合いはかなり減少しました。
今まで貴族間の武力闘争を中心に行われてきましたが、その中心の中に科挙の受験勉強という要素が大きくウエイトを占めることによって当然争いの度合いも減少することになります。
科挙導入によって、宋の時代の市民たちの享受していた豊かな生活・文化の質は世界に比べるものがない程になり、農業中心だった中国が飛躍的な商業の発展を見せ、流通システムが伸び、印刷術が文化を広く伝え、首都だけでなく地方にも商工業都市ができました。
しかし、条件的客観的評価システムの欠点は、結果的客観的評価システムのコントロールが働かない状態で制度が一度定着すると、それによって創られた組織、つまり官僚機構が固定的に硬直化し、公益に反してグループ主義に特化してしまう性質があります。(詳しくはこちら)
これを改善・改革するには極めて強力な反発があり、改革者は強い憎しみを受けます。
人々の幸せや国力の増加と客観的評価システムの相関関係を見て行くためには、先ずは集団欲とそれを制御する客観的評価システムというものが人類社会にどう深く影響を与えていくかを、人類の成り立ちから考察していく必要があります。
鋭い牙も爪も持たない人類が他の大型獣に打ち勝って生存できたのは、集団を形成することで初めて獰猛で強靭な獣と拮抗し、凌駕する術を得たからで、その本能として集団欲が深く根付きました。
人類は肉食獣的な個々もしくは一家族を単位とするよりも、草食獣的な集団を単位として生存競争を潜り抜けて社会的動物であり、集団や群れこそ実態とも言えます。
外部に攻撃対象を置くことによって、集団は内部の結束を強めます。内部の結束を強めることでさらに外部への攻撃は強くなります。この循環を繰り返し、集団はより強固なものとなっていきます。
しかし、これらが原始時代の肉食獣など他の動物に対して発動するのならともかく、人類が長い期間をかけてこれらの敵に対してほぼ克服し、もしくは生存において優位な立場になった時、つまり人類の人口が大幅に増え、他の多数の動物の中の孤立した集団ではなく、人間同士の集団が接し合うようになると、人類の集団の攻撃対象は人類の集団同士になってしまいます。
人類の集団同士の争いの中、集団は村を、村は小国をそして公(おおやけ)としての国を形成していきます。
国を支配する一族やグループは当然、特権や利益を得又差配する権限を所有することになります。これらは主に武力によって獲得されたもので当然に他の別グループによって同様に武力によって覆すことも可能となります。
実際にそうやって長い間中国は王朝と王朝の間に何百年という内乱の時代を必然のように含有し、王朝時代期間内にも常に政権内の武力的な紛争を抱え込んで行きます。
グループ同士、集団同士の争いは当然に公(おおやけ)としての国の力を落とし、属する個の人々の不幸に直結します。
内乱の時代は人口が激減します。生存するのが極めて困難な悲惨な社会となります。
つまり、原始時代のように人口が少数でそれぞれ孤立した集団しかない時ならともかく、人口が増加して多数の集団が融合した公(おおやけ)が構築されると公(おおやけ)内の 利権を巡って、しかも公(おおやけ)全体の公益を蔑ろにしながら、集団同士が争う傾向が非常に強くなります。
これをを避けるためには、公益と個また公益と集団を直接リンクさせる特別な仕組みが必然となります。
その仕組みがないと 、人類の歴史上、極めて長期間生存本能として強く機能し、実際他の肉食獣に対して有効に役目を果たしてきた集団欲が、原始時代を脱した時代においては、個と集団を密接にリンクさせ、公と個、公と集団のリンクを蔑ろにしてしまう結果となってしまいます。
その仕組みが客観的評価システムというものになります 。客観的評価システムというものには、公と個・集団それぞれと直接リンクさせていく働きがあるからです。
逆に言えば、客観的評価システムを質・種類ともに整備を充実させていくことが、グループ同士、集団同士の争いを制御し、人々を幸せにし、国力を増加させることになります。
いろいろな客観的評価システムの例を挙げて行くと、
古代中世において東洋一の大国として巨大な統一国家を形成・維持した中国は科挙制度(詳しくはこちらをクリック)
古代中世の西欧において最大の繁栄を誇ったローマ帝国では補助兵を25年間勤めればローマ市民権が与えられた制度(詳しくはこちらをクリック)
近代世界の覇権国となったイギリスは民主主義から派生する政権党の政治に対して多数の国民による選挙における支持率という評価と政権を任せるという報酬制度(詳しくはこちらをクリック)
小国ながら世界最先進国となっている現代のシンガポールにおける官僚などの賞与と GDP 成長率とを連動させる制度(詳しくはこちらをクリック)
ドイツをヨーロッパ最強の近代国家の一つに躍進させ、日本をアジア最強の近代国家とさせたメリットシステム(詳しくはこちらをクリック)
英国病から脱出させた現代のイギリスにおける数値指標により業績評価・報酬をするエージェンシー制度(詳しくはこちらをクリック)などです。